1, Xeno's Paradox
古代ギリシャ。
哲学者ゼノンは数々のパラドックスを残した。
1985年ボストン。
ただのゼノは何にも考えずいつまでも眠っていたかった。
はずだった。
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イラストレーターの神楽さん作画の漫画版が今冬からコミティアで随時発売される予定です。こちらはノベライズ版で50話くらいの予定です。
視界に広がるのは全くの暗闇だった。
ここはどこなのだろうか。
何も見えない。
何も聞こえない。
何も触れない。
顔も知らない母親の腹の中でさえ、もっと何かを感じたんじゃないだろうか。
そんな、この場において何の役にも立たなそうなとりとめのないことで思考を繋ぎ留めなければ、まるで死と同義のような状態であった。
いや、もしかしたらこれが死、そのものなのかもしれない。
ならばもういっそ、抵抗はやめて、この暗闇に身を任せてしまった方が。
瞬間、何も受け付けなかった鼓膜を無機質な電気音が叩き始めた。
まだだ、と言うように一定のリズムで。
何かの持続を淡々と告げるように。
やがて緩やかに視界に光が差した。
***
ドサリ、と重たい音に遅れて、頭が鈍く痛んだ。
視界の先では事務所の見慣れたの天井がゆらゆらと不自然に揺れている。
どうやらソファから落ちたらしい、と気が付くのにそう時間はかからなかった。
「起床!ゼノ!いつまで寝てるの!」
「……んー……」
床に転がる自分を不満げに見下ろすのは、亜麻色の短髪の大柄な青年レオナルド。
精悍な顔つきから想像にたやすい彼のよく通る声は、床に転がるゼノの耳を無情につんざく。
「お客さんが来るっていったでしょ!」
そういえばそんなことを夕べ聞いた気がしないでもない。……ないけれど。
「依頼人との交渉はお前の仕事だろ……」
覚醒しない頭のまま、ちらりとレオナルドにそう返すとゼノはまた寝返りを打った。頭上からは大きなため息が聞こえてくる。
構わずもう一度眠りにつこうとしたそのとき、ふと気配を感じて目を開けると、レオナルドの大きな手が胸ぐらに伸びている。
「だからって客人用のソファで寝るやつがあるかっ!」
浮遊感。無理やり体が持ち上げられる。
ついでに思いっきり頬もつねられた。
「……わーったよ」
いってー。聞こえたらまたどやされそうなので口の中で呟く。
レオナルドの怒声に今度こそ目が覚めたゼノは、赤くなった頬を擦りながらゆっくりと体を起こした。
***
数時間後、ゼノが昼寝をしていたソファには女性が一人座っているらしかった。
ミンジ、と名乗っていた。確か韓国系の名前だった気がする。
不安げに言葉を紡ぐ声は、少女とまではいかないが比較的若そうだ。二十代前半から半ばといったところだろうか。
「では、ご用件をお伺いしたいのですが」
向かいには、レオナルドが人の良い笑みを浮かべて座っている。見たまんま過ぎるその笑顔は、一周回って胡散臭い。言ったら面倒くさいことになるのは間違いなかったので黙っておいた。
「はい」
数秒間が開いて、やがて意を決したようなミンジの声がした。
続けてがさごそと音がしてレオナルドへ何かが手渡される。話の流れからして写真やIDだろう。
「妹が数日前から帰ってこなくて……警察の方によると、どうやら異能力者の事件に巻き込まれたようで、でもそれから先は教えていただけなくて……私……」
言い終えずにミンジは声を詰まらせてしまう。どうやら泣き出してしまったようだった。
「なるほどねえ……」
レオナルドの顔がミンジのすすり泣きに痛ましそうに歪んだ。一緒になって男泣きでもしそうな顔を他人事のように足元に寝っ転がったまま見上げていると、突然レオナルドの視線がこちらに向く。
「ちょっとすみませんね」
そう言うとレオナルドはソファから腰を浮かせた。やべっとゼノが思ったときにはもうバチっと目が合っていた。
本日二回目。胸ぐらをつかまれひょいと猫のように持ち上げられる。
「あのそちらの方は……?」
