むすんで絆、ひらいて心
「ゆぅ君のばか。すけべ。変態」
「ごめん、ごめんって」
結局、調子にのった俺がそのまま結衣を押し倒すという暴挙に走ってしまったが、腹に強烈な膝蹴りを一発喰らって悶絶した挙げ句、ここぞと言わんばかりのタイミングでインターフォンを押したピザ屋の配達員に邪魔された。
隆司め……さすがは幼馴染み。何もかもお見通しってか!
そして今、頬をさっきまでとは別の意味で真っ赤にした結衣の俺への恨み節に平身低頭で謝りつつも、ついつい頬がゆるんでしまう俺がいるわけで。
ついでに言えばやはり先日結衣が一緒にいた男は彼氏でも、彼氏だったことすらもないらしい。
単なる大学の元先輩にして春からの就職先での先輩予定。
たまたまスィーツ売り場で会って、甘いものに詳しくないからとかほざいたあの男に頼まれて、取引先への手土産を一緒に選んでいただけ。
つまり、それだけだ。
あっさりと告げられたよくある真実に単純な俺は一喜、ただし奴の結衣への目つきを思い出せば就職先が同じだという不穏さに、これまた一憂してしまう。
「うぅ、自信作だったのにぃ……」
そんな俺の内心のモヤモヤも知ることなく、残念そうに結衣が呟く。
その視線の先にはややぶかっこうに歪んだブッシュ・ド・ノエルがやや侘びしげな面持ちで佇んでいた。
玄関でのあれやこれで取り落とした拍子に箱の天井面にぶつかったのだろう。綺麗な木目を描いていたであろう表面が斜めに歪み、その上で鮮やかな彩りを添えていたはずの苺は転がり落ちて不満顔だ。
だが構うこたぁない。たとえ潰れていたとしても味は変わらないし、十分綺麗じゃないか。
そう俺は思うが、賢明にも口には出さなかった。触らぬ神に祟りなし。これ以上結衣の機嫌を損ねる必要もないし、ケーキなんかよりずっと……もっと大事なことをこれから話したかった。
珈琲を淹れて、結衣のケーキを食べた後でいいから。
それまでちゃんと「待て」のポーズで忠犬よろしく我慢するから。10年近く待ったんだ。今さらあとすこしが待てない俺じゃない。
ごりごりと音を立てながら珈琲ミルを回すそばから、挽きたての豆の香りがふわり、狭いキッチンに広がる。
手回しのハンドルの抵抗が急にかるくなれば豆が粉になった相図。沸かし立ての湯の温度がすこし下がるのを待つあいだ、俺は丁寧にドリッパーにフィルターと粉をセットし、それからケトルの湯を銅製の細口ポットに注ぎ入れた。
浮かび上がる雲のように湯気が漂い、注ぎ口から落ちる湯とともにえもいわれぬ香気が舞い上がる。
この湯を注いだ瞬間の馥郁とした薫りが堪らないし、だからなかなか珈琲メーカーを買う気にならないのかもしれない。
最初は粉を湿らすように、それから丸く字を描くように湯で粉を膨らませながら、温めた硝子ポットに濃い茶色の滴が落ちていく様を俺は見守った。
便利な機器の作り出す手軽な味も悪くはないし、忙しい平日の朝は重宝するだろう。
だが自分の手と時間を使って、一手間かけて淹れるそれはまた格別だ。特に、誰かのための一杯を淹れるときは。
「いいにおい」
いつの間にか隣に来ていた結衣がつぶやく。ふだんは紅茶一辺倒だという彼女は手で豆を挽いて淹れるという行為そのものが新鮮らしい。もの珍しげにミルを眺め、ハンドルを握ってはためつすがめつしている。
そんな様子は小学生だった頃の、どこか子どもらしくも無邪気な好奇心に溢れていた頃の結衣の姿を思い出させた。
「家では珈琲とか淹れたりしないのか?」
「あんまり、かなぁ。お父さんが珈琲が苦手だからお茶淹れるとしたら紅茶か緑茶が多くて。関西でも素敵な喫茶室とか見かけるし、入ってはみたいんだけど私たち学生のお財布にはちょっと厳しくて」
「ふうん。そういえばお前ん家行くと、いつも出てくるのは紅茶だったなぁ。てっきりおばさんが好きなんだと思ってた。逆に、俺はあんまり紅茶を飲むことがないかなぁ……。普通に好きだけどティーポットとか持ってねぇし、うちの事務所の先輩達もみんな珈琲派だからなぁ」
「ティーパックとか常備していると便利だよ。大学でね、夏は寮のみんなでちょっといいフレーバーティーを多めに買って、それで水出しアイスティーをポットいっぱいに作って冷蔵庫に常備してたの。みんなで買えば経済的だし色んなフレーバーを試せるし、お風呂上がりにジュースとか飲んじゃうよりずっといいでしょ?」
「はぁ~。さすが女の子、というかなんというか」
