一○一号室の住人、砂川隆史
「痛みますか?」
武内が気遣うと「いやぁ、かすり傷です」と砂川隆史は笑った。実際軽症であった。包丁は砂川の左脇腹をかすっただけで入院の必要もなかったようだ。しかし大事を取って、今日は仕事を休んだようだ。
昨夜、砂川は二○二号室の前に立っている岩壁美千代の姿を見たと言う。残業を終えて、まさに自宅である裏野ハイツの前にたどり着いたときだった。岩壁美千代が二○二号室に入っていくのを不審に思いはしなかったそうだ。
「二○二の岸田さんのことは、岩壁さんから少し聞いていたんです。岸田さんは心のバランスを崩しているから時々様子を見に行くようにしていると言っていました。だから昨夜も時間は遅かったですけど、そういうことなんだろうと。でもドアを開く音が聞こえたと思ったら、異臭がしたんです。嗅いだことのない臭いで、それで何かおかしいなと思って、二階に駆け上がったんです」
そして砂川は岩壁美千代に刺された。
警察が駆けつけたとき、岩壁美千代はすでに自殺をはかっており、腐敗した岸田耕作の遺体に覆いかぶさるようにして息絶えていた。
当初、岸田は岩壁美千代に殺されたのではないかと考えられたが、検死の結果、岸田は自殺とわかった。岸田の手首にはためらい傷があり、風呂場からは岸田の血痕と手首を切るときに使ったと思われる剃刀が見つかった。
しかし岸田の遺体は風呂場ではなく、玄関を入ってすぐの部屋にあった。岩壁美千代が岸田を発見したとき、岸田にはまだ息があって、部屋に移動して応急処置を試みたのだろうか。わからない。
「刺された理由に心当たりは?」
砂川は首を横に振った。
「岸田さんの遺体が見つかるとまずいと思って、苦しまぎれにやったんですかね」
「やましい思いはなかったと思います」そう言って、砂川は少し考える素振りをしてから続けた。「岩壁さんは責任を感じていたんだと思います。遺体を見られたくなかったのは、岸田さんの死を受け入れられなかったからじゃないですかね」
「刺されたのに憎くないんですか?」
武内がそう尋ねたのは、砂川には岩壁美千代を恨むような口ぶりがまったくなかったからだ。
「憎むなんてとんでもない。むしろ感謝しているくらいです。岩壁さんや岸田さんが亡くなっているので、こう言うのはなんですが」
きまりの悪さを誤魔化すように、砂川はキッチンでお茶を沸かしている青年に声を掛けた。
「和成、お茶できた? 持ってきて」
和成と呼ばれた、二十代前半くらいの色白の青年は、お盆に砂川と武内達の分の湯のみを三つ載せて持ってきた。
砂川が脇腹をさすりながら言う。
「私がこんなことになって、こいつが外に出るようになったんですよ。今朝、スーパーまで買い物に行ってくれて。その、私達はあれなんです。あれなんで、和成は恥ずかしがってずっと外出しなくなっていたんですよ」
「あれ、というのは?」
「あの、私は髪の薄いおっさんでかっこよさの欠片もないっていう」
砂川がそう言うと、和成は舌打ちした。
「えっと、つまり?」
まったく要領を得ず、武内は首をひねった。
「恋人ですよ」
和成がぼそりと言った。
「それです」
砂川が顔を赤らめて俯いた。
下を向いたまま、砂川は続けた。
「ここで一緒に住むようになってから、和成は外に出なくなっていたんですが、今日、三年ぶりくらいに外に出たんです。不謹慎かもしれませんけど、岩壁さんのおかげですよ」
武内達はこの後、和成からも事件について少し話を聴いた。自殺が二件に傷害事件が一件。その傷害事件の被疑者はもう死亡している。あとは二○三号室の住人から話を聴いて、送検する書類を作るだけだ。もっとも送検したところで、被疑者死亡のため不起訴になるが。
砂川宅を辞するとき、玄関先で武内は尋ねた。
「ところで二○三号室の方は何時頃お戻りになるかわかります? 先ほど訪ねたんですが留守のようで」
「二○三は空き部屋ですよ。二年くらいずっと空いたままです」