声のする方に視線を向ければ、ほとんど想像していた通りの小柄なアジア系の女性がこちらを見て目を瞬かせていた。
「はい。異能力者絡みの事件、災害担当のゼノです。内容を共有したいので同席させても大丈夫でしょうか」
されるがままにクッションに沈みながらあたりに目をやれば、テーブルの上には最近撮ったのか真新しい写真が一枚。前髪をぱっつんに綺麗に揃えた少女が何とも言えない表情で不思議なポーズをとっている。これが例の妹だろうか。
あれこれ考えていたら、ふいにつんつんと脇腹のあたりを突かれた。何か言えということらしい。レオナルドがこちらをにっこりと覗いていた。ミンジには見せない眉間のしわ付きで。
「……どうも」
一応挨拶をしてみると、恐る恐るといった風にミンジはぺこりと頭を下げた。
「ゼノ、少しはやる気を出しなさい」
お粗末な態度に痺れを切らしたようでレオナルドがすぐさま耳打ちしてくる。
「元からないものは出せません」
淡々と答えてみせれば、レオナルドは「はは……」と笑みを引きつらせた。
***
日も傾き始め依頼人との話し合いもあらかたまとまった頃、玄関のドアのベルが鳴った。
「おいゼノ~」
突然名前を呼ばれ、落ちかけていたゼノの意識は再び浮上する。億劫に思いつつ顔を上げれば、真っ赤に髪を染めた青年がこちらを見ていた。
「お前、また大学サボったろ」
うげっと思わずゼノは顔をしかめた。依頼どころか完全に大学のことも忘れていた。何もかもが面倒になってきて頭をソファにもたげ天を仰ぐ。
と、追い打ちをかけるようにまた声が飛ぶ。
「今日昼飯一緒に食べる約束してたじゃん」
目線をやれば、よく知った顔がもう一つ。彼が拗ねたように首を傾げれば、束ねた茶髪が尻尾のように揺れる。
「仕事」
ゼノは二人を一瞥するとひと言呟いた。
二人どころかレオナルドまで不満そうな顔をしていたが気づかないふりをする。
「みなさん事務所の方なんですか?」
ドアの方を振り返っていくらか明るい声でミンジが尋ねた。妹の捜索の目途が立ったからか、そもそもこの場に慣れてきたのか雰囲気が和らいでいる。
「はい!こいつがゼノと同じく異能力者絡みの事件、災害担当のエース」
「ども」
レオナルドにエースと呼ばれた赤髪の青年は慣れたように軽く返す。
「で、こっちがアレックス。もう少し軽めの事件や事故の処理をやってもらってます」
「お願いしまぁす」
アレックスと呼ばれた茶髪を括った方の青年は、エースとは対照的にくしゃりと人懐こい笑みを浮かべた。
「わ、すごい」
ミンジは面々を感心したように眺めると、申し訳なさそうに視線を落とす。所在なさげに髪をくるくると指でいじりながらやや逡巡した後、ためらいがちに口を開いた。
「すみません、小さな事務所だったので私勝手にお二人だけなのかなって実はちょっと心配になってしまって」
その言葉にレオナルドはドンと自分の胸を叩いた。
「心配ありませんよ。今は二人外していますけど、社員は六人いますし。税金管理から異能犯罪まで我々VATが何でも解決しますから」
異納税の軽減の斡旋事業。
別名、脱税ギリギリのちょろまかし。
二年前、レオナルドの開いた便利屋が異能力者のコミュニティで有名になったのはこの仕事のためだ。
異能力者は人口のおよそ8%、左利きと同じくらいの割合で生まれる。
こうした人々は、人種、性別、年齢の一切を問わず、一般社会への適合の条件として異能税の納付を定められている。
その用途は公には異能力者による被害の対応とされているが、実際のところはかなりグレーとの噂。何よりその金額の高さに多くの異能力者たちは困窮していた。
一応怪我や経済状況などを加味して、申請があれば異能税は減額、あるいは免除されることになっているが、上の不都合ゆえ情報が限られておりそのことを知らないものも多い。ゼノもここで働いていなければよくわかってなかったと思う。
人助けとなると妙に鼻の利くレオナルドは、すぐさまそこに目をつけた。読み書きが苦手な貧困層や、制度に疎い能力者たちに情報提供をし、時にはその申請手続きを代行する。
