Ⅸ.始まりの森 ――前編――
Ⅸ.始まりの森 ――前編――
春の日が差す森の小道を、初老の男ヘルメスに続いて歩く。道の両脇には柔らかな緑の草が瑞々しい。その先はクヌギやクリの雑木林が広がっている。森には程よく光が入り、どこからかせせらぎの音も聞こえてくる。
「美しい森です。木々が青々としていて、種類も多い。動物も沢山いる。」
そう言ってヘルメスが指さす方を見ると、二頭のシカが森の木々の間からこちらを見ている。
「それでは、説明しましょう。まず、ここは、この森はどこだと思っています?夢でしょうか、幻でしょうか、貴方の妄想でしょうか?それとも、異次元とか異世界でしょうか?」
「いやいや、夢や幻のようなはっきりしないものではありません。もっと、確固としたものです。この木の幹を触ってごらんなさい。」
そう言って、彼は道端に生えている樫の木に触れ、俺もそれにならう。ザラリとした樹皮の手触りと、ひんやりとした植物の温度がはっきりと感じられる。そこには、とても幻とは思えない現実の存在の重みがあった。
「それでは、異次元だとか異世界だとかはどうでしょうか?」
男は続ける。
「つまり、貴方は現実に存在している並行世界にやってきたというのはどうでしょうか?」
「この世界のリアリティーは貴方も感じているはずです。ならば、現実に存在する並行世界に紛れ込んだと考えれば、このリアルさは説明がつくではありませんか!」
「いやいや、しかし、そのようなSFではないのです。」
「この世界は貴方が日々を暮らしている世界と一つなのです。」
「普通に見ている世界の裏側といってもよいかもしれませんが、正確ではありません。ことは、もっと複雑です。そして、単純でもある。この世界は日常の世界とぴったりと重なり合っているが、通常は見えていないだけなのです。このことは、可視光線しか見ることが出来ない人間と紫外線を見ることができる昆虫が違う世界を生きているのに似ています。ただし、この場合は、光線の波長の問題ではなく、この世界の波動の問題なのです。」
「ほとんどの人は、日常の世界の波動しか感知できないのですが、世界というのは一つの波動だけを発しているのではありません。そんな単純で無味乾燥なものではないのです。幾つもの波動が重なり合ってハーモニーを創り出しているのです!」
突飛なことにはもう慣れたつもりでいたが、エルメスが話している内容は、あまりにも荒唐無稽で、上手く呑み込めない。
「全てを今理解する必要はないのですよ。」
ポカンとした俺の顔を見て、エルメスは言う。
「時が来れば解る。全てはそういうものです。」
「ひとまずは、この森で一晩過ごしていただきます。そして、明朝、森の出口でお会いしましょう。」
そう言ってヘルメスは、何処からかあの深い青をたたえた石を取り出し、俺の目の前にかざした。前の時と同じように、意識が遠のく…。




