9.レアル村
夕食会の後、モナ女王、バラカト、イブラハム、マリアの四人は、玲子と近藤に気を利かせ、玲子たちと別れた。
モナ女王は、マリアに小さな声で尋ねた。
「これから私とバラカトさんは首相官邸に行き、グレンと一緒に仕事の続きをするわ。ところでサマル、あなたは今晩、私の家に泊まる?」
「私はイブラハムさんと、もう少しお話しする。その後でお姉さまの家へ行く」
マリアも小さな声で答え、
「イブラハムさん、私と少しだけ付き合ってちょうだい」
と、イブラハムの腕に自分の腕を巻きつけ、近くのバーに向かった。
バーでイブラハムはバーボンを注文した。もちろんマリアは、未成年なのでお酒が飲めない。マリアはジンジャエールを注文した。
「イブラハムさん。今日はありがとう。イブラハムさんのおかげで、玲子姉さんが救われたわ」
「どういたしまして」
イブラハムは何事もなかったかのように、バーボンを飲んでいる。
「俺は玲子に会社を大きくしてもらった恩がある。俺が役に立てて嬉しいよ」
イブラハムは、見かけによらず謙虚である。
「でも、玲子姉さんの心の中を覗くだけでなく、モナ女王や近藤さんの心の中を覗き、それを玲子姉さんの心に映し出すなんて、すごい能力よね。私には真似できない」
「……」
マリアの洞察にイブラハムは、しばし何も言えない。
「…マリア…、きみは…」
ようやく声を発することができたイブラハムは、マリアの顔を凝視した。
マリアは、大きな瞳と無邪気な笑顔でイブラハムを見つめている。
「マリアも…俺と同じ能力があるのか?」
「私には、イブラハムさんのように動物とお話しをしたり、人の心を読むことは、できない」
「それじゃあ、どうしてわかったのか?」
「勘よ。でも当たったみたいね」
マリアは笑いながら、ジンジャエールが入っているグラスに唇をあてた。
「そうか、マリアは勘が鋭く、ときどき未来が見えるのだね?」
「イブラハムさん。今、私の心を覗いたでしょう?」
マリアが肘でイブラハムの胸を軽くつついた。
「すまないが、覗かせてもらった。君とモナ女王とが双子の姉妹であることも、会った瞬間に分かった」
「そうなの。でも、お願いだから、このことを他の人には言わないでね」
マリアは両手を合わせるしぐさで、イブラハムにお願いした。
「俺は、モナ女王もバラカトさんも好きだ。あの人たちが不利になるようなことを言うつもりは無い」
「多分そう言ってくれると思っていた。ありがとう」
マリアは、玲子から事前にイブラハムの人となりを聞いていた。そのため、安心しきった表情でイブラハムを見つめている。無邪気な笑顔にえくぼが見える。
「ところでマリア。無理をしてはいけないよ」
「えっ? どういう意味?」
「きみは、玲子のボディガードとしてスラノバ国に来たのだろう?」
「うん…。そうだよ」
スラノバ国に来た目的をイブラハムに読み取られたことで、マリアは溜息をついた。
「でも、マリアがボディガードになることを、玲子は望んでいない。逆に、そんな危険な状況になった際には、玲子は身を挺してマリアを庇うはずだ」
「ということは、私は何の役にも立たないの?」
「いや、そうじゃない。きみは、未来を予知でき、さらにその先の未来を変えることができる。それは君にしかできないことだ」
イブラハムは、マスターにバーボンのおかわりを注文した。氷だけになった空のグラスを揺らし、
「でもマリアが玲子の弾よけとなることは、止めたほうがいいし、やろうとしても、それは逆効果になる」
と、人指し指でマリアのおでこを軽く押した。それからイブラハムはマスターが運んできたバーボンをゴクリと飲んだ。
「マリア、俺の言うことがわかるかい?」
「うん…。なんとなく…」
「じゃあ、きみが危険だと感じたら、俺を呼んでくれ。そのときは、俺が玲子を守る」
「助けてくれるのね。ありがとう」
イブラハムの言葉に、マリアは元気をもらった。
(イブラハムさんが、玲子姉さんを助けてくれる。これで、私一人では助けることができなかった未来が変わるはずだわ。きっと玲子姉さんを助けることができる)
マリアは心の中でつぶやいた。
マリアは喜んだ。そして救われた。
今までマリアが予知する未来では、どうやっても玲子を救うことができなかった。マリアは半ば諦めていた。
