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VAT  作者: わたなべ
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3/3

3, Goody Two Shoes

しかし彼女を何より元気づけたのは、新しい靴だった。靴職人が靴を届けるやいなや、彼女はそれを履いて牧師夫人のもとへ駆け寄り、靴を指さして叫んだ。

「奥さま、靴が二足あるの! ご覧になって、靴が二足も!」

彼女は出会う人ごとに同じ言葉を繰り返したので、やがて皆から「Goody Two-Shoes(お利口さん)」と呼ばれるようになった。


ー『グッディ・トゥー・シューズ』、ウォルター・クレーン著

 あれは確か、二度目に誰かを見殺しにした日だった。


 ベルベットのクッションに、どこまでも体を飲み込む食虫植物みたいなベッド。

 悪趣味な高級ホテルのような部屋の中、不釣り合いに小さく蹲って、少年は声を殺して泣いていた。


 その隣のふかふかベッドに腰掛けて、少年がもう一人、ぷらぷらと退屈そうに足を遊ばせていた。ときどき柔らかいシーツに沈みこんで足をバタつかせる。


 微動だにしないで蹲る少年を彼はチラチラと眺め、やがて大げさにため息をついた。


「だから言ったじゃん。(ロン)はヒーローにはなれないって」


 頭上で響いた笑い声に少年、龍は思わずぱっと顔を上げた。

 もう一人の黒猫のような少年、睿の瞳は愉快そうに爛々と揺れている。


 龍の無力感と悲しみの綯い交ぜになったような顔に怒りの赤い色が差した。


「……そうやって人のこと馬鹿にするの、いい加減にしろよ」


 しかし、龍に凄まれた睿は表情を崩さず、いくらか憐れむように口を開いた。


「忠告してあげてんじゃん」


 トクトクと火に油を注ぐような睿の言葉に、龍は思わず声を荒げる。


「黙れよ。そもそも僕は最初からこんなの間違ってるって」


「ねえ」


 聞き分けのない子どもに痺れを切らした大人のような、静かに乱暴な声が龍の口を塞いだ。

 びくりと動きを止めた龍へ、絡め取るようにゆっくりと睿は近づいていく。


 瞬間、ひたりとした声が呪いのように龍の頭に焼きついた。


 ねえ。


 ねえ、龍。


 ✗✗✗✗✗✗✗✗?


   ***


 トンと誰かの手が肩に触れて、龍はハッと我に返った。

「あ、えと、どうかしましたか?」


 慌てて振り向くと、ゼノが不思議そうに首を傾げていた。


「ぼーっとしてるから。疲れた?」


「あ、いや大丈夫です。びっくりしちゃって」


 ごまかすように、へへっと笑えば、ゼノの顔はむしろ訝しそうに潜められる。じいっとまん丸い両の目が向けられて、龍は思わず、この人も猫に似てるなあ、なんて関係ないことを思った。


 警戒心バリバリの猫は、大方初対面と今の自分のギャップに驚いているのだろう。


 こいつ、ほんとに頼りないな。

 あんときはまぐれか?


 そんな言葉が口を開かずとも聞こえてくるようだった。


 まあいいや、とゼノが踵を返すと、龍はほっと小さく息をついた。

 純粋で人が良いが世事に疎い、無害な異邦人の能力者。任務中にぼんやりしてしまったのは良くなかったけれど、そのおかげで自分の表向きのキャラクターをイメージづけられた気がする。


「だーからさっさと口割れって。あんたもう詰んでんだから。分かる?」


 路地の奥では、だんまりを決め込む男にエースがしびれを切らしているところだった。苛立ったような舌打ちが一つ、陰鬱な路地に響く。


「ゼノ、奥の手」


 奥の手?能力を使うのか?


