戻ってきた冊子
リリの正式な夫となった俺は、未来の俺が言っていた「別れる」という言葉を覆した気になり、少し、本当に少しだけど、安心していた。
でも、その後リリの容態が良くなることはなかった。気分に上下はあったものの、リリは日に日にやつれてゆき、目はくぼみ、頬はさらにこけていった。いわゆるカヘキシー、つまり典型的な末期ガンの症状だった。
「ありがとう」
俺が看病に行くと、リリはいつも嬉しそうに笑ってくれた。俺はそんなリリの笑顔を目に焼き付けるように、リリを見つめ、たくさん話した。泣きそうになると、トイレに行くフリをして一人で泣いた。
「なんだよ、改まって。別にいいよ、お礼なんか言わなくても。看病は、俺がしたくてしてるんだし」
そして。看病を始めて何度目の夜だっただろうか、リリに突然、お礼を言われたのは。
「看病のことじゃなくて。今まで全部」
「今まで?」
「今までずっと、私と一緒にいてくれてありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、俺の涙腺が急に緩んだ。
「よせよバカ。もう終わりみたいに聞こえるだろ!」
溢れてきた涙がこぼれないように、上を向きながら答える俺。
「……言えるときに、言っておこうと思って。本当に嬉しかったんだ、私。あの日、たっちゃんが告白してくれて。つい昨日のことみたいなのに、もう、10年も前なんだね」
「……そうだな!」
泣くのを無理に我慢して、明るく答えようとした俺の声は、震えていた。
「私ね、見ての通り……すっごく地味だったから、本当に、全然男の子に相手にされなくて。中学の時なんか、罰ゲームで告白されたりしてさ。私、一回本気にしちゃったんだよね。……みじめ……だったよ。それからはもう、男の子が恐くて……」
聞いたこともない、リリの過去だった。……あの頃の俺と同じように、リリだって色々……悩んでたんだ。
「……俺は、よかった、のかよっ……!」
「うん、だってたっちゃん、いつも一人だったから。友達とふざけ合って私に告白するような人には見えなかったし、たっちゃんなら、私だけを見てくれそうな気がしたんだ。ずっと、似てると思ってたんだよ。私とたっちゃん」
「そんなこと言われても、あんまり嬉しくないっつーの!」
俺は涙を乱暴に拭き、リリの手を握りしめた。
「もう、もう止めてくれよ! 死なないでくれよっ! 死なないでくれ! 死ぬな! 死ぬなよ! ずっと俺の隣にいろよ! いつまでもずっといろよっ!」
年甲斐もなく、俺はベッドに顔を押しつけて泣いた。そんな俺の頭を、ほとんど骨と皮だけになった手で、リリは優しくなでてくれた。
「ありがとう、たっちゃん。私はとっても、幸せだったよ」
――リリが息を引き取ったのは、その翌日のことだった。
まるで花びらが散るように。リリは、静かに亡くなったそうだ。
その日にリリが死ぬなんて思っていなかった俺は、いつものように会社で仕事をしていた。病院から連絡が入って、俺はすぐに病院へ駆けつけたけれど、リリの死に際には、立ち会えなかった。
病院に着いた時にはもう、色々な処理は終わっていた。リリを看取ってくれた看護師の方から、リリは最期まで頑張り通したと伝えられる。美しい死に化粧をされたリリは、何もしゃべらずに眠っていた。
「リリ……?」
俺はリリの隣まで歩き、リリの耳元で呟いた。
「死んだ……のか……?」
リリは、何の返事も、返してくれなかった。
「そうか……。……お前は絶対死なないって……信じてたのに」
俺は恐る恐る……リリの頬に触れた。そこに、俺の知っているリリの温もりはなかった。あんなにもちもちしていた頬は、驚くほど冷たくて、固くて、弾力がなくて……。もう死んでしまったんだという現実を、容赦なく突きつけてくる。
「……無視すんなよ。本当にこのまま喋らないつもりじゃないだろうな? ……おい、何とか言えって。せっかく来たんだから」
……それでも俺は、泣きもしないでリリに話しかけ続けていた。もちろん、どんなに話しかけても……リリにはなんの反応もない。そしてだんだんと、頭が……目の前で起きている現実を理解してゆき……。もう受け入れるしかないと諦めたその時、俺の目から突然涙が溢れ出してきた。……苦しすぎて、声は出なかった。
昨日まで、当たり前のように俺の隣にいたその人は。
たった十数時間の間に、歴史上の人物になってしまった。
どこかにリリの痕跡を見つけたくて、俺はスマホをタップした。メールボックスを開き、最後になってしまった昨晩のやりとりをもう一度読み返す。
[どらやきたべたいな]
[分かった、会社の帰りに買っていくよ。他に要望は?]
……その後に、返事は来ていなかった。リリは全ての力を振り絞ってこのメールを俺に送り、そのまま……果てたのか……。寝落ちしたとは思っていたが、まさかそれが永遠の眠りだったなんて……。
「こんなやりとりで終わりかよ……」
ほとんどリリの名前しかないメールボックスをタップしながら、俺は呟いた。……10年間続いたメールも、二度と来ることはない。
これが、全てを失うということか……。これから俺は、誰のために働き、何を楽しみに生きればいい?
俺の明日は、何のためにある?
リリ、お前は、こんな人生を歩むために生まれてきたのか? リリの毎日こそ、何のためにあったんだ? どうして俺と付き合った? 何であんなに頑張って大学に進学した? 何で就職して働いた? 喜んで傷ついて笑って泣いたあの日々には、何の意味があった?
こんな日のために、頑張って生きてきたワケじゃないだろ!? もっと色々やるつもりで、ずっと努力してきたんだろ!?
「こんなに急いで家族の後を追わなくたっていいじゃねーかよぉっ……。俺じゃ……俺じゃあダメだったってことかよ……」
俺は、崩れ落ちるように座り込んだ。無理だ。もう何もできない。このままここで、リリと一緒に眠りたい。……本気でそう思った。
その時ふと、俺の目にとまったものがあった。リリの枕元に置いてある、2冊の手帳。今更気づいたが、この2冊、サイズが明らかに違う。
まさか、と俺は思い、大きい方を手に取った。その厚みと大きさは、ずっと探し続けていた「アレ」に、限りなく近い。俺は震える手で、リリがつけていた花柄のブックカバーを、そっと外した。
姿を現したのは。
「……今更出てきたって、しょうがねーんだよ……」
薄い抹茶色の、和紙のような表紙。……間違いなかった。
俺が、10年前に見つけ、未来の俺と連絡を取り合うのに使った、あの「冊子」。それが、10年の時を超えて、再び俺の元に戻ってきた。