昼間、マリアが玲子のベッドに潜り込み『…ごめんね』とささやいたのは、決して変えることができない玲子の未来を諦めていたためだった。マリアがボディガードになると決めたのは、玲子の身代わりとなる覚悟であり、マリアの捨て身の手段だった。
「これで決まりだ」
イブラハムは、マリアの頭を撫でた。
「でも、そんなに玲子は危険な状況なのか?」
「おそらく…、十二日後、何が起きるのかは分からないけど、邪悪なものが玲子姉さんを襲う。そのとき、私の力では玲子姉さんを助けることができない…」
マリアは、何かに怯えるようにイブラハムの腕をしっかり掴んだ。
イブラハムはマリアの心を落ち着かせるように、しばらくの間、頭を優しく撫で続けた。
「大丈夫だ。俺が必ず助ける。任せとけ」
イブラハムの言葉を聞くと、マリアは安心する。なんの裏づけも無いが、何とかなると希望が持てる。
この一ヶ月間、マリアは一人で悩んでいた。その悩みは、何度頭の中で模索しても解決しなかった。だが、今晩ようやくマリアは、その悩みから解放されたのである。マリアの心の中で、イブラハムの存在がひときわ大きくなっていくのをマリアは感じた。
「ところでマリア。君は未来だけでなく過去も見ることができるか?」
「過去を見るって、どういうこと?」
「たとえば、俺の二十年前の過去をみることが可能かどうかを教えてほしい」
「私は未来も、意識して予知するわけじゃなく、ふと頭によぎるだけなのよ。ましてや私が生まれる前の過去を意識して見るなんて、やったことない」
「そうか…。わかった」
イブラハムは残念そうな顔をした。
「イブラハムさん、どうしたの?」
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
イブラハムは、この件に関して話をやめた。
だが、イブラハムの心の中では、ハッサンとムハマドのことが気になっていた。
(おそらく…、あの二人は兄弟だ)
イブラハムは溜息をついた。
次の日、玲子はマリアと共に農政省の車に乗り、地方にある村の国営牧場へ向かった。
放牧されている牛たちを相手に、ピアノを演奏するためである。
この村は、灌漑用水により、水に事欠くことなく植物が実っていた。
牧場に着くと、牧場主のハレヤが玲子たちに挨拶した。
「こんな田舎によく来てくれたべ。ありがとうだべ」
牧場主のハレヤは訛りのある話し方だが、彼の言葉からは誠意が感じられる。
「初めまして。白井玲子です。よろしくお願いします。
玲子が挨拶し、マリアも続けて挨拶した。
「あんた。もしかして『東島の勇者』玲子だべか?」
「はい、そう呼ばれています」
「俺たち、みんなあんたのファンだべ。あんたには、みんなが感謝している。戦争を終わらせてくれてありがとうだべ」
ハレヤは玲子に握手を求めた。
玲子は、握手をしながら驚いた。
(こんな地方にも、私のことを知っている人がいるなんて…)
実際、スラノバ国の人は殆ど玲子のことを知っていた。但し、昔はテレビが普及していない場所もあったため、玲子の顔を知らない人もいる。
ハレヤは、玲子が仕事しやすいように、ピアノの移動をしたりマテ茶を運んだりと、いろいろと気をくばってくれた。
牧場にピアノが設置された。スピーカーも設置された。これで牧場内の何処にいても玲子のピアノ演奏を聴くことができる。
牛たちは、昼間なので放牧され、牧場のいたるところでのんびりとしている。
「玲子姉さん。ここにいる牛さんは、乳牛だから、美味しい乳が沢山出るような音楽が良いと思う」
「私もそう思う」
玲子がうなずいた。
「魚さんのときは適当に運動させて、身が引きしまるようにしたほうが良かったけど、ここにいる牛さんたちは、自由に運動できるので、のどかな音楽を聞かせたほうが良いみたい」
玲子は牛たちの様子を観察しながら、ピアノの鍵盤に向かい座った。
しばらくの間、玲子は、集中した。
一分以上、玲子は目を閉じている。それからゆっくりと目を開けて、ピアノを演奏し始めた。
牧場の草がゆれ動いた。まるで玲子のピアノからそよ風が吹いているかのように、暖かく優しい音色が響いてくる。
玲子がピアノを弾きだすと、周りにいた牛たちが寄ってきた。スピーカーは牧場のいたるところにあるのだが、やはり牛たちも、玲子のピアノ演奏を直接聞きたいようだ。
牛たちはピアノの近くで一斉に座り始めた。行儀よくお座りして、ピアノ演奏を聴いている。