風呂上がりはまずビール、な俺たち野郎とは大違いだ。
若い女の子らしい大学生活をおくる結衣の姿を思い描きながら、だけどそこに俺の知らない結衣の姿や年月があることが少しほろ苦くも悔しく思える。
俺の知らない結衣、俺がいない、俺の知らない……過去。
「……紅茶と言えばゆぅくん、知ってる?」
「んぁ?」
珈琲フィルターに湯を注ぎ足しながら聞き返した俺に結衣はにこりと微笑んだ。
「紅茶を注ぐときね、最後の一滴をベストドロップっていうんですって。茶葉にからんだ水滴の一番美味しいところ、最後の一滴まで注ぐのが紅茶の黄金ルールのひとつだって聞いたことがあるの」
「へぇ、そうなんだ」
最後の一滴まで余すことなく、か。
俺はその表現にどこか興味をそそられながら結衣の方へ顔を向けた。
俺の手元の硝子ポットのなかではドリッパーから零れ落ちる珈琲の滴が一滴、一滴ゆっくりと、濃い茶色の水面に波紋を描きながら落ちていく。そんなただの、当たり前ともいえる光景に結衣はまるで、魅せられたように目を奪われていた。
「うん。だからどんな安い茶葉でもティーバッグでも熱い熱湯を注いで、最後の最後まで大切に味わうんですって。ストレートで飲むもよし、ミルクをいれるもよし。ただ、ほんのすこしばかりのあまい砂糖をいれて、甘いお菓子といっしょに召し上がれ」
最後はまるで謡うようにまあるい声音で結衣はつぶやいた。急にはじまった紅茶の話題がどこに行き着くのか判断しかねながらも俺は結衣に視線を向けたまま、身体ごとそちらに向き直る。
結衣は、といえば相変わらず視線は硝子ポットに下ろしたままで。
だけどその頬がさっきよりもうっすらと色づいているのを俺は見逃さなかった。そしてそれは、ダイニングから差し込むオレンジ色の電灯のせいじゃ、ない。
「結衣……?」
「ゆぅくん、こないだわざと私のいないときにうちに来たでしょ?」
紅茶の話題から一転、思いがけず飛躍した結衣からの問いに俺は正直いって面食らった。
勘違いだっとはいえ、あの日結衣が見知らぬ男といる姿を見た俺は、結局声もかけることなくその場を立ち去った。
でもやっぱり俺は自分の気持ちに嘘がつけなくて。なのに伝えることも、そのまま諦めることもできなくて。
情けない俺は未練がましくもいつものシュークリームを買って、その足で結衣の家に届けた。「寄っていけ」というおばさんの誘いには仕事を理由に背を向けて、足早に立ち去って。
ただ、結衣の好きだった120円のシュークリームの紙袋に声にならない想いだけを詰め込んで、押しつけた。
……我ながら女々しいというか、重いというか、押しつけがましいと言いますか。
内心、あまりの自分のへたれっぷりに身悶えしている俺に対し、この沈黙を肯定と了解したのか、結衣はそのまま言葉を続けた。珈琲ポットを見下ろす長い睫毛がゆっくりとまたたきを繰り返し、ほっそりとした指先がドリッパーの白い陶製の淵をやさしくなぞる。
「いつものシュークリーム、すごく嬉しかった。ゆぅ君が持ってきてくれたんだってすぐ分かった。あ、私の一番すきなもの憶えていてくれたんだって。私のことも憶えて……思い出してくれたんだって。だから……だからね」
「あれは、俺の自己満足だよ」
結衣の言葉を遮るように俺は一言、ぶっきらぼうな口調で呟いた。
俺は結衣にそれ以外の何にも贈れなかった。大事なことばも、甘いささやきも、遠い大学での生活へ旅立つ結衣にかけるたった一言さえも。
それは、言葉の出し惜しみなんかじゃない。
怖かったから。
失うことに脅えて、手の中に何も残らないことを恐れて。
俺は、へたれどころじゃない。
臆病者以外の何物でもないじゃないか。
これまでの自分に対し、どこか自嘲めいた思いを抱く俺に対し、結衣がようやく顔を上げてこちらに向き直った。
その頬は誤魔化しようがないほどに確かに赤く染まっていて、そしてその瞳もまた、今度は明らかな怒りのいろに染まっていた。
ただし、それは俺に対してじゃなくて。
結衣が、俺よりもむしろ結衣自身に対する怒りのいろだった。
「そんなことない! 私はいつも貰うばっかりで……ゆぅくんに何かを返すこともできなくて。ううん、返す資格さえもないんじゃないか、迷惑なんじゃないかって思えて……自信がなくて」
「たかだかシュークリームぐらいで大袈裟だよ」
「たかだか、とかぐらい、とかじゃない!」
なんでこんな話になったんだ?
