【第九十八話】大炎上の夜
白馬津
袁紹軍は潰走を重ね、ようやくこの地まで逃げ延びた。
もはやその軍容は見る影もなく、互いに肩を支えながらの退却であった。
先ほど陽武の地で、殿となり戦死した淳于瓊が、最後に袁紹の袖を掴み言った言葉はまだ耳に残っていた。
『殿――この淳于瓊、不明によりこの惨敗を招きました。されど、せめて最後の働きで、この命を使い、殿の退路を切り開き奉りたく……』
淳于瓊は煤で汚れ、疲れきった顔ではあったがその眼は澄んでいた。
袁紹は声を荒げ制止めようとしたが、淳于瓊はそのまま張遼との戦いに身を投じていった。
両騎とも疾風の如く駆け、火の粉舞う中で剣閃が交わる。
「下郎が!我が槍の錆となれ!」
淳于瓊は雄叫びを上げ槍を突き出した。張遼は見事に受け、大薙刀を一閃させる。
刹那――淳于瓊の首が夜空へ舞い、鮮血が飛び散った。
しかし、その顔は満足そうに微笑んでいた。
張遼は馬上にて黙祷を捧げ、敬意を示す。
「その忠、敵ながら……見事!」
淳于瓊の奮戦により敗残兵は息を吹き返し、袁紹もまた黄河まで逃れることができた。
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河辺に至った袁紹らは愕然とした。
眼前にあるはずの仮設の浮舟が、次々と燃え、炎に包まれていたのだ。
残った浮舟――そこに西より来た朱治率いる水軍が火船を用いて、燃え上がらせる。
「ば、馬鹿な……!浮舟が……!?」
郭図は膝をつきうなだれる。
田豊も戦意が尽きた目で呟いた。
「……火船の計……。我等が退路を断つとは……孫堅、ここまで先を読むか」
轟、と一際大きな炎が燃え上がり、空を焦がす。
袁紹はその炎を背によろよろと歩く。
「……終わった……。ここまでか……」
膝が崩れ落ちる。
審配が駆け寄り支えた。
「殿!」
だが袁紹は虚ろに首を振る。
「淳于瓊や多数の兵を死に追いやり……河北の地を危うくし……余は一体、何をしてきたのだ……」
審配も悔しそうに目を伏せた。
その時――
「殿!河内より沮授殿、張郃殿、高覧殿が到着いたしました!」
その声に袁紹が顔を上げる。
闇より駆けてくる一団。
先頭の沮授は馬を下り、迷いなき眼差しで言う。
「遅くなりました、殿。今より渡河し、北岸へと押し通ります。僅かではありますが、使える船を探して参りました」
張郃も槍を掲げ、
「殿、ここで死なば河北の民が泣きます!」
高覧も叫ぶ。
「諦めねば必ず道はあります!」
袁紹の目が大きく見開かれた。
「……まだ……道があるのか……?」
沮授は頷き、
「河北へ戻られませ。ここで死ぬは容易ですが、殿はそれが許されぬ身。死した者達のために戦いましょう」
その時、郭図が二人の前に膝をついた。
「……沮授殿。私の妬心が、今日の敗北を招きました。殿がここまで追い詰められたは……我が罪」
沮授の軍権を奪い、己が功ばかりを追い求め、青州での大敗、袁譚の敗死――静かに語った。
「この郭図……ここにて殿を承りたく。せめて、最後に償いを」
袁紹は震えた。
「郭図……」
郭図は微笑んだ。
「沮授殿。後を……頼みます」
沮授は深く頷き袁紹を支え渡河に向かう。
その姿を見届け、郭図は立ち上がり、背を向けた。
「袁紹様…―河北まで、どうか、ご無事で」
その声を背に受け、袁紹の頬に涙が静かに零れ落ちた。
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夜の黄河――炎が水面を舐める中、袁紹軍はわずかな舟で北へ抜ける。
背後では郭図が立ち塞がり、残兵を率いて抗戦に移った。
孫堅軍の追撃の火矢が飛び交う――郭図は槍を掲げ叫ぶ。
「袁家の天下は、まだまだこれからぞ!!」
その声が、炎夜に吸い込まれた。
袁紹は船上にて最後に一度だけ振り返った。
「……皆、余の……余のために……」
項垂れた主を乗せ、漂う舟は闇へ――