どの牛たちも穏やかな顔をしている。中には、曲の合間に、「モー」と鳴いて、一緒に歌っている牛もいた。
牛たちは、とても心地よいひとときを過ごしているのだろう。それは、牛の表情から見てとれる。
玲子は、一時間ほどピアノを演奏し続けた。
玲子が演奏を終えると、一頭の牛がゆっくりと玲子に近づいてきた。
「キャー」
マリアは叫び、駆け足で車の中に逃げ込んだ。
マリアは牛が苦手のようだ。車の中で身をかがめておびえている。
しかし、近づいてくる牛の表情を見ると嬉しそうにしており、玲子に危害を加えることはなさそうだ。
牛は、玲子の隣に来ると、舌を出して玲子の右の頬をぺろりと舐めた。
「いやーん」
玲子は思わず声を出した。
「牛たちがあんたに感謝しているみたいだべ」
ハレヤが玲子に説明した。
「牛たちの感謝は、素直に受けたほうがいいだべ」
玲子は、ハレヤの意見に従い、玲子の頬を舐めた牛の頭を、優しく撫でた。
玲子に頭を撫でられた牛は、和やかな目で幸せそうな顔をしていた。
すると、もう一頭、黒い牛が玲子に近寄ってきた。
その牛は、玲子の左頬を舐めた。
「またなの。いやーん」
玲子の両方の頬は、牛の舌で舐めつくされた。
玲子は、左側の牛の頭も優しく撫でた。
しかし、玲子の限界は、そこまでだった。
しばらくすると、玲子の周りには、五頭ほどの牛が集まった。玲子の頬だけでなく、額から鼻、唇にかけて舐められた。さらには玲子の首筋や手足も舐めだした。
「ちょっと…」
さすがの玲子も、大勢の牛から囲まれたため、恐怖を感じた。
中には玲子のスカートに頭を突っ込み、太ももを舐めだすふとどきな牛もいた。
「あっ…、そこはダメ」
スカートを抑えながら、玲子は叫んだ。
やがて、近づいてくる牛の数は、だんだん多くなった。
玲子は、複数の牛からもみくちゃにされ、体の自由を奪われた。しかも顔や手足を舐められ続け、体中が牛の唾液で覆われた。
牧場主のハレヤも、近づいてきた牛の多さに驚き、急いで玲子を牛の中から助け出した。
「勘弁してけろ。あいつらに悪気は無いんだぁ」
そう言いながら、ハレヤは、素早く玲子を車に乗せ、牛たちから離れた。
「あーん。牛さんから全身にキスされちゃったー」
全身が牛の唾液まみれになった玲子は、マリアに寄り添い溜息をついた。
「やっぱり私は、牛さんから襲われる運命だったのね」
マリアは、水分を含ませたタオルで玲子の顔や体を丁寧に拭きながら、
「玲子姉さん、大丈夫。牛さんたちは玲子姉さんが大好きなのよ。だから危害を加えるつもりは全然無かったの」
と、安心させる。
玲子も、牛たちに悪気が無いことは、充分わかっている。だから、それほど悲しんではいない。
(そう…、玲子姉さんが本当に危ないのは十日後…)
マリアは、心の中でつぶやいた。
そのころ、議員会館のエネルギー省では、大臣のアセフが浮かぬ顔をしていた。
エネルギー省のアセフ大臣は、もともとは武器商人だった。かつてはスラノバ国の内戦に乗じて王国軍や革命軍に武器を売り渡し、会社を大きくしていった。
「私は王国軍の味方です。悪い革命軍を倒すために格安で武器をお譲りします」
と、アセフは王国へ武器を販売していた。
そして、その裏ではダミー会社を設立し、
「私は革命軍の味方です。貧困者を救う革命軍に対し格安で武器をお譲りします」
と、革命軍へは代理人に販売させていた。
つまり、スラノバ国の内戦で、アセフの会社は、急速に大きくなったのである。
内戦が終了すると、アセフはいち早くスラノバ国の復興のために資金を貸し付けた。
「私はスラノバ国の平和を願っています。スラノバ国の未来のために資金を貸し付けます」
昨日まで死の商人だったものが『平和を願っています』とは滑稽である。だが、王国も革命軍も彼には借金が相当額あった。彼の貸し付けに応じなければ、直ぐにでも今までの借金を返済しなければならない。まさに負の悪循環だった。
そのためスラノバ国は、アセフから資金を借り、しかもアセフの要求に応じて、彼をエネルギー省の大臣とした。
今回、風力発電やソーラ発電を普及させるにあたって、エネルギー省は大忙しである。だが、アセフは浮かぬ顔をしている。なぜならば、設置する風力発電機やソーラパネルはイブラハムやパラカトが推薦した会社のものであり、アセフが推薦した自社販売品ではなかったためである。
