13. 裏切り者の確執
シュロさんを兄と呼んだダナエさんは、にこりと品の良い笑みを浮かべる。
「私は兄さんを糾弾したいわけではないんだよ。あの時のことだって水に流す、だからそろそろ……戻ってきてもいいんじゃないかな」
「……戻る気はない。生憎だが」
「強情だな。入国管理局なんて薄汚い場所で働き始めたと思ったら、今度は人間を花嫁にするなんて、兄さんはほんとうに変わってる。天才じゃなかったら許されていないよ」
「トリョフスビャツキの家とは縁を切った。僕はもう”禁忌狩り”には関与しない」
「この現状を見ても?」
ダナエさんは優雅なしぐさで床の上の本を指し示す。
禁書、と彼は言った。先ほどの会話を聞く限りでは、猫の獣人ーーエルミタージュがその禁書の内容を奪おうとしていて、ダナエさんはそれを防ぐ立場であると類推できる。
そうして出てきた「禁忌狩り」という言葉。
それはきっとシュロさんの過去。シュロ・アーメアになる前の、シュロさんだ。
「ご覧よこの惨状を。禁書の中でもどの情報が盗まれたのか分からない。禁書はその性質ゆえに、写しがない。全ての内容を記憶している者もいない。だから、こんな風にぐちゃぐちゃになってしまえば、何が禁書に記されていたのか、もはや誰にも分からない! --エルミタージュを除いてね」
「エルミタージュが逃げたのなら、さっさと追いかけたらどうだ」
「むろん、手下にやらせているよ」
「ダナエ、お前は何か勘違いしている。僕はもうトリョフスビャツキの一員じゃない。裏切者のアーメアだ」
「だから? 裏切りは兄さんの能力を少しも損なわない。兄さんが臆病者だろうと、何だろうと……おっと、花嫁の前で失礼」
いちいちこちらの気持ちを逆なでしてくる龍人だ。典型的な貴族階級、皮肉とあてこすりに満ちた会話に慣れ切った人。要するに暇人。
「私もエルミタージュの尻尾を掴もうと奔走していたが、この様だ。むざむざと禁書を破損され、手ぶらで家に帰ろうとしている」
シュロさんは禁書を見下ろす。その目がきらりと光るのを感じた。
ーー多分、シュロさんはこの禁書から何かの情報を読み取っている。
「兄さんには分かるはずだ。エルミタージュがこの禁書から何を盗んでいったのか」
「……いや。分からない」
「そんなはずはない。兄さんの鑑定眼なら、あなたの真実を見極める力なら」
「分からないと言っているだろう。僕はもう、きみたちの仕事には関わらない。『禁忌』狩りはもうごめんだ」
いつになく鋭いシュロさんの口調。彼がこうして怒りをあらわにするのを、初めて見た。
ダナエさんはこれ見よがしにため息をついて、ちらりと私を見た。
「愚かな兄さん。……兄さんには翼はあるけれど、花嫁にはないんだよ?」
「ッ、ダナエ、やめろ!」
ダナエさんの長い腕が私に向かって伸びてくる。
かぎ爪は大きく開かれ、さながらネズミを襲う猛禽類のようだった。
が。
生憎と私は、ウサギでもなければネズミでもないのだ。
しゃがみこんでかぎ爪を避ける。この動体視力はひとえに、晩餐会で何度も卓上の食べ物を投げつけられた経験のおかげだ。誰だって顔面でヨークシャプディングを受け止めたくないし、鴨の肉汁はドレスに付くと落ちにくいのだ、とても。
しゃがんで体を低くしたまま、ダナエさんの脛目掛けて蹴りを入れた。
ほんとうは夫の弟に暴力なんて、淑女的に全く正しくないのだろうけれどーー今更だ。
さすがに龍人、私ていどの蹴りではびくともしないが、問題はない。時間が稼げればよかったから。
体を低くしている私を、上から掴もうとするダナエさん。けれどその手は、シュロさんによって阻まれる。
「アイノには手を出すな!」
「おや、ご執心だねえ、兄さん! 妬けてしまうな!」
二人の龍人が、互いの腕を掴んだまま睨みあっている。
私は素早く二人から距離をとる。私がいない方が、きっとシュロさんはやりやすい。
ダナエさんが繰り出す右ストレートを、左腕で受け止めたシュロさん。そのまま相手の体を突き飛ばし、今度は自分が相手に肉薄してこぶしを振るう。
鱗が擦れ合う、がりがりという音がした。血のついた鱗がはじけ飛んで、木の床に点々と転がってゆくのが見える。
二人とも退く気は微塵もない。長い尾を高々と掲げ、剣のように打ち合っている。
シュロさんの尾がダナエさんの尾を絡め取ったかと思うと、そのままダナエさんの体を傍らの本棚に叩き付けた!
