後編
それからまた数日。奇妙なことに、蜘蛛はあの『オツカレサマ。』と書いた日からは文字で表現するようになっていた。少しだけ紹介すると。
『いらっしゃいませ』
『まいどおおきに』
『また頼んます』
『金出さんかいワレ』
接客用語ばかりだった。こちらの深層心理まで見抜いている。
俺は段々と蜘蛛に会いたいと思い始め、日増しに強くなっていった。ある日業を煮やした来さんに「何とかしなさい」と再度注意され責っ付かれて。俺はまた、蜘蛛が現れてくれるのを待つために閉店作業後に待ち伏せをすることにした。
今はもう11月。秋も終わりに近づき、店の前の通りは近所から運ばれてきた落ち葉で彩られている。木枯らしは吹き抜けようと忙しく駆ける。夜になってますます冷やされた風は隙間を縫って店の中に侵入し、俺の体温を奪おうとするのだ。電気代をケチってエアコンをつけられない俺を苛める風だ。
このままでは風邪をひいてしまうので、毛布を持ってくる。それに身体を包ませて、パイプ椅子の上に足を上げて胡坐をかいて座っていた。服の中にカイロを2、3個しのばせている。
お願いだから早く登場してくれよと乞い願っていたらだった。俺の希望通りにか、姿を見せてくれた。
何と、人のお姿で。
白い着物を着た長い黒髪の女だった。一体何処からやって来たのか判らなかったが、俺にはその女がまるで幽霊のように思われた。ぼんやりと、淡い光で女の身体は包まれている。その儚げな存在に、俺は息を呑みながら相手がどう話し掛けてくるんだろうかと待っていた。やがて女は細い声で身を明かし始める。
「私は7年前にこの地で首を吊った女です……」
と、知らなかった……というよりも知りたくもなかった事実を教えてもらってしまった。聞いた途端に身の毛がよだつ。
俺は塩は何処だと叫びたくなったが、女のあまりにも悲しげな表情に、俺の動揺は引っ込んでいってしまった。落ち着き、俺は女の話に耳を傾けた。女は切々と訴えてくる。
「当時は景気もよく、私もそれに乗っかって生活に困らない程度に過ごしておりました。ところが。とんでもなく綿密な手口の詐欺と、旦那のお家騒動に遭い私は借金をし精神的に追い込まれ。そして最期は……うう」
女は床に突っ伏し、さめざめと泣き出してしまった。俺はどうしてよいか判らず、ただ、女の肩を軽く叩くか撫でてあげようとした。だが、触れても触れても。手は女の身体をすり抜けてしまっていた。
俺はすっかり混乱して、まだ床でうつ伏せて泣き続ける女に聞いてみる。
「あの。おたく、蜘蛛さんですか? 毎晩アーチックに精力活動を続けていらっしゃる……」
どう聞いてみたものかと思うが、とにかくそう尋ねてみた。すると顔を上げた女はぼうっとして。だがすぐに察したのか、「ああ」と頷いた。
「ボスのことね。この辺りを取り仕切っている……私が幽霊になれたのも、ボスの温情のおかげで」
俺は眉をひそめた。「ボス!?」俺の反応に女はますます首を傾げる。
「ええ。ここで何かしら活動をするには、必ずボスの許可が要るのです。私も含め、人型になれず魂だけでさ迷っていたんですけど、見るに見かねたボスがこんな私に声を掛けて下さり、生存していた頃の姿に見えるようにして下さったのです。でも私が呪い殺そうと思っていた連中はすでに生きていませんでしたけど。ざまあみろよね。クック」
いや、そんなことよりも、と。俺は夢中になって問いだたした。ボスの正体を。
「さあ? 正体なんて存じませんわ。蜘蛛は蜘蛛でしたけども。アラ、あなたひょっとして新参者ですの? でしたらボスにご挨拶にみえないと。大変失礼ですわよ。ボスもお怒りじゃないのかしら」
俺の額から、もみあげ辺りを伝って汗がひと筋流れ出た。俺の脳裏にあるフレーズが蘇る。
『金出さんかいワレ』
そしてヤクザが思い当たった。
俺は全くの冗談だと思い込んでいたのだが、まさかあれは例えばショバ(場所)代を払えとかいう遠回しの脅しだったのではないだろうか。うわ、何だかもうそれしか思い浮かばない。
「あ〜あ。知〜らない、どうなっても……」
女の幽霊は薄情にもさっさと消えた。
恐怖が残る。
ズルズルと椅子から滑り崩れるようにして、先に床へと落ちていた毛布の上に俺は尻をついた。
俺は手紙を書いた。
