八神の発案
〈宵闇〉との連戦が終わっても、〈影環〉の件は、あれきり、止まったままだった。
あの夜から、ひと月あまりが過ぎた。報告書の山は片付き、傷も引いた。日常は、何事もなかった顔で戻ってきている。戻ってこなかったのは、俺の中の二つだけだ。果たせなかった分と、形にならない引っかかり。どちらも、置きどころがないまま、胸の奥で低く燻っている。
追うなと言われた糸口を、それでも一人で手繰り直せるかと、何度か考えた。考えるたびに、行き止まりに突き当たった。そもそも、なぜ上があの件に蓋をしたのか。その問いだけが、答えの出ないまま、妙に喉の奥に引っかかっていた。
まあ、今日のところは。
俺は、机の上のコーヒーを、ひとくち飲んだ。とうに、冷めていた。
◇◆◇
その午後の執務室は、いつにも増して、仕事をしていなかった。窓の外では夏の陽射しが白く照りつけ、冷房だけが律儀に唸っている。
室伏隊と、九鬼隊。二つの島が向かい合って机を並べている。連戦の片がついて、書類仕事も一段落して、誰もが手持ち無沙汰の顔をしていた。
その空気を、最初に破ったのは八神だった。
「ねえ、聞いてよ統真。あたし、いいこと思いついたんだけど」
「ろくでもない予感しかしない」
「失礼な!」
八神は、自分の島から身を乗り出して、両隊に聞こえるように声を張った。
「あのさあ、みんな最近、働きすぎだと思わない? 〈宵闇〉でしょ、合同作戦でしょ、書類の山でしょ。あたしたち、ぜったい疲れてる。だから――旅行! みんなで、慰安旅行!」
「また、唐突ですね」
九条さんが、眼鏡の縁に指を当てながら、淡々と受けた。
「だいたい、慰安旅行の名目で課の予算を引くつもりなら、稟議が通りません。残念ですが」
「じょーくん、相変わらず世知辛いなあ。自腹だよ自腹。みんなで割り勘で行くの。そういうのが、いいんじゃない」
「自腹なら、最初からそう言ってください」
塩対応に見えて、否定はしない。九条さんは、満更でもないとき、だいたいこういう返し方をする。
「それに、ほら」
八神が、にやりと笑って、ちらりと後ろを見た。視線の先で、桐野が、びくりと肩をすくめる。
「あたしたち、しおりんの歓迎会、まだやってないでしょ?」
言われてみれば、そうだ。桐野が配属されてから、現場はずっと立て込んでいた。新人を迎えたきり、ろくに迎えてやれていなかった。
「歓迎会……ですか?」
桐野が、戸惑った声を出す。
「私の、ですか?」
「そうだよ、しおりんの。配属してから、ばたばたしっぱなしだったもんね。歓迎会のかんげの字もなしで、いきなり修羅場に連れ回しちゃってさ。これは、隊としての借りなの。だから、旅行ついでに、盛大に祝う!」
「べ、別に、そんな」
桐野は、両手を膝の上で重ねて、うつむいた。耳が、わずかに赤い。面映ゆいのを、持て余している顔だった。
「いいじゃねえか」
口を開いたのは、隊長だった。腕を組んで壁にもたれていた体を、ゆっくり起こす。
「桐野の歓迎会、ずっと宿題のままだったのは、確かだ。八神にしては、まともなことを言う」
「にしては、は余計でしょ隊長!」
執務室に、小さな笑いが起きた。
その笑いの中に、向かいの島から、別の声が割り込んできた。
「ええやん、旅行。うちも混ぜてや」
九鬼さんだった。自分の机の縁に腰を預けて、面白そうにこちらを見ている。
「合同で一個ヤマ越えた仲やろ。歓迎会いうなら、うちの隊も世話になっとる。なあ、厳」
「お前んとこも来るのか?」
「当たり前やろ。賑やかなほうが、旅行は楽しいわ」
「だ、そうだ」
隊長が、肩をすくめて、両隊を見回した。
「どうせなら、合同でいくか。二隊まとめての、慰労と歓迎会だ」
その一言で、空気が、ぐっと前のめりになった。
「いいねえ!」と八神。
「俺、行きます行きます」
九鬼隊の戸坂さんが、真っ先に手を挙げた。丸坊主の大男が、無邪気に目を輝かせている。
「最近、暴れ足りなくて。海とか、いいんじゃないですか。泳ぎたいんですよ」
「戸坂さん、陸でも海でも暴れるでしょう」と瀬戸が呆れた声で言う。「常識的に考えて、慰安旅行で暴れてどうするんですか」
「瀬戸くんは、ほんと常識人だねえ」
