第一幕:大いなる誤解と、ネオンの予兆
世に豊臣秀吉という男がある。 尾張の針売りの子とも、あるいは最下層の農民とも言われる身から、ついには天下人へと上り詰めた、日ノ本最大の出世頭。
誰もが知るその英雄譚は、本来であれば、泥にまみれた一足の草履を懐で温める、あの素朴な忠義から始まるはずであった。
しかし、天の配剤か、あるいは電脳世界の悪戯か。その歴史の歯車は、最初から致命的に狂っていたのである。
――鬱蒼たる原生林を渡る風は冷たく、重い湿り気を帯びていた。
令和の都市部では決して味わえぬ、青臭い大地の匂いと、生い茂る巨木たちが放つ圧倒的な生命の圧。そこは人間によって管理された現代の山林とは、明らかに一線を画する未開の領域であった。
遠く霧に煙る山の尾根の向こう。その静寂を破るように、重厚な地響きがかすかに鼓膜を震わせる。
その泥にまみれた地面から、一人の青年が顔を上げた。
「……痛てて。おいおい……何だ、これ」
頭を振り回されたような不快な残響のなか、彼――豊田大河は泥混じりの地面から顔を上げた。
衣服に張り付く草の匂い。肌を刺す、澄んだ湿度の高い空気。
ポケットからスマートフォンを取り出してみるが、画面の右上に表示されているのは、冷酷な『圏外』の二文字だった。
「遭難……にしては周りの木々が妙にデカすぎるな」
立ち上がり、周囲を見回す。鬱蒼と生い茂る原生林は、人間によって管理された令和の山林とは明らかに異質だった。
何が起きた。確か京都の歴史博物館の特別展からの帰り道、奇妙な落雷に遭遇して――そこからの記憶がすっぽりと抜け落ちている。
呆然としながらも、歴史オタクとしての悲しい性か、本能的に見晴らしの良い崖の縁へと足を運んでいた。そこから視界が開けた瞬間、大河は息を呑んだ。
遠く、霧に煙る山の尾根の向こう。
そこに、均整の取れた美しいシルエットを誇る、巨大な天守閣がそびえ立っていた。
「嘘だろ……。あの建築様式、現存十二天守のどれでもない。それに、あの規模の城が現代に残って頭を張ってたら、歴史の教科書がひっくり返るぞ」
スマホの時計は狂っていない。だが、目の前にある景色は明らかに現代のものではなかった。
じわじわと、一つの狂おしい仮説が脳細胞を支配していく。
――タイムスリップ。
SF小説やアニメで擦り切れるほど見てきた超常現象が、今、自身の身に起きている。
「待てよ。あの城の形、それに取り巻く小規模な城下町の気配……。間違いない、時代は戦国。それも群雄が割拠する、あの熱い時代だ!」
彼の胸を満たしたのは絶望でも恐怖でもなかった。それは、身体が震えるほどの圧倒的な歓喜だ。
なぜなら大河は、三度の飯より戦国時代を愛する筋金入りの歴史オタクだったからだ。どの武将がいつ裏切り、どの合戦でどんな戦術が使われ、誰がどこの利権を握っていたか、その全てが我が事のように頭に叩き込まれている。
「勝ったな……」
大河は誰もいない山中で、思わず不敵な笑みを浮かべた。
現代ではただの少し歴史に詳しい一般人だった彼の知識が、この時代では未来を予知する神の知恵になる。
「織田信長、武田信玄、上杉謙信……歴史の偉人たちを相手に、俺の知識がどこまで通用するか。いや、それどころじゃない。歴史の流れを先回りすれば、農民から天下人にまで上り詰めたあの木下藤吉郎……豊臣秀吉の再現だって不可能じゃないぞ!」
夢が広がり、足取りが軽くなる。
まずは情報を集めるため、そして身の安全を確保するために、あの城下町へと続くであろう山道を下ることにした。歴史オタクの生存戦略、第一歩の始まりだ。
しかし、山道を数十分ほど下ったあたりで、彼の脳内に小さな違和感が芽生え始めた。
「……何だ、この音?」
腹の底に響くような重低音。戦国時代の山中で聞こえるはずのない、巨大な工業機械が駆動しているかのような不気味なモーター音だ。
さらに不審な点はそれだけではなかった。
生い茂る木々の隙間、遙か下方にあるはずの街道のあたりから、怪しい光が漏れ出している。
太陽の光ではない。それは、夜の歓楽街でしか見ることのないような、どぎついピンクや、鋭いサイアン・ブルーの、禍々しい人工的な輝きだった。
「……あの音、火縄銃の音にしては重すぎる。いや、そもそもあんな電気的な光、この時代にあるはずが……」
背筋に冷たい汗が伝う。胸の中の「歴史知識で無双できる」という万能感が、急速に冷えていくのを感じた。
不審な音と光の正体を確かめるべく、大河は息を潜め、街道を見下ろせる茂みの陰へと身を隠した。
その直後だった。地響きが、さらに激しくなった。
金属と地面が衝突する、重厚な足音。何かが、大河のいる方に向かって近づいてくる。
彼は茂みを少しだけ掻き分け、街道へと視線を落とした。
そして、木々の隙間から姿を現したそれを見た瞬間、彼の思考は完全にフリーズした。
街道を進んできたのは、一団の武士たちだった。
だが、その姿は彼の知識にあるどの教科書、どの絵巻物、どの大河ドラマの描写とも懸け離れていた。
それは、刀を携え、甲冑を纏った武士の姿。
――しかし、その輪郭は異様に角張り、パーツの隙間からは見たこともない色の発光ラインが冷たく明滅している。
彼らが跨る馬らしき影からは、白煙と共に、荒々しい排気音と火花が散っていた。
それは紛れもなく、現代のテクノロジーすら遥かに凌駕した何かで武装した、異形の一団だった。
「な、何だよ……あいつら……」
大いなる誤解は、最悪の困惑へと塗り替えられる。
大河がタイムスリップしたのは、本当に彼の知っている戦国時代なのか。
ガタガタと震える足を押さえながら、彼はただ一人、何も持たない生身の身体で、その異様な軍勢を凝視し続けるしかなかった。




