第四部序
ハカセが捕まった時、俺は今まさにその部屋に向かう途中だった。
アパートを目前とした俺が目にしたのは、両脇を私服刑事らしいやつらに囲まれてパトカーに乗せられようとする彼の姿だった。
雑多な見物人に紛れて茫然と立ち尽くしていた俺に気が付いたらしい。
一瞬だけ目が合うと、含みを持たせた視線を送ったと思った途端、すぐに逸らしてあらぬ方へと向けた。
無関係を装おうとしているのはすぐにわかった。
彼は俺を当然の義務として、一緒くたに捕まらないよう配慮しているのが明らかだった。
スグニハナレロ。
あの一瞬の視線の交錯で、明確な意思をしっかり把握した。
だから俺は何らの迷いもなく、その場を何気なくを装って離れていった。
こういう非常時における対応方法もさんざん叩き込まれていたから。
活動家として常日頃からやって当然の危機管理の一つに過ぎなかった。
でもまあ、そんなその場しのぎの対応など、さほどの意味もなかったわけだけど。
何のことは無い、結局ハカセの部屋から掴まれたあらゆる情報、物証、痕跡によって組織のほとんどの全容は掴まれたというだけの話だった。
ハカセ以外の組織の中枢メンバー、助力者、協力組織など、一網打尽というしかないほどの致命的なものだった。
組織の終わりの始まりだった。
そして俺の存在が当局に完全に知れ渡って、マークされるきっかけの。
俺を育てて、あらゆるものを教えてくれたのはハカセだった。
そしてすべてを奪って台無しにするきっかけになったのも。
ハカセは最悪の危機的状況でも俺を助けようと最低限の配慮と義務は果たそうとしていたのは明らかだった。
でも結局彼が原因で何もかも駄目になったのも事実だった。
善意の有無とか、人間の良し悪しとかとは別の次元で、どうにもならないことがある。
たとえどれだけ当人に悪気がなくて、むしろ情愛を示してくれたとしても、最悪な結果になることも珍しくもない。
どこの国にも、思想陣営にも、いいヤツも悪いヤツもいる。
そんな個人レベルとは関係ないところで、前提となる属性や構造自体の歪みそのもので、もうどうしようもないほど悲惨が宿命づけられているんだと。
つまりは、極左活動家のアカだった時点でハカセがどれだけいいヤツだったろうと、結末は変わらなかったんだと。
粛々とそう思い知らされるだけの人生の、それが始まりだった。
………
目が覚めると、白く滑らかな背中があった。
もうすっかり慣れ親しんで、傍にあるのが当たり前になった、違和感皆無の存在。
自分の方が先に目覚めるなど、初めてかもしれなかった。
薄闇の中、無防備に晒されている柔らかな曲線の肉体を確認するように見つめ続ける。
しっとりと湿り気を含んだような艶やかさ。
降り積もったばかりの雪原を思わせる無垢が。
あるいは無自覚に異性を引き付けようとする命の妖艶が。
どこまでも無感動に、淡々と同居しているとでも言うような。
そんな背中だった。
何故か郷愁めいた心細さを感じて、ゆっくりと手を伸ばして触れた。
その瞬間、うめき声にもならないくぐもった音が向こう側から聞こえた気がした。
想像通りの手触りを味わいながら、それまで気が付かなかった微細な色彩の違いを発見する。
ただ白一色で均質に統一された幾何学的様式美だとすっかり思い込んでいたものが、実は極小の無数の異物によるパッチワークなのだと今更気が付かされる。
ごく間近で注意深く見ない限りは絶対わからないだろう程の。
だけど確実に刻まれた、肌質の違う無数の何かの痕跡。
生きていれば当然の、経年的変形の一つ。
それがこの背中にもあったというだけのこと。
ただそれだけのはずなのに。
永遠不変に朽ちることのない完全物質が、そうではないことを改めて認識させられるような気持ちになった。
この何もかも不確かな混沌世界の只中で。
いつの間にか傍にいた正体不明の存在を、確かな手がかりを持つ唯一絶対の座標点だとでも思っていたのかもしれなかった。
おはようございます。
一切の情緒も抑揚も欠いた、寝起きとは思えない声。
無慈悲な現実世界への呼び声に他ならなかった。




