4、冬は死にゆく愛の季節(三)
どこで聞き付けたのか、門真は慌てふためいて統轄のオフィスに飛び込んで来た。
「すずサン!」
「あれ。久しぶり、元気そうね」
あのスイートルームの夜以来、彼は徹底的に私を避けた。元々、喫煙室以外の接点はない。私は実に簡単に、門真を失った。
だから、本当に久々の再会だ。まさかこんな所で会うとは思わなかったが、それはお互い様――と言うか、あちらのほうが驚いているに違いない。
革張りのソファから、肩で息する大きな男を見上げて問う。
「統轄に用事って感じじゃないけど……。あ、もしかして、止めに来た?」
「そうだよ!」
なら、遅い。もうすでに、喧嘩の売買は成立してしまっていた。
応接セットがあり、奥に大きなデスクがある。配置や規模は洸成のオフィスと大差ないが、黒やダークブラウンが基調の部屋は重厚な印象だ。
デスクで秘書から差し出される書類に次々サインし、顔も上げずに統轄が口を開く。
「流成。こんな嫁は、苦労すると思うよ」
「……誰が嫁ですか」
「えー、私でしょ」
誰か他に心当たりがあるのかと、むっと眉をひそめる。すると門真は、叱り付ける様に言いながら私の腕を取った。
「すずサン! ……とにかく、行こう」
こっちの用は済んだから、それは構わない。次にすべきなのは、門真と話す事だ。腕を掴む手に従って、立ち上がる。
重そうなドアを、統轄の秘書が開いてくれた。それを通り抜けると同時に、背後から声が掛けられる。
「柴町さん。いずれ、またお会いしましょう」
すぐに振り返ったが、扉はすでにバタンと閉じるところだった。
いずれ、また。
「何か、恐い台詞だなあ」
小声で零すと、門真は耳を疑う様な、それとも呆れた様な複雑な顔で私を見た。
「怖いに決ってるよ、統轄は。ケンカ売るバカは、まずいない」
「だって、他に思い付かなかったんだもん。しょうがないじゃない」
エレベータに向かって歩きながら、きょろきょろと辺りを見回す。だが、探すべき人影はない。
「何?」
「絢ちゃん知らない?」
彼女は、統轄に会わなかった。と言うか、会わずに済んだ。
この階に着いてみるとすでに私の目的はばれていて、すぐに護衛や秘書に囲まれてしまった。何の気まぐれか私はオフィスに通されたが、絢子は外に残されたのだ。そのあと、どうなったかは解らない。
「あァ、逃げたよ」
チーンとのん気な音に重ねて、あっさりと言った。開いた鉄の扉に入り、彼は一階のボタンを押しながら続ける。
「電話があったんだよ、すずサン止めろって。来た時にはもういなかったけど」
心配してくれた――って事では、ないんだろうな。やっぱり。
絢子は多分、統轄への反逆とは知らずに協力してしまった事を恐れたんだろう。大嫌いな門真を引っ張り出しても、何とか私を止めたかったらしい。
「そっか、それでいるんだ」
「うん、そうなんだけど……」
彼が統轄の部屋に、慌てて飛び込んで来た経緯は解った。だが当の本人は、どうも釈然としない様子だ。
「だけど?」
「兄さんからも、電話あったんだよね……」
「え、藤白兄? 何て?」
「おもしろい事になってるけど、良いのかって」
思わず吹き出した。あの冷血動物が、どんな顔で言ったんだろう。
その時の気分を思い出したのか、門真は何とも居心地悪げな表情を見せる。
「電話とかあったの、初めてなんだけど……。すずサン、あの人にも何かした?」
「何もしてないよ」
ちょっとだけ、話しはしたけど。
あれだけの事で、洸成が変わるとは思えなかった。人は変わってしまうけど、変えようとするのは難しい。だけど一応、考えてくれたかも知れない。
感情を抜きにしてみると、――洸成には多分、そんなものないと思うけど。やはり門真は放って置くべきなのだ。藤白一族の覇権争いからは、抜けたがってるんだから。わざわざ刺激して、敵対させる事はない。
私としては、洸成にそう考えて欲しかった。そのために疑問を投げたのだ。こっちのほうが合理的だよ、と。
淡い期待だったけど、もしかすると、ちょっと成功したんじゃないの?
