第八十四話 戦端
夜中、正季は佐閑へ、大蜘蛛丸は国境を越える
そのときが迫る
陽が落ちた。黄昏の東の空に上弦の月が浮かんできた。
大蜘蛛丸は偵察に出していた配下に案内させて、下仁田から信濃の湖岸へと向かった。
配下の者が大蜘蛛丸に尋ねた。
「お頭、これからの手筈は?」
「まずは、街道に出て、佐閑に近づく。月が沈むのを待って、一気になだれ込む。殺せるだけ殺し、奪えるだけ奪ったら、この道を引き返して上野に戻る」
「もっと早く突っ込んじゃいけないんで?」
「里の武者は、陽が落ちてからずっと気を張っているだろうよ。夜明けが近づいて、疲れがたまり、緩んだところを叩く」
「なるほど……でも。この月ですと、突っ込んでから日の出まではそんなに時がありませんぜ。引き上げるころには明るくなりますぜ」
「構うもんか。このあたりは郡代からも近くの里からも遠い。俺たちが襲ったことが分かるのは翌日になるさ」
正季は千曲川沿いの道を、佐閑に向けてひた走った。馬の揺れで具足と太刀がぶつかり音を立てる。火照った顔に冷たい風が心地よかった。
右手に八つの峰々が月明かりに浮かんでいる。月があるうちは来ぬ――間に合うはずだ。正季は自分に言い聞かせた。
湖岸に出て里が近づいてきた。街道から里へと続く斜面を登っていく。幸い異変はまだ感じられない。馬の速さを抑えると、かすかに篠笛の音が聞こえてきた。馬防柵の手前で馬を降り、大声で名乗った。
「橘だ。入れてくれっ!」
柵から続く斜面の上の方に動きがあった。しばらくすると重平が駆けてきた。
正季は重平とともに、妙泉寺に向かった。
本堂には、鎧を纏い、太刀を傍らに置き、篠笛を手にした真貴がいた。
「橘様、何事かありましたか?」
「まだ、起きてはいない。しかし、これから起きると教えてもらった」
「どなたから……?」
「父だ。父の声が聞こえた。巫女殿こそ、そのいで立ちは……」
「胸騒ぎがして眠れなくなりました。気持ちを落ち着けようとしていたところです」
「私も胸に騒ぐものがある。私とそなた、奴と因縁で結ばれる二人が感じるものは確かだろう」
ユイは、浅い眠りの中で夢を見た。おぞましい目が闇から自分を見つめていた。
「類子……」
目の主が、忘れようとしていた名を呼んだ。
目が覚めた。傍らにいるはずの真貴がいなかった。多分、寺にいるのだろうと思い、行ってみることにした。真貴と橘の話が聞こえてきた。
「先月、流人の源顕清が逝った。大蜘蛛丸は顕清の出奔した息子だ。が、真の父は……」
「やはり、院……」
「そうだ。今、奴は出生の秘密の証人が消えて、気が高ぶっていると思う」
ユイは息を呑んだ。口が乾き動悸がした。
「……ユイ目が覚めたの?」
真貴はユイに気が付いた。真貴はユイの表情が固まっていることに気が付いた。
「聞いてしまったのね。でも、ユイは何も恐れなくていい」
真貴の声は穏やかだった。真貴はユイの両肩にそっと手を置いた。
「人を定めるのは血ではありません。その者が何を為したか、それだけです。親子、兄妹の縁も、助け合ってこそ意味を持つもの。人を縛るものではありません」
中宮が殺めようとした姫……正季は言葉を失った。胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。真貴の言葉は、自分にも向けられていた。
隣に座ったユイの肩を真貴はそっと抱いた。
八つの山並みに月がかかりだした。虎鶫の鳴き声が遠くからかすかに聞こえる。
「もうすぐか……」
「そうでしょうね」
大蜘蛛丸は月が沈み始めるのを満足して見ていた。
これから行うことを想像するだけで、体も吐息も熱くなるのが分かった。
街道から少し入った茂みで、座り込んで休んでいた手下たちに声をかけた。
「行くぞ」
一味は一斉に騎乗して駆けだした。すぐに佐閑の田畑が星明りに見え、里へ登っていく道に入る。
しかし、里を前にして目を疑うことになった。里を囲むように柵が築かれ、出入り口に向かおうとすると、面倒な丸太組みが突入を妨げている。
「小賢しい……」
大蜘蛛丸は毒づいたが、鼻で笑い、手下たちに命じた。
「馬はその辺に繋いでおけ。徒歩で斬り込むぞ」
重平は正季が来て以降、番小屋に詰めていた。
月が沈んですぐ、犬たちが落ち着きを失った。伸びあがって夜風の匂いを嗅ぎだした。次第に昂奮して唸り声を上げ始める。馬の鼻を鳴らす音。鳴子の音。重い金属音。重平の耳にもかすかに聞こえてきた。
重平は一緒にいた村人を寺と秀柾の小屋に走らせた。
ついに、村の出入り口をこじ開ける音と男たちの声が聞こえてきた。
重平は撥を取って、ぶら下げている木の板を、力任せに打ち鳴らした。乾いた音が、村中に響いた。
大蜘蛛丸の配下は、村の出入り口を塞いでいた材木に手をかけた。取り除こうと力をかけると鳴子が音を立てた。
大蜘蛛丸はせせら笑った。
「なんだ、こりゃあ、鹿威か」
配下の一人が言った。
「お頭、この村は様子がおかしいですぜ。やめた方がいいんじゃ……」
大蜘蛛丸は、その配下を蹴り飛ばした。
「柵がなんだ。この村には武者は二人だけだ。この人数でかかれば訳はない」
その時、木をたたく乾いた音が鳴り始めた。
大蜘蛛丸は吠えた。
「くっそぉー!気づかれた。逃げられる前に斬り込むぞ」
秀柾はセイの手伝いで具足を着けた。
「では、参る」
「私は寺へ」
「終わったら婚儀だ」
「はい」
秀柾は弓矢を手にした。
真貴は重平の知らせを受け、うなずいた。
集まって来た村人たちに村長が村人に指示を出す。
「皆、頼む」
真貴が言った。
「絶対に奴らに近づいてはなりません」
大蜘蛛丸の一味は出入り口に開けた穴から次々に村に入った。
しかし、目の前には、またも丸太組みの柵があった。木を叩く乾いた音は続いている。
大蜘蛛丸は配下に言った。
「円陣を作れ。一団となって、村の真ん中に斬り込むぞ」
木を叩く音が止まった。村の方から赤い火が、尾を引いて飛んだ。
飛跡を目で追った大蜘蛛丸は吐いた。
「どこを狙ってやがる」
村に向き直って駆けだそうとしたとき、異変に気付いた。足元に自分の影がある。顔を上げると、両脇の狼煙台が明るい炎を上げて燃えだした。すぐに、行く手の両脇の二基も燃え上がり始めた。
闇は消えた。
ついに戦端が開かれた