思わぬ結衣の迫力に思わず俺はたじたじになった。これが、さっきまでの……いや、あの結衣か?
俺の肩の位置にある結衣の前髪を指ではらえば、強い目差しがこちらを見返していた。燃え上がるエネルギー。ときに頑固とまでも言えるほどの強い意志の力。つらいときこそ頑張れる人になりたい、そう朗らかに笑ったあのときの結衣。
俺が惹かれて、そして惚れた結衣の本質がいま、その目の奥にいた。
「最初は、憧れだったのかもしれない。ゆぅくんは隆兄と同い年なのにずっと大人びて見えたし、やさしかった」
ぽつぽつと語り始めた彼女の言葉を今度は黙って受け止める。俺は手に持った細口ポットをシンクに戻し、空いた手で代わりに結衣の手をそっと引き寄せた。すこし震えている、小さな指に指を絡めて、掌を握りしめて話の続きをやさしく促す。
話したいなら、話してしまえばいい。
言いたいことがあるならば、ちゃんと言って、そしてそれについて話し合えばいい。
ふたりで。
年月を重ねていくにつれて、最初は薄かった見えない膜がどんどん厚くなり、壁のように俺たちを隔ている気がした。
互いが大事で、隆司やその他の家族が大事で今の関係が大切で。
それだけに踏み込めない、踏み込むことを俺は——俺と結衣は恐れてきた。
だから、距離が遠く、とおくなっていくように感じた。
過ぎていく年月と身体の成長とともに、自分の気持ちが何なのかほんとうはどうしたいのか何が望みなのか、それがクリアーになっていくにつれて、相手の気持ちがどんどん見えなくなっていった。
当たり前だ。
互いの思っていることを言葉にするという大切で、だけど実際にはとても勇気のいることを俺たち二人はずっと、何年もしてこなかったのだから。
「でもね、ある日分かったの。ゆぅくんは大人っぽかったんじゃなくて、大人になるしかなかったんじゃないかって。ゆぅくんが優しいのは、ゆぅくんも誰かに優しくされたかったんじゃないかって。私は……まだほんの子どもだったあの頃から、ゆぅ君が遊びに来てくれるのが嬉しかった。帰ってしまうのがさみしかった。でも……ゆぅ君はもっと、ずっと別のことを思ってるんじゃないかって気がついたの。ううん、ようやく気がつけたの」
そう言って、結衣はすこしかなしげに微笑んだ。「ちょっと考えれば、ゆぅ君をちゃんと見ていたらすぐわかることなのに、ね」そんなことを言いながら。
まさか、そんなことを結衣が考えてたなんて。父子家庭だとかはよくある話だし、ひとりなのを寂しがるような年齢でもない。結衣が気にすることでもない。そう言い返す俺に対し、結衣はゆっくりと首を振った。
「だから、そんなゆぅ君を好きになったの。自分よりまわりの人のことばっかり考えて、それでも自分の足で真っ直ぐに立つあなたが」
そう言って、結衣は真っ直ぐに俺を見つめる。黒目がちなその瞳を覗き込めば、俺自身が映り込むのが見えた。
たったひとり、俺だけが。
「ベストドロップ」
「え?」
呟かれた思いがけない単語を聞き返せば結衣が笑った。
きゅっと口角を上げて、左の頬にえくぼを浮かべて。
「最後の一滴、それは安い紅茶でも高い紅茶でも変わらず大事なもので、忘れちゃいけないものだってさっき話したよね。だから、ね。私もゆぅ君に気持ちを伝えるまで諦めちゃいけないって思ったの。最後の一滴まで余すことなく注いだ紅茶と一緒に、あなたが届けてくれたシュークリームを食べながら」