ほんと、妙な所が素直だよね。藤白ジュニア世代。
滲んだ涙を指先ですくい、ひとり満足してウヒヒと笑った。
エレベータは一階に着き、のん気な音でドアが開く。と、広がる視界はほぼ黒い。
ビルに配置された制服の警備員に囲まれて、見慣れた警護課の黒スーツが何人も見える。門真の護衛だとしたら、数が多過ぎはしないだろうか。
私たちに気付いて、幾つかの顔がこちらを向いた。その中のひとつ、相模が浮かべているのは悔恨だろう。彼に向け、ニヤリと笑ってピースサインを送る。
わあ、嫌そうな顔。ざまーみろ。
現在、私たちの間にはちょっとした溝があった。事の起こりは、今回の計画に端を発する。
門真の拒絶に、門真の別離に落ち込んで、それから余りの勝手さに腹が立った。どこまで私の意思を無視すれば気が済むんだ、あの一族は。
そして最初に考えたのは、相模を味方に付けようと言う事だった。何しろ相手は、享楽怪獣改め狂犬ロマンチスト相模。一方的に切り離された私の恋心を明かし、涙のひとつでも見せれば同情される事間違いなしだ。
そのはずだった私のプランは、しかしあっけなく失敗した。相模は門真の側に付いたのだ。
まあ彼は、本部長である門真の警護担当だ。当然と言えば当然だが、だからこそ味方に欲しかった。門真の様子を知るために。
納得もできなかった。愛が全てみたいな事を言ってた癖に、恋する女に協力しないなんてどう言う理屈よ。
「だって本部長がああしたのって、柴町さん守りたいからでしょ? スッゲー愛してるから、自分の気持ち殺すんッスよ。その邪魔はできないッス」
彼は言う。問い詰める私に対抗し、強い決意を示す顔で。ねえ、相模。でもそれ言っちゃ駄目なんじゃないの。
ちなみに当初、藤白統轄に喧嘩を売ると言う極めて頭の悪そうな計画はなかった。あとになってこれが候補にあがったのは、そんな事を聞かされたせいだ。
すっげー愛が門真にあるなら、もう何も恐くない。
幼い事を本気で思う。何でもできるって気分になるけど、酷く不安定な勇気だとも知っていた。
だって私は何ひとつ、門真の口から聞いてない。
「それ、なくしたと思ってた」
ダウンジャケットを着たままで、床の上にぺたりと座って門真を見上げた。
本社を離れ、ここは私たちの会社だった。暖房が入っていないらしく、地下の資料室はとても寒い。
彼は立って壁にもたれ、くわえたタバコに銀色のライターを近付けるところだ。そのライターは、以前私にくれた物だった。
門真は今その事に気付いた様に、チラリと手の中を確かめる。
「あァ……。前、すずサン探してる時に見付けたんだ」
言って、タバコにチリチリと火を点ける。
懐かしい気がして、嬉しくて寂しくて切なくなった。以前は、当たり前だったのに。
この喫煙室に来るのも、久しぶりだ。私を避けて門真が姿を見せなくなったので、それがつらくてこっちまで足が遠のいた。
私たちが出会った場所だ。決着を付けるなら、ここしかない。そう言うつもりで、門真を強引に引っ張って来た。
だけど、何から話せばいいんだろう。どうやって伝えたらいいんだろう。
門真、この胸を切り開いて見せたいよ。喉の奥でつかえるみたいに、速く高く、心臓が鳴ってる。
不安で、愛しくて、そうなるんだよ。
「好きだよ、門真」
口にできたのは、結局それだけ。子供でも思い付く台詞だけど、これが私の精一杯だ。
タバコを挟んだ男の指が、強張る様に微かに揺れた。そしてあの疎ましげな表情が、圧する様にこちらを見下ろす。
座っててよかった。足が震えそうだ。正直、統轄の前に出るより緊張してる。
「知ってたでしょ?」
「……すずサンは、厄介な事には関わらない人だと思ってたよ」
「そうね。確かに、面倒は嫌い」
「統轄とケンカするのは、すごく面倒だと思うけど」
「うん。だけど、しょうがないの。私、ティラミスが好きって話したっけ?」
話題の飛躍に、門真は歪めた眉の下で眼を大きくした。
「あァ……、コンビニの」
「そう、門真の次に愛してる奴ね。あれ食べたら、大抵の事は許せるんだけどさ。最近、駄目なの。門真がいないと、味もよく解んない。今までひとりで、どうやって生きてたか忘れちゃった」
見上げると、どこか悲しい様な門真の視線にぶつかった。ふと思う。私のしている事は、余計に彼を苦しめているだろうか。
心が大きく揺らいだが、でも、伝えるくらいは許して欲しい。
門真がそれを要らないって言うなら、今度こそちゃんと殺すから。この気持ちを全部ぶつけて、体ごと砕けたっていいから。
愛してなんて言わない。
「隣にいて。それだけでいい」
「……そんな事、言う人じゃなかったでしょ」
門真はろくろく口にしないまま、落ち着かない仕草でタバコを揉み消す。その表情が険しく見えて、胸がぎゅっと痛くなった。
「言っちゃ駄目? 人は欲に溺れるけどさ、恋に溺れても狂うらしいよ」
「溺れてるのは、俺だけだと思ってた」
今、何て?