『拝啓、蜘蛛様。挨拶が遅れましたことをお詫び申しあげます。ホビーショップ“カ・ミューン”の店長であります、澤田慧太と申します。あなた様の数々の芸術作品に、ただただ感動をさせて頂いています。残念ながら店の営業上、撤去せねばならないことを非常に勿体なく悲しく思うばかり。先ほど、あなたのことを知っている幽霊の方からあなた様のことを聞き、ペンをとった次第でございます。聞けば、この辺り一帯で活動しようとするならば、取り仕切っているあなた様の許可が必要とのこと。無知だった自分を恥ずかしいとは思いますが、どうかこんな店長である私に営業の許可を頂けないでしょうか。お願い致します』
長々と、腫れ物に触るくらいの慎重さと丁寧さで文をしたためる。
綴った紙を綺麗にたたんで売場の目立つ所に置き、俺は店を後にした。もう真夜中だった。パチンと照明の電源スイッチを切ると、店の中は非常灯だけを薄ぼんやりと残し暗くなって、辺りは再び静かな眠りにとついていった。
家に帰って就寝した後……。
朝になって舞い戻り、俺は開店時刻前に店へと着く。寝に帰ったはずだったのだが、置いてきた手紙の返事が気になって気になって仕方がなく、あまり眠れはしなかった。
鍵を開け、飛び込むように早足で売場へと突き進む。危うく、積まれた段ボールに当たりそうになりながら。辿り着いた売場で見た物は。
『許可スル』
空中で糸が編まれ、そう大きく文字が踊っていた。
……やった! 俺は思わずガッツポーズをしてしまった。しかし文章はこれだけでは終わってはいない。続きが小さくズラズラと書き並べられていた。
『当事者である蜘蛛は場を提供するにあたり当事者の故意又は重大な過失に基づく債務不履行または不法行為に起因して利用者に損害が生じた場合、利用者に対し当該損害を賠償するものとし、また当事者は利用者に対し、場を提供するにあたり当事者の過失に基づく債務不履行または不法行為に起因して利用者に損害が生じた場合、現実、直接かつ通常の損害に限り賠償するものとする。尚、この場合において当事者は利用者に発生した使用機会の逸失、業務の中断、又はあらゆる種類の損害(間接損害、特別損害、付随損害、派生損害、逸失利益を含む)に対し例え当事者がかかる損害の可能性を事前に通知されていたとしてもいかなる責任も負わないものと……』
そこには何処ぞの契約書並みな条項がずうっと説明されていた。正直しんどい。読むのかこれ。
俺は項垂れながらも早く読んで片付けないと店が開けられないという恐怖観念に悩まさせられ、そして何とか頭に叩きこもうと泣きながら読んでいった。
店を開けた時には、眩しい太陽の光が店内に差し込んで俺の泣きはらした顔を明るく染め上げていってくれていた。
結局、俺は蜘蛛の正体が判らなかった。ボス、というだけ。
もう売場にアーチックな芸術作品を生み出すことはなくなった。一体あれも何だったのだろうと考える。やはり遠回しな脅し文句だったのだろうか。だとしたら、遠回し過ぎるだろう。絶対に気がつかない。
それとも俺はボスに遊ばれていたのだろうか。躍起になって巣を破壊しまくっていたのは加代子さんだったのだが。俺は毎日、今日はどんな芸術がこんな狭っちい売場で作られているのだろうと内心ワクワクしてすらさえいたのだ。加代子さん達には悪いが。
「おじちゃーん! この商品いくらすんのー」
日中、店のレジカウンターで在庫と書類の整理をしていると、売場内をウロチョロしていた小学生2、3人ほどが俺に大声で元気に聞いてきた。ショウケースの中の未開封だったブースターパックBOXをひとつ指さして。「どれどれ……」俺は作業の手を止めて、子ども達の所へ。接客をしなければ。お客を待たせてはいけないぞ。まだ三十路前だというのにこの子どもは俺をおじさん呼ばわり。しかし怒るな。嘆いてる暇はない。
俺が選んだ道よさて。今日もこれから営業だ――。
俺は晩まで店で働く。今日も明日も変わらずに。別に変わらなくても今はいいのだが。ただ平穏無事に毎日を過ごしたいと思うだけなんだ。
明日の朝、開店しようと俺がいつもの通りに売場に現れた時。俺は久しぶりにボスもとい蜘蛛のアート・メッセージに、新たな悩みを抱えることになる。
伝えられたメッセージはこうだ。何と今回は白い糸ではなく淡いピンクに染まっている。技は磨かれていっているらしい。さて、メッセージは何と――
『好きです。付き合って下さい』
……どうしたらいいのだろう。
《END》
ご読了ありがとうございました。
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