八神が、しみじみと頷いた。瀬戸が、こっちを見て、苦笑する。常識人同士、という目配せだ。俺も、つい、肩をすくめて返した。
「海、行くなら」
宮田さんが、ぼそりと口を挟んだ。眼鏡を押し上げながら、妙に真剣な顔をしている。
「俺、防水のサバイバルギア、一式持ってるんで。任せてください。発煙筒とか、非常用の――」
「行くのは海水浴であって、上陸作戦やないで、宮田」
九鬼さんの突っ込みに、また笑いが起きる。宮田さんは、心外そうに口を尖らせた。
くすり、と、艶のある声がした。鵜飼さんだ。暗い赤の長い髪を指に巻きつけながら、こちらを――いや、俺のほうを、流し目で見ている。
「坊やも、来るんでしょう? たまには、こわい顔をゆるめて。ねえ?」
「……行きますよ」
俺は、短く答えた。鵜飼さんのからかいに、まともに乗ると、ろくなことにならない。経験から、それは学んでいる。
「あら、つれない」
「鵜飼、坊やで遊ぶのは、後にしとき」
九鬼さんが、軽く手を振って、話を戻した。
「ほな、行き先や。せっかくなら、海と、あとは温泉やな。一泊して、ゆっくりしたいわ」
「凪洲は、どうですか?」
提案したのは、九条さんだった。手元の端末を、すでに操作している。
「都心から、車で二時間ほど南。海水浴場と温泉地が、ひとところに揃っています。一泊二日なら、ちょうどいい距離かと」
「おっ、じょーくん仕事はやい」
「九条先輩、ほんとは旅行、楽しみにしてたんですね」と桐野が、おずおずと言って、すぐに口を押さえた。
一瞬の沈黙のあと、執務室が、どっと沸いた。
「しおりん、今の、すごくよかった!」
「し、しまった……つい」
「いいぞ桐野、もっと言ってやれ」と戸坂さんが囃す。九条さんだけが、ばつが悪そうに、眼鏡を押し上げていた。
いい隊に、入ったな。後輩の赤くなった横顔は、どこか晴れやかだった。
「で、隊長」
俺は、笑いが収まったところで、念を押した。
「許可は、もらえるんですか? これ」
「ああ」
隊長の顔が、ほんの少し、引き締まった。
「一泊二日。そこは、譲れねえ。それと、言うまでもねえが、俺たちは〈裏三課〉だ。休暇中でも、事件が立てば、即中断して戻る。即応の義務までは、外せねえ。それを飲めるなら、許可する」
「当然や」
九鬼さんが、こともなげに頷いた。
「呼ばれたら、戻る。それは、いつもどおりや。せやから――呼ばれへんことを、祈っとこ」
軽い口調だった。だが、その一言が、浮かれかけた空気に、細い楔を一本だけ、打ち込んだ。
休暇は、あくまで休暇だ。俺たちの仕事は、暦の都合では止まってくれない。それでも、行ける。
隊長が、ふっと息をついた。
「連戦続きで、みんな張り詰めてたしな。骨休めも、要るころだ」
「決まり、だな」
隊長が、手を打った。
「凪洲。一泊二日。室伏隊、九鬼隊、合同。桐野の歓迎会兼、慰労旅行だ。八神、幹事はお前がやれ。言い出しっぺだ」
「えっ、あたし!?」
「当然でしょう」と九条さんが、すかさず返す。「言い出しっぺが幹事。世の理です」
「じょーくん、それ、さっきの仕返しでしょ!?」
また、笑いが起きる。
その輪の中で、桐野が、まだ少し赤い顔のまま、それでも、嬉しそうに笑っていた。連戦のあいだ、ずっと張り詰めていた肩から、力が抜けている。
胸の奥の燻りは、消えてはいない。それでも、今は、後ろの座席に積んだまま、放っておけそうだった。
◇◆◇
出発は、早朝だった。
まだ街灯が点いている時刻に、庁舎の地下駐車場へ降りる。公務車両が、二台、並んで待っていた。
旅行だが、車は、これを使う。即応の義務がある以上、通信機器も現場端末も積んだ車のほうが、何かあったとき動きやすい。遊びに行くのに、仕事の道具を積んでいく。そのちぐはぐさが、いかにも俺たちらしかった。
「はい、じゃあ車割り発表しまーす」
幹事の権限を、八神が、さっそく振りかざしていた。
「一号車は、運転が統真で、あとは隊長、じょーくん、しおりん、あたし。室伏隊まるごとね。二号車が、九鬼さんチーム」
「なんで俺が運転なんだ?」
「だって統真、いちばん運転うまいじゃん。安全だし。寝てていいよ、あたしたちは」
「おい」