そうして、結衣は俺の手を包みこむようにやさしく握り返してくれた。掌のぬくもりが伝わる。結衣の気持ちが、俺の気持ちが。
ふたつがふたりのつないだ指先からとけて、まじり合う。
もう、目の前にいるのは幼馴染みの守るべき女の子なんかじゃない。幼さと脆さを含んだ少女じゃない。
一人の女性として人生の階段に脚をかけ、その第一歩を踏み出した女。
俺が肩を並べて手をつないで、一緒に前を進みたいたったひとりの女なんだ。
*
すっかりぬるくなった珈琲に口をつけて、ななめに歪んでしまったケーキをフォークで口に運びながら俺たちは笑いあった。
せっかくの手作りケーキを落っことして、淹れたてだった珈琲までもぬるくしてしまった俺はつくづく不器用だ。
だけどそれが俺。
そんな俺がすきだと結衣が笑う。
だから……まぁ、いいんじゃないかと。結衣がそう言って笑ってくれるなら、そう思えてくるわけで。
冬の夜空を背景に、夜風にひろがる白い呼気とつないだ指先から伝わる互いの体温を分けあいながらふたり、並んで歩く。
俺は右手で結衣の自転車を押しながら、結衣の家までの距離をすこしずつ、惜しむようにゆっくりと歩幅をあわせて歩いた。
日付が変わるまでに結衣を家まで送り届ける。それが隆司との約束だから。
ま、すこし……ってか、かーなーりー名残惜しくはあるのだけれど。
せめてもう少し早く来てくれていたらもうちょっと、もうすこぅしばかりはイチャコラできたんじゃないかって、表面では紳士面して内心オオカミな俺はそうぼやく。勿論、心の中で。それを声に出すほどバカじゃない。
ただ、次の約束をなるべく早く取りつけるためにも時間がなかったのをかるく愚痴って、さみしがってみせる。
年上の余裕? もとからないし、関係ねぇ。
むしろ、開き直ったへたれは強い。
幼馴染みの兄貴面になりたての恋人の甘みと熱をしのばせて、物わかりのいいふりしつつもこっそり引き寄せるぐらいにあざとくもなれる。
「そうなの? 隆兄にはしばらくは男同士で語らせろ、だから当分来るな。遅くとも21時以降にメールするからそれから来いって言われたんだけど?」
なんにも知らない結衣はぱちぱちと瞳をまたたかせながら、小首をかしげて俺を見上げる。
その角度、その瞳……やばすぎるっつぅの! 惚れた欲目と言うか、メロメロですと言いますか。隆司の「ざまあみろ」と言わんばかりの高笑いが遠くから聞こえる気がして、俺は冬の夜空にむけてひとつ、白く煙るようなふかい溜息をついた。
だけど、さ。
あと数日後、俺が年末休みに入ったら、俺の部屋に置く結衣用のマグカップをふたりで買いに行くのもいいかもしれない。
ついでに結衣の好きなシュークリームを買って、今度はちゃんと熱い珈琲を俺が淹れてふたりで飲んで。
親父が撮った、始と美月さんの究極にかわいい写真をふたりで眺めたりしてさ。
そしてこれから二人で過ごす時間が増えて積み重なって、互いに共有する思い出とモノが増えていって……いつか、今は結衣を送るこの道を一緒に帰る日がくるかもしれない。
ふたり、並んで。手と手をつないで。
そんなまったく気の早すぎる未来を心のなかで思い描きながら、俺は隣を歩く大切な贈り物の掌をつよく、ぎゅっと握りしめる。
そして握りかえされたんだ。
まるで、同意の返事を返すかのように。