確かめる間もなく、下りて来た門真の体が私の全部を抱き締めた。押し付けて来るスーツから、煙の匂いが辛く香る。門真の匂いだ。
空っぽだった胸一杯に、熱いくらいの何かが満ちる。
ああ、もう、どうでもいいや。
顔が見たいけど、聞きたい事がある気がするけど、離れるのが嫌だ。このままがいい。
しばらくして、門真が少しだけ体を離した。酷く近い所から、黒い眼が見詰める。――初めて知った。本当に、瞳は愛を宿せるんだ。
「知ってたら、離さなかったのに」
「私が好きじゃないなんて、どうして思ったりしたの。ちゃんとキスしたじゃない」
もう関わらないと、門真が告げたあの夜に。愛しくて寂しい、衝動的なあのキスを。一体何だと思ったのか。
言うと彼は、すっと冷たく眼を細めた。門真、それ、洸成に似てる。ちょっと恐い。
「すずサンのキスは、アテにならない。兄さんともしたし、相模にもキスしようとしたでしょ」
「……した」
兄のは不可抗力で、相模のは未遂だけど。事実は事実だ。言い訳も出ず、頭を抱えた。
と、門真がそっと息を零す。
「俺は敵が多いから、巻き込みたくなかったのに……。まさか、こんな事までするとはね。統轄にケンカ売っちゃうような人、俺以外に守れないよね」
愛に狂って、と言うべきだろう。
統轄を敵にする事で、示したかった。私は、何も恐くないと。何かあっても、それは私が招いた事だと。
でも、こんな反応、予想してない。最悪、拒絶。でなきゃ、黙殺がいいところだと思ってた。
なのに門真の浮かべるほほ笑みは、驚く程に甘いのだ。
「……好きで、いいの? 門真は、自分の事好きな人、嫌いでしょ?」
私の問いに、彼は驚いた様に眼を開く。
「何でそんな事知ってんの。まァ、そうだけど。でも好きになったの、絶対俺が先だから。一番大事な人に好かれたら、嬉しいでしょ」
「何それ……。なのに、私を離したの?」
だとしたら本当に、私を守るために門真は気持ちを殺したんだ。自分を切り裂く様にして、拒絶したんだ。
胸が潰れそうになる。
そんな人を、私は責めてた。
「そうだよ。せっかくガマンしてたのに。……もう、ムリだからね」
「無理?」
「離せない」
唇は耳元に、熱っぽく囁く。
この男は、誰だろう。
こんな門真は、知らない気がする。わがままで、優しくて。まるで甘えてでもいる様に、彼は私に深く触れた。
それも嬉しいって思うから、私は本当馬鹿みたいだ。
私たちには、問題が山積み。門真は藤白一族に嫌われてるし、私は統轄の敵になった。これからは多分、嘘みたいにトラブルだらけの日々になる。この予感は、きっと当たる。
だけどそんな事は、どうでもいい。
喫煙室の床に崩れて、今は互いの存在だけが全てだった。
「ね、門真。愛してるって、解ってる?」
「あァ、コンビニのティラミスより。でしょ」
いたずらっぽく門真は笑って、あたたかな息を私の胸にクスクスと落とす。
ああ本当にそうだよねって、真剣に思った。
だって何より甘ったるくて、私を満たしてくれるのは門真だけだ。
解ってないだろうなあ……。
脳が膿んだみたいに熱を持って、頭のネジが緩んでる。ぼうっとしちゃって、何でもないのに泣きそうだ。こんな気持ち、伝わる訳ない。
苦しいくらい腫れ上がった感情に、堪らず彼の頭を引き寄せる。唇で白髪混じりの髪に触れ、ドキリとした。見詰める瞳の色が深くて、飲まれそうだ。
呼吸さえも感じる距離で、ふと笑みを消して男が願う。
「すずサン、もっと俺に溺れてよ」
いいよ。
それなら、幾らでも叶えられる。
(了)
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