くだらないやり取りをしながら、車に乗り込む。助手席に八神、後部座席に隊長と九条さん、桐野が収まった。
エンジンをかける。ダッシュボードの内線スイッチを入れると、二号車の車内の音が、スピーカーから流れ込んできた。戸坂さんと、宮田さんが、助手席を取り合っているらしい。
『だから、助手席は俺だって。脚が長いんだよ』
戸坂さんが、本気で食い下がっている。
『戸坂さんに譲っておあげなさい。あんたは後ろで、その物騒な道具でも磨いてれば、ご機嫌でしょう?』
鵜飼さんの、けだるい声だ。
『撃つものとは、人聞きの悪い。精密機器です』
宮田さんが、生真面目に言い返している。
『ちょっと。発車前から、やかましいですよ』
呆れた声は、瀬戸だ。苦労が内線越しにも伝わってくる。二号車も、出発前から賑やかだった。
「あ、内線つながってる。おはようございまーす、二号車!」
八神が、嬉しそうに身を乗り出して、マイク代わりにスイッチへ顔を寄せる。
『おう、八神ちゃん。一号車、運転は誰や?』
九鬼さんの声だ。
「統真でーす」
『鳴瀬くんか。ほな安心や。事故らんといてや』
「事故りませんよ」
俺は、苦笑しながら、車を出した。
◇◆◇
地下から地上へ出ると、空が、藍色から白っぽい灰色へ、少しずつ褪せていくところだった。
高速に乗る。早朝の道は、ほとんど車がいない。二台が一定の車間を保って連なり、ひたすら南へ走った。
『なあ、鳴瀬くん』
しばらくして、内線越しに、九鬼さんの声がした。
『海、久しぶりちゃう? あんた、ああいうとこ、来るタイプには見えんけど』
「来ないですね。海も、温泉も」
『せやろ。だからこそや。たまには、ええんとちゃう』
返事に困って、俺は、前を見たままでいた。
後ろの席を、ミラー越しに窺う。桐野は、窓の外を眺めている。隊長は腕を組んで、もう軽く船を漕いでいた。九条さんは、端末を閉じて、めずらしく何もしていない。助手席の八神は、缶のジュースを開けて、鼻歌を歌っていた。
こういう時間が、悪くないのは、知っている。
それでも、透を追う自分と、こうして仲間と海へ向かう自分が、同じ一人の中に収まっていることに、まだ、慣れない。
市街地が切れ、両側に山が迫ってくる。サービスエリアの看板が、一つ、また一つと、後ろへ流れていった。一時間が過ぎ、二時間に近づくころには、八神の鼻歌も止んで、車内は、タイヤの音だけになっていた。
◇◆◇
「あっ、海!」
桐野の声で、目が覚めるように、車内が動いた。
トンネルを一つ抜けたところで、視界が、いきなり開けたのだ。山あいの道の先に、朝日を受けはじめた海が、銀色に光って広がっていた。
「うわ、ほんとだ。きれー!」
八神が、窓に張りついた。船を漕いでいた隊長まで、目を開けて身を乗り出している。
内線の向こうでも、二号車が騒いでいた。
『おっ、海だ、でけえ!』
『戸坂さん、座ってください。危ないですって』
『座ってるって。ちょっと腰、浮かせただけだ』
戸坂さんと、瀬戸の声だった。二号車も、似たようなものらしい。
俺は、つい、笑ってしまった。
◇◆◇
潮の匂いが、窓の隙間から、入ってくる。海沿いの道に出ると、左手はずっと海だった。白い砂浜と、点々と並ぶ旅館の屋根。観光地の、のんびりした朝の景色だ。
「凪洲、到着でーす!」
看板を過ぎたところで、八神が宣言した。
車を、海の見える駐車場に入れる。エンジンを切ると、波の音が、急に近くなった。
二台から、ぞろぞろと、十人が降りてくる。二時間ぶりに地面を踏むと、連戦の疲れも、片付かない燻りも、この朝の光の中では、ひとまず遠かった。
「さーて」
大きく伸びをして、八神が、両隊を振り返った。
「遊ぶよ、みんな! まずは、海!」
歓声が、上がった。
その明るさの片隅で、ふと、答えの出ない問いが、頭をもたげた。なぜ、上はあれに蓋をしたのか。
ざわめく観光客の中に、一瞬、透の背中を見た気がした。まさか、な。こんな海辺に、あいつがいるわけもない。よほど引きずっているな、と自分に呆れる。
胸の奥のものは、まだ、そこにある。それでも、今だけは。
俺は、潮風に目を細めて、その騒がしい背中の群れを、追いかけた。