そして事業のもう半分を占めるのが、ミンジのように異能力絡みの問題を抱えた者の手助けだ。
こちらも二年の間になかなかの業績を上げており、最近では異能税がらみのものと同じくらいの数の依頼が入る月もある。
自らも異能力を有する面々が集い、コミュニティの治安のため日夜奔走するこの事務所は、Valuable Ability Treatment、縮めてVATと呼ばれている。
***
ミンジの帰宅後、VATの面々はレオナルドを中心に方針会議を行っていた。
ゼノとレオナルドがミンジから聞いた情報を共有すれば、エースは好戦的に鼻を鳴らした。
「どこの雑魚だろ」
そのままポキポキと拳を鳴らせば、すぐさまレオナルドがそれに釘を刺す。
「マフィアとかの筋もあるから油断はやめなさいね、ほら、なんだっけ」
「天星 盟」
ゼノがぼそりとつけ足せば、ああそれそれとレオナルドは頷いた。
たしかに、こじつけはよくないけれど、アジア系のミンジからの依頼だ。コミュニティでの勢力はマークしてもいいかもしれない。
「何それ?」
恐らく聞きなじみがなかったのだろう。アレックスの問いにレオナルドは言葉を続ける。
「最近この辺で有名な中国系のマフィア。聞いたことないか?」
アレックスはうーんと唸った後、困ったように口を開いた。
「俺あんまり中華料理食べないんだよなあ」
「今度出前取ろうぜ」
エースが愉快そうに手を挙げて見せる。
緊張感も何もない面々に、とうとう痺れを切らしたレオナルドはパンと大きく手を叩いた。
「と・に・か・く!気をつけなさいって言ってるの。特にゼノとエース、お前らが現場で先に見つける可能性が高いんだから」
現場。なんてことない一単語にビクッと一瞬動きが止まる。
レオナルドの圧を物ともせず飄々と手を振って見せるエースとは対照的に、ゼノは何かを必死に考えこむように視線を落とす。
が、すぐにまた居眠りするように両目を閉じた。
***
「ゼノ、また何かあった?」
改まったようにレオナルドが尋ねてきたのは食卓でのことだった。
事務所の真上、ブラウンストーンの二階でレオナルドのもとに居候しているゼノはたいていここで夕食をとっている。
いつも通りレオナルドの作った料理をちびちびと口に運びながら、ゼノはじっとレオナルドの顔色を伺った。
「別に」
「別にじゃないでしょ。最近無気力だし」
嫌に穏やかでいて、だけど同情や不安の透けて見えるその表情に、ゼノは居心地の悪さを覚えた。
「それは、ずっとだろ」
「違う」
ぴしゃりとレオナルドの声が飛ぶ。
わかっている、とでも言いたげにレオナルドはじっとこちらを見据えている。
思わず視線を逸らしてしまって、それきり上手く顔があげられなくなってしまった。
もそもそと叱られた子供のように大人しく食べ物を口に運んでいく。
「ゼノ、お前は……本当はもっと」
しかし、レオナルドの続く絞り出したような言葉に、思わずゼノは手を止めた。
「……期待すんなよ。元から壊れてるんだから」
顔を上げればどこか傷ついたようなレオナルドと目が合う。
申し訳ないと思った。
だけど、こればかりは仕方がない。
はじめからずっと終わっていたんだから。
***
雨上がり。
夜の路地。
少年は血まみれだった。
足元に転がるのは遥かに大きな男。
息はないようだった。ただの肉塊となって冷たい地面に横たわる。
「終わったか?」
細い肩に手を置いたのは白塗りの面を被った男。
空洞になった目元や口元からその表情を読み取ることはおろか、その不気味さに直視をすることさえ憚られる。
少年が顔を上げずに頷いたのを確かめると、男はとたんに興味を失ったように彼から離れ、無言で路地を抜けていく。
その後ろに続こうと少年が一歩を踏み出したそのときだった。
ふいに刺すような視線を感じて振りかえると、先ほどまで足元に転がっていたはずの男が自分を見上げていた。
少年は放心したように立ちすくむ。
やがて、男が一歩を踏み出した。
***
冷や汗と共に目を覚ました。
荒い息を整えるように深くため息をつくと、まとわりつく嫌な記憶を振り払うようにゼノはわしゃわしゃと自分の頭を掻きまわした。