 龍が様子を見守る中、ゼノはパラパラと手元の資料をめくり始めた。

 一枚をバインダーから引き出すと、ゼノは唐突に抑揚のない声で音読し始めた。


「……えっと、洗ってない靴下の匂いフェチ。脱ぐたび匂い嗅いでる」


「……今なんて?」


 ちらりとこちらを一瞥したあと、ゼノは気にせず続ける。


 そうして、ギリギリ、いやすでに公衆の面前ではアウトなものもかなり混ざった男の趣味嗜好が列挙されていく。


 はじめはゲラゲラと笑っていたエースも徐々に顔をしかめて、ついには「うおお……」と呻くような声を上げていた。


 な、なんだこの人たち。


 自分の中の正義の味方像が音を立てて崩れていく。数分前、「ヒーローみたいなことがしたかったんです」と口にしたとき、だからあんなに引っかかるような言い方をされたのか。


 ふと、気になってちらっと男の方を見ると真っ青な顔をして震えている。

 当たり前だろう。ショックで反論さえできないに違いない。


 だめだ、僕には守備外すぎる。

 龍はこのカオスな状況になす術なく天を仰いだ。


「もうやめてくれっ!」


 龍が思考を放棄した直後、男が悲鳴のような声を上げた。


 思わずびくりと肩を震わせた龍とは対照的に、ゼノとエースは慣れたように「おっ」っと声を上げると男に向き直った。


「口、割る気になった?」


 ゼノの言葉に男はコクコクと頷く。


「骨ねえなあ、あんた」


 プルプル震える男を見ながらエースはニタリとまた笑みを浮かべた。


「何?これより聞かれちゃまずいことあんの?」


 可哀想にぷるぷる震えている男で遊び続けるエースを尻目に、龍はこっそりとゼノに尋ねる。


「あの、情報源って」


「ポール」


 それから、「用がないならあいつにあまり関わるな」とありがたい忠告を頂いた。 

 

 ゼノは龍から離れると男で遊び続けるエースの方へ寄っていった。

 そのまま男の前にしゃがみ込んで視線を合わせる。瞬間、ゼノの纏う空気がわずかだが確かに変わった。


「雇い主と目的は?」


 男の態度が急に、今までとは違った怯えをはらむ。あ、そっちが本題だったとでも言わんばかりのエースはさておき、龍も気づけば体中に鳥肌が立つ始末だった。


「お、俺ぁ雇われだから詳しくは知らねえよ」


「どこの?」


 間髪入れずにゼノの低い声が響く。ビリビリと緊張感が肌に走って痛む。瞬時に悟った。これは、殺気だ。


「そこまでは知ら」


「じゃあ俺たちを[[rb:尾行し > つけ]]てた目的は?なんて言われた?」


 淡々と畳み掛けるゼノの圧に男は狼狽えるばかりで何も言わない。否、何も言えないのだ。


「ゼノーお前やりすぎー」


 埒が明かないと判断したのだろう。一歩引いて面白そうに事の成り行きを見守っていたエースがここにきて間に割って入ってきた。それを合図にゼノの殺気がすっと消える。


「こいつ見た目の割に強いから、痛いの嫌だったら早く言ったほうがいいよ」


 そう言ってゼノを指差して見せると、エースは男の肩を叩いた。


「あんたさ、普段はこんな危ない案件関わるようなタマじゃないだろ?」


 エースの言葉に男は力が抜けたように俯いた。やがてポツポツと悪事がバレた子供のように彼は答え始める。


「お、お前らを襲ったのはたまたまだよ……俺らを嗅ぎ回ってる連中がいたら市民でも警察でも好きにしていいって言われてるから……」


「好きにしていいって、こんな感じ?」


 突然高らかに響いた声を合図に、男の様子が一変した。


 何かに怯えて逃げ出そうとして腰を抜かす。そしてその場で金切り声を上げ、ついには泡を吹いて倒れた。


 振り返れば、路地を塞ぐように二人組の男が立っていた。

 一人はかっちりしたツーピースを着こなした、生真面そうな男。スラリと背が高く筋肉質で、レオナルドを思わせる恵まれた体躯だが、顔色が見るからに悪く、目の下にはクマが浮かんでいる。

 もう一人は髪の毛を薄くピンク色に染めて、オフィスよりも社交場の似合いそうな洒落たスーツを羽織った男。指先や耳元にはきらきらとアクセサリーが光る。雰囲気から見るに先ほど声を上げたのは彼だろう。