凄まじい音がして本棚が傾ぎ、隣の本棚に倒れ掛かる。幸いにして背丈はそこまででもないから、このままドミノ倒しのように崩れてゆくことはなさそうだけれどーーああ、貴重な本が、ページを下にして床に落ちてる!
「シュロさん、ダナエさん、やめてください! え、わ、わあっ」
尻尾がぶんっと横薙ぎに払われたのを、しゃがんでぎりぎり避ける。あんなのまともに食らったら死んでしまう。なにしろ花嫁なので。
「ダナエ!」
シュロさんの咆哮。お腹の底がぶるぶると震えるような、凄まじい迫力。
口を大きく開けた威嚇の表情。あくびをするたびにしげしげと観察していたシュロさんの牙が、今は相手を傷つける武器になるのだと、悟る。
ーーこれが龍人。
人間を見つけ次第引き裂いて殺す、と言われるだけの気迫を帯びたいきもの。
ダナエさんはその咢をゆっくりと開く。喉の奥で緑色の火花がバチバチと散るのが見えて、私は心臓をぎゅうっと締め上げられたような気持ちになった。
ーー火!
火だ、火を吐こうとしている!
炎に巻かれる古書の数々を想像してしまったらいても立ってもいられなくなった。もう夢中だった。私は書見台の傍にあった、木製の小さな踏み台を手に取った。
「図書館は! 火気厳禁! ですッ!」
もはや淑女もクソもない。私はその踏み台をダナエさんの口目掛けて思い切り投げつけた。
当たるとは思ってはいなかった。少しでも冷静になってくれれば、と祈った。
果たして私の祈りは、通じた。
「……っ」
ダナエさんは顔を歪めて口を閉じると、私の投げつけた踏み台をたやすく受け止めた。そして掲げていた尾をゆっくりと下ろす。
それは戦意喪失のしるしなのだろう。シュロさんもその尾を下げて、それから。
「きゃっ」
両腕で私を抱き込んだ。まるで子どもが人形を抱きしめて、離さないみたいに。
「……」
「……はあ。興ざめです、兄さん。禁忌狩りが聞いて呆れる」
「僕はもう裏切り者だ。……お前たちの役に立てることは、ないよ」
ダナエさんは嘆息すると、くるりと踵を返した。
その頃にはもう、異変を悟った司書たちが続々と集まってきていた。ひしゃげた本棚を見て、きええと絶望の声を上げる。
シュロさんは、ダナエさんが廊下を曲がって見えなくなるまでずっと、私を抱きしめたままでいた。
そのおかげで、龍人の鼓動は人のそれよりだいぶゆっくりなのだと分かった。シュロさんは私なんかよりずっと強くて、長生きする種族なのだ。
「……アイノ、怪我したところは腕と肩だけ? 痛む?」
「いえ。強いて言うなら、あんなに悲惨な姿になった本を見ている心が痛んでます……」
シュロさんは笑おうとして、失敗していた。
「まさか、ダナエが図書館にいるなんて思わなかったんだ。あいつはいつも本を読む僕を馬鹿にしていたから」
「会いたくない人って、一番最悪なタイミングで会っちゃうものですよね」
「しかも君に目をつけるなんて。……君にだけは、迷惑をかけたくなかったのに」
「ふむ。元・婚約者を殴って勘当されて森に逃げ込んだところを助けられた私と、今のシュロさんと、どっちが大きな迷惑をかけているか、という話ですかね? 迷惑のかけ具合で言えば私も負けませんよ?」
シュロさんが苦笑した。今度はうまく笑えたようだ。ミントの香油が爽やかに香って、私の傍にいるのは「いつもの」シュロさんなのだと認識する。
「そういえば、君が意外と俊敏だから驚いたよ」
「自慢じゃありませんが、飛んでくるミンスパイを避けることに関しては、間違いなく社交界一の技術を持っていますので」
「本の虫なのにね」
「虫だってまれに俊敏なのもいます」
シュロさんが腕を緩めたので、そっと抜け出す。ずっと後ろから抱かれているのは、なんというか、気恥ずかしかったのだ。ほんとうの夫婦じゃないし。
正面から見るシュロさんは、サラダに紛れたジュニパーベリーをかじったときみたいな顔をしていた。
「似た者同士」
「ん?」
「ヴィクトリアさんが、私とシュロさんが似た者同士だって言ったんです。今ならちょっとだけその意味が分かります」
家族から離れざるを得なかった私と、新しい苗字を名乗らなければならなかったシュロさん。
つまりはどちらもひとりぼっち、だ。
「別に、きみを花嫁にした理由はそれだけじゃないけどね。……さて」
司書さんたちが慌てて禁書の紙片をかき集めている。その後ろ姿を見ながら、シュロさんはこともなげに言った。
「昔の仕事に戻る気はないけど……どーしても気になっちゃうんだよね。もう病気だなこれは」
「気になるって、何がです?」
「僕の生業は真贋鑑定。つまり、この中に『本物』の禁書はいったいどれくらいあるだろうね、って話さ」