最悪な気分だ。
汗で肌が湿って気持ち悪いし、昨夜食事の席を立ってそのまま、自室のソファベッドで眠ってしまったせいで体中がぎしぎしと痛む。
勢い任せに言い返したりしないで、のらりくらりと交わしてしまえばよかったのに。そうしたら寝室のシーツに今頃沈んでいられたのに。というかまず、気まずいからレオナルドに適当に謝らないとだ。
もう一度深くため息をつくと、ゆっくりとゼノは体を起こした。
なんとなく一番に壁にかかった時計が目に入る。
「あ、やば」
長針は、今日の始業時間のギリギリを指していた。
***
一時間後、キャンパスには不機嫌そうにうつむいて歩くゼノの姿があった。
「聞いてねえぞ今日休講とか……」
今日はとことんついていないらしい。
せっかく慌てて家を出たのにとんだ無駄足になってしまった。
小石が目に入り、もう蹴とばしてやろうかと足を振り出したそのときだった。
目の前の角から全速力で男子学生が曲がってきて、すれ違い様に激しくぶつかられた。衝撃で薄いゼノの体は思わずひっくり返りそうになる。
何とか踏みとどまったのも束の間、ふと一つ違和感を覚える。
「……右目の四時?」
男の右目にはカラーコンタクトさながら、時計のような模様が浮かんでいた。
一般人なら顔を首を傾げて終わるだろうが、ゼノには覚えがあった。
小さくなっていく背中にゼノは今日何度目かのため息をついた。
非常に気が乗らないがVATの世話になっている以上ここで追いかけないわけにはいかない。憂鬱に追い越される前に、地面を蹴り上げる。
止むを得ないと言い聞かせて、ゼノは異能を発動した。
右目に零時の模様が浮かぶ。
***
男は鬼気迫った様子で、何度も周囲の人間にぶつかりながら進んでいく。
やはり何かしら異能力を発動しているようで、ときどき彼とぶつかった人やその周囲から悲鳴が上がった。
推測するに大学の広場裏の方へ走っているようだった。そちらの方向なら、うまく回り込めば路地裏に追い込んで動きを止めることができるかもしれないと踏んで路地に入り込み、耳を澄ませる。幸い自分と違って男は足音が大きい。乱雑な分、聞き分けも容易だ。
そして、予想通り数秒後には目の前に男が立っていた。
ひとまず足をかけて転ばせて、目の前にしゃがみこむ。突然現れたゼノの姿に男はわかりやすく狼狽え、冷静さを欠いていた。なんならこちらが哀れになるほどだった。
少し頭を使って動けば簡単に人一人を追い詰められてしまう。寝覚めが悪かったせいだろうか。いつにもまして自分の残忍さが疎ましかった。
切り替えるように頭を振る。
嫌ならさっさと終わらせてしまえばいいんだから。そう思って口を開いた。
「ねえ、何して」
瞬間、ふわりと体が宙に浮いた。
続いて背中に衝撃。
相手の攻撃で壁に叩きつけられたと気づいたのとほぼ同時に、ぐえと潰れた爬虫類みたいな声が喉の奥で鳴った。
比較的早く呼吸は戻った。しかし、異能のせいか、はたまた強く打ち付けたせいか、体がびくとも動かない。
一歩外に出られたら大通り。被害の規模が予測できない以上男を暴れさせるわけにもいかない。異能を発動させれば自分だけは助かるけれど、それでは本末転倒だ。
むしろ、自分に注意を引けているうちはまだ被害を食い止められるかもしれない。あくまで時間稼ぎだが。
「あーくそ……どうすっかな……」
レオナルドのような屈強さも、エースのような話術も自分は持ち合わせていない。やはり大人しく何発か受け流しておくのが得策だろうか。
そうこうしているうちにもゆらゆらと男は近づいてくる。
うん、そうしよ。
衝撃に備えようとしたそのときだった。
突如立ち込めた煙幕。
遅れて男の呻き声。
咳き込みながらゼノが顔を上げると、そこにはどうやら先ほどの男とは別の者らしい人影があった。
「間に合ってよかった」
男の声だった。
まるで遅れてやってきた英雄のように彼はそう呟くと、ゼノに手を差し伸べた。
「……誰?」
薄れゆく煙の奥から顔を覗かせた一人の青年は、自らの炎の光を目に浮かべ、満足げに口角を吊り上げた。




