第四部6
ようやく起き出して、歩き回れるようになった頃合い。
久方ぶりに収まった執務室兼書斎のデスクの上に、見終わったばかりの紙束を放り投げるように置いた。
そして長く、深いため息が漏れ出ていく。
放心したような、納得させられたような。
圧倒的な虚無が肉体の深奥からあふれ出し、外界へと垂れ流されていった。
秘書たる女に手配させていた書類。
はたして『自分自身の履歴』を用意していた時に、あいつは何を想ったのだろう。
いや、きっと何も思わないし、感じもしなかったに違いない。
そう確信していたからこその、本来ならありえないはずの指示であり命令だった。
もう俺のあの女に対する認識は完成された。
もはや見間違うことも迷うこともないだろう。
コンコンと。
いつもの馴染み深いノックの音。
予定されていた来訪者を告げる声も、一切の揺らぎも異常もない、平静なものだった。
………
あの大粛清による人的損失はどれだけの影響を与えたのか。
そう想いを馳せざるを得ない、具体的事例を前に、俺は改めて致命的なものだったことを確信する。
峻厳。
その言葉が最も似つかわしい風貌、雰囲気を持つ男、ヤン・ベルジンを失わずに済んだことに人知れず安堵する。
「あまり君とはこうして話すことも少なかったな」
別荘の一間、主に幹部を招いて密談を交わすための応接室で、着席を促した。
「必要最低限の接触で済むこと自体が、理想的かつ健全な状態ではないかと存じます」
「そうか。言い得て妙ではある。確かにな」
相対するようにソファに座り込む、軍諜報部門トップの男は、諂いでもなく、拒絶でもない、実に理想的なバランスの声で言った。
「それに、私のような軍一筋の不調法者には書記長のお話相手としては、いささか至らないでしょうし、申し訳もない」
「ふふ、そんなことはないとは思うが。ただ、君は無理には誘わんよ。職務に集中してくれた方が互いのためだろう」
「そう言っていただけると。お気遣い感謝します」
この男は間違っても、映画仲間にはなるまい。
こちらからも、お断りだ。
プライベートで会うには少し硬すぎて重すぎる。
ただ、それと政治的有用さは別の話でもある。
「さてお互い無駄な時間はさけるべきだと合意ができたことだし、早速始めるとしよう。……君が極東、日本において採用した『虫』は非常に有用だったことを改めて感謝する」
「感謝など。我がソヴィエトのために当然のことです」
「いや、あれほどドイツに気取られずに軍の移動を完了できたのは、駐日ドイツ大使に対して情報の攪乱を試みた、君ら参謀本部第四局による成果が大なることは明らか。先の軍侵攻における貢献は決して小さいものではない」
「そう言っていただければ、諜報を扱う人間として幸いです。あれは元々、日本の対ソ政策への牽制攪乱を想定していたものでしたが。思わぬところで利用価値がでたものとは思います」
「うむ、おかげ様で北進を放棄した彼の国においては、もはや別の役割へと遷移する段階なのは間違いあるまい。私としてもその、間諜としての価値の変質を強く意識しているのだ」
「引き続き、ドイツ側への攪乱および、日本高官からの情報収集は継続させております。……こうしてお呼びいただいたということは他に何か新たなご要望がおありなようですな」
優秀な軍人との端的かつ無駄のないやり取りに、小気味いい心地よささえ感じる。
この男がいなかったらどうなっていたかと、やはり思わずにはいられない。
これなら恐らく、本来の歴史と違い、あの日本史上最も有名な間諜暴露事件が発生することもあるまい。
「では改めてお願いすることにしよう。何、そう難しいことでもない。所詮今までの延長線上のことだ。……ようは」
俺は核心を確かに伝えられるよう、ゆっくりと力を込めて言葉を放つ。
「北進を完全に諦めた日本が、確実に南進を開始するよう、最後の後押しをしてほしいという、ただそれだけのことなのだ」
スパイ・ゾルゲと呼ばれた男の新たな任務はそうして始まったのだった。