当初アセフは、イブラハムやパラカトの提案に対し好意的だった。彼らの提案で自社の製品が売れ、収益が上がると見越していた。だが、アセフの会社が販売する風力発電機やソーラパネルは大変高価だった。するとイブラハムやパラカトは自分達で調査し、アセフの会社の半値以下のものを探し出し、推薦したのである。
結局、グレン首相の最終判断でイブラハムやパラカトが推薦した安価なほうを購入することが決定した。
購入品の決定後、スラノバ国では、あるうわさが流れた。それは、パラカトやイブラハムが風力発電機やソーラパネルを調査したとき、彼らがドクター近藤に相談したのではないかとの噂である。
実際には、パラカトやイブラハムはドクター近藤に相談していない。一緒に食事をしただけである。だが、結果として日本製の製品が購入されたため、噂が現実味を帯びて伝わった。
ドクター近藤といえばスラノバ国の内戦が終了するきっかけとなった人物であり、武器商人アセフの商売がたきである。だからアセフはますます面白くない。
アセフがドクター近藤を嫌う理由は他にもある。
それは新政府発足式での出来事だった。
*****
半年前の新政府発足式の日、アセフは発足式の準備責任者を自らかってでた。
彼はバーティ用に、フランス料理、中華料理、インド料理、日本料理の一流シェフを呼び寄せて、高価な料理を食べきれないほど、用意した。
料理の値段は、各国のシェフの料理を合算すると、一人分でS国国民が食事する平均金額の千倍以上の金額だった。
モナ女王も、この贅沢な出費には驚いた。
しかし、準備責任者のアセフが用意した物であり、それを最終的に認めたのはグレン首相だった。新政府に直接かかわっていないモナ女王が、あえて皆の前でアセフに意見することはなかった。
それに対して、農政大臣となったバラカトは、将来を危ぶんだ。
バラカトが農政大臣になった理由は、国民を飢えから救うためである。ところが、アセフが国民の税金を無駄に使用し、食べきれないほどの贅沢な料理を、今日のために注文している。
これは、アセフが国民の貧困を全く理解していないことを意味していた。そんなアセフがエネルギー省の大臣に就き、国民を幸せにできるかどうか疑問だったのだ。
しばらくして、パーティは来賓挨拶が始まった。
来賓として呼ばれた『ドクター近藤』こと近藤聡が、挨拶したときのことだった。
「グレン首相をはじめとする新政府の皆様、およびモナ女王、新政府樹立おめでとうございます。今後とも国民のために、より良い国づくりをお願いいたします」
そこまでは良かったのだが…、
「しかし、今日の食事の量と内容を見たので、少し意見を述べさせてください」
そう言うと近藤は、グレン首相に向かい、
「この国では、昨年、百人以上の餓死者がいました。今日、このパーティで無駄にした食糧を、飢えて亡くなった人たちに与えることができたなら、彼らは餓死することは無かったでしょう」
その後、近藤は、頭を下げ、
「どうか、今もスラノバ国には、飢えに苦しんでいる国民が多くいることを忘れないでください」
と告げ、静かに席に戻った。
近藤は、今日の発足式の責任者がアセフであるとは知らなかった。だから、首相であるグレンに対して、意見を述べたのである。
ドクター近藤の発言で、アセフ大臣は自分のメンツをつぶされたと感じ、しかめ面をした。
すると、大きな拍手をする者が二人いた。
一人は農政大臣のバラカトだった。なぜならば、ドクター近藤の意見は、まさにバラカトが感じていたことと同じだったためである。
拍手をしたもう一人は、モナ女王だった。モナ女王は、ドクター近藤が自分の言いたいことをアセフに代弁してくれたことに感謝していた。
二人の拍手に後押しされ、同じことを感じていた会場の多くの人たちが、ドクター近藤に拍手をした。
そして最後にグレン首相が、
「ドクター近藤、すまない。今日の発足式の不始末は全て私の責任だ」
と、謝った。
グレン首相としては、アセフ大臣を庇ったつもりだが、アセフ大臣としては、グレン首相から『不始末』と烙印を押されてしまったことになる。
アセフは、思いもよらぬ衝撃を感じた。
なぜならば、アセフはスラノバ国政府の債権者だ。スラノバ国政府は、アセフに対して多額の借金がある。その借金をした代表のグレンから『不始末』と言われたのだ。
(お前らは俺に借金があるのだぞ。それなのに、なぜ、俺を非難するのだ。非難をするならば、今すぐ借金を返せ!)