「お前、こいつに何したの?」


 気の毒そうに足元に倒れた男を一瞥した後、エースはピンク髪の男の方を見据えて尋ねた。


「え〜なあんにも?勝手に苦しんでるだけだって」


 クスクスと彼はおかしそうに口元に手を当てて笑う。

 と、その肩をもう一人がトンと叩いた。神経質そうに顔をしかめると深くため息をつく。


「やりすぎだよリュニシュカ。騒がれたら困る」


 リュニシュカと呼ばれた彼はつまらなそうな顔を浮かべるとため息をつき返してみせた。


「お硬いんだからっ。はあ〜い」


 そのままリュニシュカはこちらに向かって歩いてきた。ふわりとムスクの香りが風に舞う。あっと龍が思うより早く、軽やかにゼノと自分の間をすり抜けると、微動だにしない男に手錠をかける。


「げんこーはんたいほー♪」


 あっけにとられている間に今度はもう一人の男がこちらにやって来る。ガサガサと胸元のバッチのようなものを外してみせた。


 ACDの文字の並びをこの異能社会で知らない者はいないだろう。Ability Control Department、国が各市警や州警察に配置した、異能者の統括部隊だ。


「あなたたちも。ここは市街地です。派手に騒がれると市民に迷惑がかかる」


 男は憂鬱そうに三人の顔をそれぞれ眺めると、咳払いを一つした。


「全員署まで同行願えますか?」


 まずいことになったのでは?

 慌ててゼノの方を見ると、困ったようにゼノもエースの方を向いた。行かねえ行かねえとエースは面倒臭そうに顔の前で手を振って返してくる。


 しかし、相手は国家権力だ。先ほど男にしたように手荒な真似は到底できないだろう。

 何か切り抜ける策はないかと龍が必死に考え始めたその時だった。


「ちょっと待ったー!」


 路地の入り口、目の前の男の立つ更にその奥。慌てて飛び出してきたせいか、はあはあと息をつくのに合わせて赤毛の尻尾がぴょこぴょこと踊っている。


 息を切らしてこちらを睨むのは、事務所で別れたはずのアレックスだった。一歩引いたところにはレオナルドも立っている。


 突然のことに、倒れた男を除いてその場にいた全員の視線がアレックスに集まる。


「え、あ、えっと」


 注目を集めてしまったのに気がついたアレックスは、急にしどろもどろになり始めた。


「レオナルド!この後どうすればいいの!?」


「いや勝手に飛び出してったのお前な」


 コメディのようなやりとりに次第にVATの面々の緊張感が失せていく。


 反対に二人の登場に先ほどまで威厳を見せていた男は慌てて姿勢を正した。


「先輩、なんでここに?」


「悪いな、ラルフ。そいつら、俺のツレなんだ。今回だけ見逃してくれないか?」


 レオナルドの言葉に、ラルフと呼ばれた男は叱られた子供のような頼りない顔を浮かべた。どうしようかというようにキョロキョロと視線を泳がせる。


「ちょっとちょっと何言ってるの?」


 見兼ねたようにリュニシュカが割って入ってくるが、ラルフはそれを制止する。


「いや、いいんだリュニシュカ、この人は……」


   ***


「え、レオナルドさんてACDの警官だったんですか?」


 大げさに素っ頓狂な声を上げた龍にレオナルドは苦笑混じりに頷いた。


「三年も働いてないけどな」


「そんな、すごいことですよ!」


 事務所の時計の針は、一直線に六時を指していた。外はすっかり日が暮れている。


 あれから、なんとかあの場を切り抜けて事務所に戻ると、資料まとめもそこそこにゼノたち三人はテレビゲームを始めてしまった。ああいう場には慣れているのだろうか。解放されてすぐも、アレックスの好きな女子について議論していた。


