ゴールテープからのスタートライン
「あぁ……やっと終われる。」
ベッドの上で深く息を吐き出しながら、私は心の中で静かに呟いた。
今年で五十九歳。親を見送り、姉への義理も果たし、手塩にかけて育てた二人の子供たちもすっかり自立してそれぞれの家庭を築いた。
若かりし頃は「一生一人で生きていくため」と血反吐を吐く思いで看護師の国家資格を取り、多忙を極める現場で走り回ってきた。結婚願望ゼロだったのに、なぜかひょんなことから結婚し、母となり、気づけば今日まで駆け抜けていた。
本当の私は、筋金入りの干物女だ。
一人でいられるなら、一日中パジャマのままベッドから出ず、怠惰の限りを尽くしてゴロゴロしていたい。けれど、持ち前の損な性格と無駄に強い責任感のせいで、周囲の期待や仕事、家庭の義務もこなし続けてしまった。
「いつまで生きれば、この責任から解放されるんだろう」
「五十五歳くらいまで生きれば十分じゃないかな」
いつしか私の人生の目標は、幸せになることではなく「無事にゴールテープを切ること」になっていた。
薄暗い病室の天井を見上げる。
胸を満たしているのは、静かで透明な安心感だった。
――ここまで頑張ったんだから、もう大丈夫だよね。
――私、ちゃんとやりきったよね。もう、許されるよね。
誰のためでもない、私自身の人生に「お疲れ様」を告げる。
まぶたがすうっと重くなり、意識が心地よい暗闇へと溶けていく。
あぁ、これでやっと解放される。何の義務もない、静かな永遠の休息だ――。
……そう思っていたのに。
「おぎゃあぁぁぁぁっ!?」
次に意識が浮上した瞬間、喉の奥から飛び出したのは情けない叫び声だった。
いや、正確には「おぎゃあ」という高い泣き声だ。
(……え? なにこれ、何の音!?)
慌てて目を開けようとするが、まぶたが異常に重い。視界はぼやけ、周囲の色彩すらろくに判別できない。
それどころか、自分の意思で手足すら満足に動かせないのだ。ふにゃふにゃとした頼りない感覚。口の中に広がる、なんだか甘くて生温かい液体の味。
「見て、あなた! 私たちの愛しい赤ちゃんよ……!」
「なんて可愛らしいんだ……! おいで、私の天使」
頭の上から響く、聞き覚えのない言語。……なのに、なぜか意味だけはすんなりと理解できてしまう不思議な感覚。
柔らかい布に包まれた身体が持ち上げられ、温かく優しい匂いのする腕の中に抱きすくめられた。
ぼやぼやとした視界の向こうに映ったのは、金色の髪をなびかせた人間離れした美女と、いかにも良家のお坊ちゃんといった風貌の極上イケメンの顔だった。二人は涙を浮かべ、心底愛おしそうに私を見つめている。
(待って。待って待って待って)
元看護師としての知識と観察眼が、現状の異常さをコンマ一秒で弾き出した。
このサイズ感。効かない視界。コントロール不能な運動神経。そして、明らかに現代日本ではない豪華絢爛な部屋の装飾と、両親のファンタジーすぎるビジュアル。
(嘘でしょ……? 私、赤ん坊になってる……!?)
血の気が引く感覚がした。いや、正確には赤ん坊の小さな心臓がトクトクと激しく脈打っている。
転生。異世界。
ラノベや漫画で聞いたことのある単語が、怒涛の勢いで脳内を駆け巡る。
(なんで!? もう五十九年フルスロットルで走りきったじゃない! 親への責任も、子供への責任も終えて、普通に平穏にやっと……やっと終われたのに!!)
人生リセット。二周目スタート。
あまりの仕打ちに、私は心のなかで泣き叫んだ。
(冗談でしょ! またゼロから人間関係築いて、勉強して、働いて、誰かの責任背負うなんて無理!頑張れない! !何の罰なのよ!)
抱きしめてくれるお母様(仮)の温もりに包まれながら、私の心は限界突破した。そして、キレた。
心の中で硬く、強く、血を吐くような思いで決めた。
今世の目標はただ一つ。
「何もしない。裕福な実家に全力ですねをかじり、究極のニートとして一生布団の中でゴロゴロしてやる!!ごめんなさい。私の新しい両親様」
だが、この時の私はまだ知らなかった。
染みつきすぎた「元看護師の職業病」と「生真面目な損くじ体質」が、今後の私の怠惰計画をことごとく粉砕していくことを。