アセフは心の中で怒りを感じていたが、決して言葉には出さなかった。
そして、それからは、自分に恥をかかせた近藤を嫌うようになった。
*****
話を議員会館に戻す。
(ドクター近藤さえいなければ、俺の会社は大金がうなっていたはずなのに…)
アセフは、だんだん近藤を憎むようになった。ましてやスラノバ国は、今まで債権者であるアセフに低姿勢だった。だが、昨年からパラカトが指導した灌漑工事により農作物の収穫が二倍近くに向上した。するとスラノバ国の財政に少しだが余裕がでてきた。そのため、スラノバ国では借金を早めに返済しようとの気運が高まっている。
灌漑工事では多くの農民が協力したが、その際もドクター近藤が工事に協力するようにと農民にうったえている。
アセフは、その件でもドクター近藤を恨んでいた。
さらに、スラノバ国が借金の返済を完了すれば、スラノバ国はアセフをエネルギー省の大臣にすえることはない。そのことに対しても、アセフは危機感をもっていた。
最近、モナ女王とバラカトは、白井玲子を招き、乳牛やメロンの付加価値を高める取り組みをおこなっている。
そのことも、アセフにはドクター近藤の入れ知恵があるように思えてしまう。
「このままでは、ますますスラノバ国に俺の居場所がなくなる」
アセフは不安に駆られた。
「何とかして白井玲子の作業を止めなければ…」
アセフは、玲子の作業を妨害するための案を考えた。昼夜考えた末に、ようやくアセフは、そのアイデアを思いついた。
牧場での事件の翌日、玲子は、議員会館にてバラカト農政大臣からお詫びを受けていた。
「玲子さん、大変申し訳ありません」
バラカトは平謝りだ。
「汚れた衣服や医療費は、全て弁償いたします」
「はー」
玲子は、元気がない。
だが、元気がない理由は、牛とは関係なかった。
玲子は昨日のことを思い出していた。
昨日、牛たちから襲われた後、玲子はすぐにホテルに戻り、一時間ほどシャワーを浴びた。
その後、近藤が運営する病院に行き、検査をしてもらった。
近藤は、玲子から事情を聞くと、腹を抱えてゲラゲラ笑った。
「私は牛たちから襲われたのよ。聡は何がおかしいの?」
「いや、ごめん、ごめん」
と、謝りながらも、近藤は、笑いをこらえきれずにいた。
「念のため、目、鼻、耳、口の中、それに指先を消毒しようね」
近藤は玲子の顔や指先を丁寧に消毒した。
「心配ないよ。牛から舐められただけで病気に感染するのなら、世界中の酪農家が病気になっているよ」
近藤は、医者としての言葉を伝えた。だが、恋人として言うべきことは伝えていない。
近藤の慰めの言葉に対して玲子は、
「バカ…」
と、小さな声でつぶやいた
玲子が近藤のところに行った第一の目的は、治療ではない。
被害にあった話をし、近藤から「大変だったね」とか、「僕がついているから大丈夫だよ」などと言ってもらいたかった。玲子の話に共感してもらいたかったのである。
しかし、近藤は、玲子の話を聞き、最初に笑ってしまった。
玲子は、やるせなさを感じながら、近藤の病院を後にした。
話を議員会館に戻す。
バラカトからの謝罪の後、玲子が一人で議員会館を歩いていると、アセフは偶然を装い、話しかけた。
「あなたは、白井玲子さんじゃないですか」
「はい、そうですが…」
玲子は見知らぬ男から声をかけられたため、戸惑った。
「私は、エネルギー省のアセフです。この度は大変でしたね。申し訳ありません。深く反省するとともに、貴方の傷ついた心に同情します」
アセフのお詫びは丁寧である。言葉巧みに武器を売る商人なので、話し方が上手だ。しかも、玲子の心をよく察している。
玲子は、アセフのことをよく知らない。
だが、仮にも大臣にお詫びされたのがから、冷静でいられるわけはなかった。
「いえ、そんなに謝っていただかなくとも結構です。牛さんたちも、悪気がなかったのだし…」
するとアセフは、
「いやあ、あなたは誠に綺麗な心をもっておられます」
と、玲子を褒め称えた。そして別れ際に、
「だから、かつてドクター近藤を暗殺しようとしたバラカトに対しても、協力ができるのですね」と、告げた。
アセフ大臣の最後の言葉は、玲子にとって意外だった。
「えっ、何の話ですか?」
玲子が尋ねると、アセフは、さも意外そうな顔をして、
「おや? ご存知なかったのですか。それは失礼しましました」
そう言いながら、アセフは立ち去ろうとした。
「待ってください」
玲子はアセフの背中を引き留めた。
「さっきの話を、もう少し教えていただけないでしょうか」
玲子は、アセフの言葉が気になった。
呼び止められたアセフは、玲子に見られないようにニタッと笑った。
「さっきの話とは?…、ああ、スラノバ国に内戦があったときのことです」
