陥落前夜 王国
陥落前夜 王国
王都は、一週間前から、呼吸を忘れていた。
城門は閉じられ、街道は断たれ、白い城壁の外側には帝国軍の天幕が幾重にも連なっている。
敵は急がなかった。だが、沈黙していたわけではない。
夜明け前、城壁の外から放たれる矢が、闇を裂く。
城壁上の兵が一人、喉を射抜かれて崩れ落ちた。
血が石に広がり、朝日が昇るころには、その赤は乾いていた。
城門では、小さな衝突が繰り返された。
偵察に出た小隊が戻らぬことも増え、引きずり戻された遺体は、鎧の隙間から血と土をこぼした。
それを見た兵士たちは、視線を逸らしながら数を数えた。
――まだ、本格的には始まっていない。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
市場の声は消え、子どもの笑いは途絶え、
城内に満ちるのは鎧の擦れる音と、夜毎に捧げられる祈りだけだった。
人々は、彼女を見る。
王女として。
希望として。
その視線が、重かった。
応えなければならないと思うほど、何も返せない自分が露わになる。
王城では、会議が開かれていた。
だが、そこに戦の熱はなかった。
国王は玉座に座り、静かに手を組んでいた。
老いたわけではない。衰えてもいない。
平時であれば、誰もが賢王と称えただろう。
だが、彼はすでに理解していた。
戦争とは、理と秩序だけでは動かせぬものだということを。
「降伏の使者は、これで何度目だ」
淡々とした声だった。
感情は、そこになかった。
「すべて、拒絶されています」
側近の言葉に、国王は小さく目を伏せた。
条件は示されない。
交渉の余地もない。
ただ、「時」を奪われている。
「……これ以上は、無意味だ」
それが、この国の上層部の結論だった。
戦う前に、諦めていた。
王都を守っているのは、命令ではない。
権威でもない。
――三人だけだった。
城壁には、王女エルネシアが立っていた。
剣を取ることはなくとも、その白い外套が見えるだけで、兵士たちは背を伸ばした。
王太子アウレリウスは、血と泥にまみれていた。
若い身でありながら、最前線に立ち、槍を振るった。
「殿下が戦っている」
その事実だけが、兵士たちを踏みとどまらせていた。
老将バルドゥスは、戦を知っていた。
崩れかけた部隊を叱咤し、
無意味な突撃を止め、
それでも避けられぬ死を、静かに受け止めさせた。
彼がいる限り、戦は「形」を保っていた。
だが、士気は、確実に削られていった。
小競り合い一つで、人は死ぬ。
名もない戦で、明日が奪われる。
民もまた、見てしまっていた。
城壁から落ちる死体。
運ばれていく負傷兵。
祈りの声が、夜ごとに増えていく現実。
「……まだ、攻めてこないのか」
それは希望ではなく、怯えだった。
攻め寄せることも、挑発することもない。
ただ、そこに在り続けた。
――待たれている。
その理解が、王都の心臓を静かに締め上げていた。
夜。
エルネシアは、城壁の上で空を見上げた。
戦火に照らされることのない、静かな月。
それが、あまりにも美しくて、胸が痛んだ。
この光を、
明日も見ることができる者が、どれほど残るのか。
彼女は、そっと息を吸い、呟いた。
「……月が綺麗ね……」




