第二百二十三話
◇◇◇ジレーヌ領大法官・コール◇◇◇
コールはフロストと共に、逃亡奴隷に関するヴォーデン側の最新の状況確認と、奴隷商たちの動き、それから起こり得る荒事について話し合った。
ヴォーデンとの講和はロランの名で執り行って欲しいと頼信が希望しているので、まず揺らいでいるロランの足元も固めねばならない。
三家会議を抑え、バックス家を追い落とそうとする者たちを、反乱分子として処理する必要がある。
フロストとそのことを改めて確認した。
奴隷交易の停止には、ロラン内部でも相当な混乱を伴うはずだから、フロストにはその鎮圧のために手段を問わないと決意してもらう必要があった。
そして一体なにが兄の決意を固めたのか。
コールにはついぞわからなかったが、フロストが腹を括ってくれたのがわかった。
ならばコールも遠慮なく力を貸せるというものだ。
兄は名簿を持ち出し、名前の上に印をつけていく。
早晩、石に名前が刻まれることになる者たちだ。
そこには、バックス家内部で、他家と通じている者たちも含まれる。
平和なジレーヌ領内ではつい忘れがちだが、権力争いとは本来血で血を洗うもの。
それにコール自身、意趣返しをしたい連中が、身内かどうかを問わず、たくさんいる。
ジレーヌ領ではイーリアの手前猫を被っているが、積年の恨みを忘れたわけではないのだから。
この手の政変は、結局どちらが先に、どれだけ深く腹を括れるかの話になる。
ジレーヌの後ろ盾を持つフロストが覚悟を決めていれば、一瞬で勝負はつくだろう。
そもそもバックス家に噛みつくヴァダール家やイズムル家にしても、アズリア属州に兵を差し向けているというヴォーデン属州にしても、ロランの背後にいるジレーヌのことをまともに調べているとは思えなかった。
そうでなければ、今やジレーヌに全面協力しているバックス家に歯向かったり、そのジレーヌ領を擁しているアズリア属州に兵を差し向けるようなことは、しないはずだから。
絶対に。
その結論を耳にしたフロストは、疲れたように微笑んでいた。
捕虜としてジレーヌ領で数日過ごした経験のおかげで、フロストはあの領地の異常さを肌で理解しているのだ。
コールがまだロランにいる時、長兄のフロストを見かけるのはいつも遠くからだった。
将来を約束され、バックス家を継ぎ、ロランを率いる貴族の中の貴族。
けれど今のコールが思うのは、フロストはこんなにも普通の人だったのかというものだった。
悩み、苦しみ、考え、恐ろしさを抑えて勇気を振り絞る。
そこにいるのは、必死に己の運命の手綱を握ろうとする、一人の青年にすぎなかった。
コールはフロストと話しながら、フロストが自分の背後に恐ろしいジレーヌ領を常に見ているのが、よくわかった。
コール自身、たまに怖くなるのだから、外から見ていたらもっと怖いだろうと思う。
大宰相とは、どんな人物なのだ? とフロストが尋ねた時の顔は、様々な土地からジレーヌ領にやってくる者たちと面会する際にも、コールがよく見かける顔である。
ただ、その問いにコールが苦笑するのは、彼らが哀れだからではない。
それは――。
「ん? おい、止めてくれ」
フロストの屋敷を辞し、兄弟同然に育った獣人二人と馬車に乗り、宿に向かっている最中のことだった。
首尾よくフロストからの協力を取り付けたことと、こちらの想定よりも早くヴォーデン側が武力を集結させているという辺境領主の報告を受け、作戦の具体的なことを話し合うため、大宰相様のいる宿に向かっていた。
しかし、コールが慌てて止めさせた馬車の木窓の向こうに、まさにその大宰相様がいたのだ。
なぜか、山ほどの荷物を背負わされて。
「ぐずぐずするな! きりきり歩け!」
その大宰相をどやしつけているのは、顔まで隠すローブを着込んだ人物だ。
傍から見れば、気難しく人使いの荒い旅人と、その旅人に雇われた不運な小間使いにしか見えない。
コールでさえ、その小間使いのあまりに哀れな姿に、思わず呟いてしまったのだから。
「他人の空似か?」
『猫姫と、大宰相殿ですよ』
向かいの席からの返事に、コールはため息をついて、扉を開けた。
「おい、二人とも。一体なにをしてるんだ」
咎めるような口調になってしまったのは、実際に咎めているからだった。
コールに気がついたのは、まずクルル。
砂漠地方でも旅しているかのように鼻まで覆っているのは、耳と尻尾を隠すためと、一応変装のつもりなのかもしれない。
「なぜこんな……いや、バダダムたちは?」
そこには、なぜわざわざ非力な頼信に荷物を運ばせているのかという問いと、なぜ護衛もつけずに街をうろうろしているのかという非難の意味が込められている。
クルルはもちろん魔法使いだが、魔法使いが護衛するというのは、なにかあった時に魔法を使うということでもある。
大騒ぎになるだろう。
「お坊ちゃんか。話は終わったのか?」
フードの奥から緑色の瞳が向けられる。
クルルはここ数日機嫌が悪かったし、今もそうらしく、視線も口調も刺々しい。
荷物を運ばされている頼信に至っては、コールを見る余裕もないくらい疲弊していた。
「まったく、君たちは……おい、ヨリノブ殿の荷物を」
馬車内に声をかける頃には、すでに気の利く二人の獣人が馬車から降りていた。
「他に買い物はあるのか?」
コールが問いかけると、クルルは頼信と道の先の露店を見比べ、ふんと鼻を鳴らす。
「甘い酒と、干した果実がまだだ」
「わかった、わかった。僕のほうで手配しておく。だからさっさと乗ってくれ」
荷馬車の屋根と後部に荷物が移し替えられるのを見届け、両開きの扉を開けながら、二人にそう言った。
人通りの多い場所で馬車を止めているので目立つ。
頼信の顔を知っている者がいないとも限らず、有力な商人や名家の者に気づかれたら面倒なことになる。
そこに悪意があろうと、なかろうと。
「助かったな、大宰相殿っ」
クルルは頼信にそんなことを言って、さっさと荷馬車に乗り込んでいる。
山ほどの荷物から救い出されたものの、圧死した死体のようになっている頼信に、コールは馬車の上から手を伸ばす。
「大丈夫か?」
コールの手を取った頼信は、力なく微笑んだ。
ジレーヌ領の大宰相がどんな人物なのか。
コールがフロストの質問に答えられなかったのは、コールもまったくわからないからだった。