アセフは、さも思い出すような話し方をした。
「当事、革命軍の軍師だったバラカトは、司令官の止めるのも聞かず、ドクター近藤を抹殺しようとしたのです」
アセフは、悪者をバラカト一人にするように話した。
「バラカトの計画した作戦は用意周到でした。誰もが、ドクター近藤の死を確信していました。なぜならば、バラカトの計画では、ドクター近藤がどの方向に逃げても、狙撃兵が配備してあり、逃げなくとも戦闘に乗じて射殺する予定だったのです」
アセフの話を聞いたとき、玲子の頭の中に衝撃が走った。そして、過去の記憶が甦った。
「あのとき…」
額に手を当てて、玲子がつぶやいた。
アセフは、そんな玲子の様子を察して、
「思い出しましたか?」
と、つぶやき、話を続けた。
「そう。約一年前、バラカトの立てた計画を、ものの見事に打ち砕いたのが、あなた。玲子さんです」
玲子は思い出した。一年前、近藤を救うため、命をかけて行動したときのことを…
そして、一年前、執拗に近藤を殺害しようとしていた者の正体が、今、判明した。
しかし、玲子には、まだ信じられない。
バラカトは、モナ女王が最も信頼している政治家である。
それに、バラカトの話し方は、優しさに満ち溢れていた。バラカトの言葉には、思いやりが感じられた。
玲子が戸惑っていると、アセフは二年前の新聞記事を見せた。
手渡された新聞記事には、バラカトの顔写真付きで、タイトルには『氷の血の軍師バラカト』と書かれていた。
記事を読むと、むごたらしい殺戮を平気で指揮するバラカトに対する批判が書かれていた。また、その記事には、レアル村での惨劇が記載されていた。多くの農民が戦闘のあおりを受けて死傷した事件である。
「…レアル村?」
玲子は、昨日ピアノを演奏した牧場のある村名を思い出した。
(そうだ。『レアル村の国営牧場』と、ハレヤさんは言っていた)
記事を読み終えた玲子は、呆然とした。
気がつくと、街を一人で歩いていた。アセフとは、いつ別れたのか記憶がない。
「玲子姉さん!」
突然、後ろから声をかけられた。
玲子が振り向くと、マリアがいた。
玲子は思わず涙を流し、マリアに抱きついた。
マリアは、その瞬間、玲子が大きな悩みを抱えていることを察知し、玲子を優しく抱きしめた。
二人一緒にホテルの部屋に戻ると、マリアがマテ茶をつくって玲子に渡した。
マテ茶を飲みながら、玲子はバラカトの過去のことを話しだした。
マリアは、玲子の話を、ひとつひとつ頷きながら聞いている。
マリアは話を全て聞き終えた後、しばらくして、
「玲子姉さん。メロン農園でのピアノ演奏が残っているけど…、どうする?」
「…やらない…」
玲子は小さな声で答えた。
玲子は、メロン栽培担当者からの電話に対し、体調不良の理由で演奏を断った。
断り続けて三日もすると、バラカトが心配して玲子のもとを訪れた。
「玲子さん、体調はどうでしょうか」
バラカトは、低姿勢である。
そんなバラカトの姿を見ると、かつて彼が『氷の血の軍師』と呼ばれていたことが、どうしても信じられない。
玲子は、恐る恐る、バラカトに尋ねた。
「バラカトさん。バラカトさんが昔、聡を…、ドクター近藤を殺害しようと計画していたことを、ある人から教えてもらいました」
玲子は、バラカトの顔を見ずに、静かに話し出した。パラカトの顔を見ることができない。真実を知るのが怖かった。
「でも…、私には…、とても信じられません。あなたとは短い間しか接していませんが、あなたの言葉には温かさがあります。思いやりがにじみ出ています」
少しずつだが玲子は、バラカトの顔を見て話すようになった。
「どうか、『聡を殺害しようとしたのはデマだ』と、言って下さい」
玲子は、訴えるようにバラカトに懇願した。
部屋に一瞬、静寂が訪れた。
時計の音が『チクタク、チクタク』鳴っているのが聞こえる。
バラカトは、しばらく無言だったが、やがて、重い口を開き、
「玲子さん。私は昔、ドクター近藤を殺害しようとしました」
バラカトは、隠すことなく静かに語った。
玲子は思わず両手で口を覆った。ショックだった。聞きたくなかった。
「玲子さん。あなたは、私が昔『氷の血の軍師』と呼ばれていたことも、ご存知のようですね」
「はい…。知っています」
玲子は、かろうじて小さい声で答えた。
「私は、過去、戦争で多くの人を殺害しました。そして、それは、決して許されないことです」
「……」
沈黙の時間が流れた。
窓の外では小鳥たちが『チュンチュン』と、鳴いている。
玲子は何も言えない。僅かでも口を開けば、とりとめもないことを言いそうで怖かった。
静寂をおわらせるかのように、バラカトが再び話した。
「今の私は、国民が幸せになれるように、ただそのことを目標に、生きています」