 ぶつくさとそんな三人の文句を言うレオナルドの手伝いを龍は買って出た。

 はじめは何か後に役立つような情報が手に入らないかと思っていた。しかし、時間が経つにつれ、何気なく聞いていたレオナルドの昔話の方に夢中になってしまっていた。


 手元の書類から顔を上げたレオナルドは、龍に向き直るとそういえばというふうに口を開いた。


「龍は……人の役に立ちたいのか?」


「え?」


 龍は少し驚いたような顔してから、遅れて恥ずかしそうに俯むいた。


「はい」


 視線を手元にソワソワと走らせていたその間、レオナルドが少し複雑そうな顔で自分を眺めていたのを龍は気が付かない。


「……そうか。頑張ろうな」


 頭上で響いた優しい声に顔を上げると、にっこりとレオナルドがこちらを向いて笑っていた。


「はい!」


 胸の中にじんわりと、長らく忘れていた熱が伝っていく。ぱあっと自分の顔が輝くのを感じる。今だけでも自分の責務を忘れるほど、満ち足りた気持ちだった。


「レオナルド、電話鳴ってる」


「ありがとうな。今行くぞ」


 悪いな、と龍に声をかけて、ゼノの呼びかけにレオナルドは席を立った。


 頷いてから、レオナルドが戻ってくるまでに少しでも作業を終わらせておこうと手元の資料に視線を戻したそのときだった。


『ねえ、またいい子気取り?』


 一人になった瞬間を待っていたように、ひたりとした呪いの声が、また頭の中を蝕んでいく。


 ハッと顔を上げるが、もちろんそこに広がるのは代わり映えない事務所の景色。

 ベルベットのクッションもどこまでも沈んでいくようなベッドも部屋中に蔓延る冷たい高級感もここにはない。


 そう、ここにはない。

 ここはあの部屋じゃない。

 ここにはあいつはいないのに。


 龍は再び視線を落とした。温まった心を冷ますように悲しみが覆っていく。

 忌々しさもあったかもしれない。どこに行ってもあの言葉に縛られている自分、そして言葉そのものに何度いらだち、疎ましく思ったか分からない。


 僕は本当にここで新しい人間になれるんだろうか。


   ***


 翌日、昼下がり。

 エースが事務所に顔を出すと、玄関脇のキッチンでレオナルドが首を傾げていた。


「ダヴィンチ?」


 声をかければ、おっというふうにレオナルドはこちらを向いた。が、すぐにまた怖い顔をする。


「俺の名字はダヴィンチじゃないっ!」


「わーってるって。で、どうしたの?」


 場所からして彼が何に困っているのかエースは察しがついたけれど、すっとぼけてみせることにした。


「この間買っておいたクッキーがないんだ。明日いらっしゃるご婦人のお気に入りのやつなのに」


 当たりだ。

 ボロを出さないように、エースはわざと大げさに気の毒そうな声を作った。


「まじ?買いに行った方がいんじゃねえの?ストックにもなるし」


 レオナルドは深くため息をつくと、戸棚を閉めた。


「まあそれもそうだな。よし、そうしたら多めに色々買ってくるから店番頼む二人とも」


 二人とも?

 怪訝に思ってエースが辺りを見渡すと、事務所の奥の方から癖のないブロンドが覗くのが同時だった。

 ポールだ。電話の応答中らしく、一瞬で戻っていく。


 それは計算外だがまあこいつなら問題ないだろう。


 出かけていくレオナルドを見送ると、エースは事務所の奥へ足を進めた。


 そうして、今しがた受話器を置いたポールを遮るように電話帳の裏に手を伸ばした。

 出てきたのは、小洒落たデザインの菓子の箱。


「君、そんな食い意地張るキャラだっけ?」


 箱の存在に気がついていたらしく、ポールは毒づいた。


「止めなかったってことはお前も食いたかったんだろ」


 にたりと笑うと、エースは箱の中身を一枚ポールに握らせる。


「はい、同罪」


 ポールは一瞬黙って手の中のクッキーを見つめると、エースの口元に運んだ。


「甘いもの食べないんだよね」


 つれねえやつ。

 突き返されたクッキーを咥えながら、エースは鼻を鳴らした。


 電話の置いてあるデスクの上にはたくさんの資料が広げられている。そのすべてにポールの字でメモや推論が記されていた。

 