「……」
玲子は、相変わらず無言だった。
「玲子さん。あなたがこの三日間、ピアノ演奏を断り続けていた本当の理由が、ようやくわかりました」
「……」
玲子は答えられない。
「どうか私のためでなく、国民のために、ピアノを演奏していただくよう、お願いします」
バラカトは静かに語り、頭を下げ、部屋から立ち去った。パラカトの背中が切なさを語っていた。
バラカトの過去は、玲子に葛藤を生じさせた。
真実を知った今、バラカトに協力するのが嫌だった。だが、玲子がスラノバ国国民のために協力することは、近藤やモナ女王の願いである。
悩んだ末、その日の午後、玲子はモナ女王に会いに行った。
受付で名前を書くと、モナ女王は、多忙にもかかわらず、玲子のために時間をとってくれた。
「玲子、あまり元気がなさそうね」
モナ女王は、玲子をソファーに導いた。
「モナ女王、お忙しいところ、すみません。モナ女王にお尋ねしたいことがあります」
「バラカトさんのことよね」
「はい…」
モナ女王は、玲子の訪問目的を事前に察知していたようだ。
「どうしてモナ女王は、かつての敵であるバラカトさんと、仲良く仕事をされているのでしょうか?」
「彼だけではないわ。私の婚約者のグレンだって、かつては敵の副司令官だったし、教育大臣のザイラさんも、元は革命軍、つまり敵だったわ」
「でも、バラカトさんは特別です。あの人は多くの民間人を殺戮しています」
玲子は、バラカトを他の人たちと区別した。
「新政府が灌漑設備を造る際も、レアル村の多くの人たちから非難を浴びたと聞いています。どうして、そんな人と一緒に仕事ができるのでしょうか?」
モナ女王は、しばらく沈黙していたが、
「玲子、戦争は人を狂わせるのよ」
モナ女王がポツリといった。
「あなたが今まで学んできた常識や道徳は、戦争の前では全く役に立たなくなるの。特に戦闘が始まると、相手を殺すか、相手から殺されるかのどちらかしかないわ。戦闘中に理想を唱えていたら、瞬く間に殺されてしまう」
「…」
玲子は何も言い返せなかった。というよりも、このような残酷なことを、モナ女王が平気で語ることに驚いた。
玲子の知っているモナ女王は、全ての国民を愛し、国民の幸福を第一に考える指導者である。だから、『相手を殺すか、相手から殺されるかのどちらかしかない』と、発言したこと自体が信じられなかった。
確かに戦闘が始まったら、綺麗ごとを言う余裕が無いのは事実である。だが、玲子は、モナ女王の口からその言葉を聞きたくなかった。
玲子が無言でいるので、モナ女王が心配した。
「玲子、勘違いしないでね。私は、戦争を肯定しているわけではないのよ」
モナ女王は、玲子が誤解しないように、やさしく説明した。
「戦争は起こしてはいけない。私は、それを最優先に考えているわ」
モナ女王は、優しく玲子の両肩を掴みながら、
「でも、内戦が終わった今、戦争で人を殺した者を罰しても、何も得るものはない。それよりも、生き残った人たちの力を結集して、平和な国をつくっていくほうが重要だと思うの」
と、自分の信念を力強く語った。
この瞬間、玲子はモナ女王の偉大さを再認識した。
(モナ女王は、強い人だ)
玲子は、限りなくモナ女王を尊敬した。
しかし、自分がバラカトに協力するとなると、話は別である。
国民のために協力した方が良いことは、十分に分かっている。
しかし、もう一人の自分の心が、『協力するな』と、言っている。
理屈ではなかった。感情そのものだった。聖人のように生きていくことが、いかに難しいかを、玲子は自覚した。
玲子は、自分自身が嫌になった。何とかしたいと渇望していた。でも、一人ではできそうにない。誰かに背中を押してほしかった。
「お前の考えは間違っているんだよ!」と、言ってほしかった。
迷ったあげく、夜遅く玲子は、近藤の病院へ行った。
玲子は、この判断を近藤に委ねようとした。
今日は、近藤が宿直の日である。深夜にもかかわらず、病院の待合室には多くの患者がいた。
一時間半経った後、玲子は診察室に呼ばれた。
「玲子、どうしたの。用事があるなら電話をしたら、すぐに会ったのに」
「聡、ごめんね…。待合室で待っている患者さんたちを見たら、電話で呼び出すのに気がとがめちゃった」
玲子は、個人的な悩みの相談のために深夜待ち続けている患者を押しのけることに対して、ためらいを感じたようだ。
近藤が状況を察し、マテ茶を玲子に渡した。
玲子は、カップを両手で持ちながら、小さい声で話しかけた。
「バラカトさんが昔、聡を殺害しようとしていたこと、知っていたの?」
玲子が尋ねた後、しばらくドクター近藤は無言だったが、やがて重い口を開き、
「知っていたよ」
小さい声で答えた。
「それじゃあ、どうして、バラカトさんと親しく話ができるの?」
玲子は、近藤がバラカトと楽しそうに話すのが信じられなかった。
「この前の夕食会のときも、親しそうに話していたわよね?」
近藤は、しばらく考えをまとめた後、ポツリと話し始めた。
「玲子。僕は、多くの患者の死に立ち会った。医療器具や薬さえあれば助けることができた命を、助けることが出来なかった経験が、山ほどある」
「えっ?」
近藤の話が玲子の意図したものと違っていたため、玲子が驚いた。
「聡、何の話をしているの?」
しかし、近藤は、玲子の質問には答えず、話を続けた。
「僕は、その中の一部の家族から、『人殺し』と呼ばれたこともある」
「……」
玲子は近藤の言葉に驚き、しばし話せないでいた。
「患者の家族が、『あなたは、さっきまで大丈夫、助かると言っていたじゃないか』とか、『嘘つき、恨んでやる』とか、涙を流しながら叫ぶんだ」
「でも、それは聡のせいじゃない。バラカトさんとは違う」
玲子は、近藤の行為とバラカトの行為とが明確に異なることを強調した。だが、近藤は首を横に振りながら、
「当事、革命軍も王国軍も、自分たちが正義であることを疑わなかった。彼らは、文字通り命がけで、彼らが信じる正義のために戦った」
そして近藤はうつむき、両手の掌をじっと見つめて、
「おそらく、人の死に立ち会った回数は、バラカトさんより僕のほうが遥かに多いだろう。僕は、人を死なせたことにおいては、バラカトさんと同じだ」
「違う! 聡は、バラカトさんとは違う」
玲子は、必死に近藤にうったえた。
「僕は、バラカトさんの苦悩を知っている」
近藤がいった。意外と大きな声である。
「彼は部下を死なせたくなかった。誰よりも部下の命を大切にしていた。だから周りから何と非難されようとも、敵に対して非情な行動がとれた」
近藤は、当時のバラカトの行動から、彼の心を洞察した。王国軍と革命軍との装備の違いを近藤は知っていた。まともに戦うと、革命軍の武器では王国軍に全く歯が立たないことも、十分理解していた。
近藤の話を聞いたとき、玲子はモナ女王の言葉を思い出した。
『戦争は人を狂わせるのよ…』
玲子は、モナ女王の言いたいことがわかったような気がした。
「バラカトさんは、これから先もずっと、戦争で死んでいった人たちへの償いとして、体を休めることなく、働き続けるだろう。そんな彼を蔑むことは、僕にはできない。彼を蔑むことは、僕自身を蔑むことと同じなのだから…」
近藤が言い終えたとき、玲子は涙を流していた。
玲子は、農政大臣としてのバラカトの目的を知っていた。
全ての国民に不足なく食べ物が行き渡るようにすること。ただそれだけだった。そのためにバラカトは、得意分野の科学技術でなく、あえて農業に挑んだのだった。
玲子が四日前に行ったレアル村は、内戦の被害が最も大きな村だった。
(バラカトさんは、レアル村を豊かにし、村民を幸せにすることを常に考えている)
玲子は、そのことも理解していた。ただ認めたくなかった。頭では認めても、心では認めたくなかった。
病院からの帰り道、
「玲子!」と、大きな声で呼び止められた。
振り返るとイブラハムがいた。
「イブラハムさん、こんな夜遅くに、どうしたの?」
玲子が尋ねると、
「それはこっちのセリフだ。どうしたのだ。こんな遅くに浮かない顔をして」
と、イブラハムが尋ねた。彼は玲子の心にある悩みを読むと、さらに、
「少し酒でも付き合ってくれ」
と、強引に玲子を酒場へ連れて行った。
「バーボンとカシスオレンジを一つずつ」
イブラハムが店員に注文した。
カシスオレンジを飲みながら、玲子はイブラハムにも、かつてパラカトが『氷の血の軍師』と呼ばれていたことを知っていたどうかを尋ねた。
するとイブラハムは、
「玲子は、今のパラカトさんのことをどう思う?」
と、逆に尋ねた。
「私は、…」
一瞬ためらいの後に「…優しく心が暖かい人だと思います」と、蚊の鳴くような声で答えた。
「それじゃあ問題ない。玲子、お前は自分が信じられるだろう? 自分で判断したのだから、他の人がどう言おうが、パラカトさんの過去に何があろうが、今のパラカトさんと向き合えば良いだけだ」
イブラハムの答えは単純明快だ。
「…でも…」
玲子が何か言おうとすると、
「玲子、お前もパラカトさんも、今を生きている。過去を引きずって生きるんじゃない!」
竹を割ったような痛快な響きだった。
「…今を生きている…。なぜ、こんな簡単な答えが、今まで見つからなかったのだろう」
玲子は、イブラハムの言葉で気持ちが軽くなった。
(私は私を信じよう。だから今のパラカトさんを信じる)
長い迷いの末に、そう決心した。
(明日、バラカトさんに謝ろう)
ホテルへの帰り道、玲子は、煌めく星々を見ながら誓った。