「なんか掴めそう?」


「申し訳ないけれど僕も多忙だから急激な進展はないよ」


 そう答えると、ポールは鬱陶しそうに前髪を梳く。じとっとした目でエースを見ると不満げに口を開いた。


「それより僕だけじゃ無理があるから昨日君に頼んだんだけど、ACDに横取りされたらしいじゃないか」


 しかし、ポールの話はエースの耳をすり抜けていく。昨日、そうだ昨日。エースはあのときなんとなく覚えていた違和感を思い出した。


「どうしたの?」


 いつもならのらりくらりとここで何か言ってみせる自分が黙りっぱなしなのに、ポールから怪訝そうな声がかかる。


「引っかかるんだよなあ」


 独りごちるようにエースは言った。


「何が?」


「新入り。ゼノ助けたっつー割には動き悪いし、なんかこう素性も薄っぺらそうだし。それに、留学生でもウチの大学の学生なら俺が知ってるはずなんだよな」


 疑問を吐き出し切るとエースは釘を差すようにポールを一瞥した。


「まだよくわかんねえうちにあんま下手に情報渡すんじゃねえぞ」


「渡さないよ。僕は馬鹿でもお人好しでもない」


 間髪入れずにポールが返した。その視線は数年前何かのきっかけに撮ったVATの集合写真に向けられている。


 エースは堪えきれずに噴き出した。


「おまっ、あいつら泣くぞ……まあ事実だけど」


 そのとき、その隣の固定電話がけたたましく鳴り響いた。慌ててポールはそちらに視線を移す。


「はいもしもし」


 続けて、取引が何とか。港のルートが何とか。


 全く誰と話しているんだか。


 いや絶対こいつただの院生じゃないだろ。

 エースはクッキーをかじりながら思った。


 電話は短かった。

 まだ三枚もクッキーを食べ終わらないうちに、挨拶をして受話器を置くとポールはこちらを振り返った。


「悪いんだけど、クッキーのことは黙っておいてあげるからみんな集めてきてくれない?」


   ***


「本当なのか?組織のしっぽを掴めたって」


 招集をかけられた面々が席に着く中、口火を切ったのはやはりレオナルドだった。


 落ち着いた声色を聞くにあくまで事実確認。そこまで期待はしていないのだろう。捜査が振り出しに戻るのはここにいる全員慣れている。

 珍しく同感だと思いながらゼノはあくびを噛み殺した。


 反対に隣に座ったロンはやけにソワソワしている。不謹慎ながらわくわくするとでも思っているのだろうか。

 朝キャンパスで見つかってしまった時点でもう無理だった気もするが、こいつは連れてこないほうがよかった気がする。


「しっぽどころか首を取ったようなものだよ」


 ポールはまだ忙しそうに地図や資料から顔を上げないまま答えた。


「名前がわかったんだ」


 そう言うとやっと手を止めてポールは「B・U・G・G・E」と書かれた紙を差し出した。


 一拍置いて、ゼノの心臓がドクンと跳ねた。

 思わずそっと輪から外れて肩で息をする。


「バグ?」


 アレックスが不思議そうに声を上げるのが遠くに聞こえる。


「アホそれだと後ろの二つが余計」


 エースが訂正を入れるのもいつもだったら笑えただろうけれど今はそんな余裕は毛頭なかった。


 違う。


「Buggedでdをつけ忘れたとか?」


 今度はレオナルドの推測にポールが歯切れ悪く答える。


「……それはなんか気持ち悪くない?」


 違う。


「たぶん北欧系の人名だと思うよ。組織の長なのかそれとも」


 ポールがもっともらしく説明してみせる。


 でも、それも違う。


 全員あれこれと首をひねったまま、一向にゼノの様子には気が付かない。


「ここ辞書とかあったっけ」


 ポールの問いかけにレオナルドが立ち上がったようだった。


「ああオクスフォードと俺のイタリア語のなら……ゼノ、どうした!?」


 やっと名前を呼ばれたとき、ゼノはもうその場にしゃがみ込んでいた。

 あいにく、もうレオナルドの呼びかけは頭に入っていない。その脳裏には、目元と口元ががらんどうのブギーマンのお面が焼きついて離れない。


 B.U.G.G.E

 ブギー


 それはゼノがこの世で最もよく知る名前だった。

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