雨の駅前と、片方の赤い手袋(前編)
雨の日の駅前は、いつも少しだけ静かだ。
傘を叩く、トントンという規則正しい音。
水たまりを踏む、やわらかな足音。
世界が雨のカーテンに包まれて、小さな音だけが優しく続いている。
駅前商店街のすみにひっそりと佇む、小さな古民家。
そこが、私の営む『あやかし相談所』だった。
「今日は、ずいぶんと降るね」
窓の外、灰色に霞む街を眺めながら、私はぽつりと言った。
窓ガラスを滑り落ちていく雨粒を、指先でそっと追いかける。
机の上で丸くなっていた黒猫の玄が、
ふわりと長い睫毛を震わせて、片目だけを開けた。
ひだまりのような琥珀色の瞳が、あきれたように私を見つめる。
「見れば分かるさ。お前のその『あやかしを引き寄せる体質』は、
雨の日は特に水を含んで、濃くなってしまうんだから。大人しくしていろ、紬」
「でもね、玄」
私は振り返って、くすっと笑った。
「こういう日はさ、雨の音に隠れて、
何か困っているあやかしが泣いているような気がするんだよ」
「やっかいごとをお菓子みたいに言うな。
お前のお人好しには、毎度付き合いきれんよ」
玄はふいっと首をそらし、不機嫌そうに、
でもどこか愛らしさを残して尻尾を揺らした。
人間の言葉を喋るこの黒猫は、私の大切な相棒であり、
少しだけ口うるさい保護者でもある。
カラン、コロン。
木製の扉についた小さなベルが、優しく鳴った。
「あの……ごめんください……」
入ってきたのは、駅員の男性だった。
制服の肩が、雨のしずくで少し色を濃くしている。
男性は、まるで迷子にでもなったかのように、おずおずと立ち止まった。
「あの……ここで、少し不思議なことの相談に乗ってくださると聞いて……」
「どうぞ、こちらへ。今、あたたかいほうじ茶を淹れますね」
私はすぐに椅子を引き、男性を迎え入れた。
「すみません、ありがとうございます。……相談というか」
男性は困ったように、けれど少しだけはにかむように苦笑した。
「本当に、変な話なんですが」
玄が、まあるい耳をぴくりと動かす。
「構わないさ。ここに来る話は、どれも雨上がりの虹のように、
少し奇妙で、少し変わった話ばかりだからね」
猫が喋ったことに駅員さんは驚いて目を丸くしたが、
温かいお茶の湯気に心が解けたのか、深くは追求しなかった。
トントン、と窓を叩く雨音に混じって、男性は静かに語り始めた。
「駅前に、赤い手袋があるんです」
「手袋、ですか?」
「ええ。片方だけです」
しとしとと、雨が窓を濡らしていく。
「雨の日になると、決まって同じ場所に掛かっているんです。
ベンチの横にある、小さな屋根の端っこに。最初は落とし物だと思って、
私が何度も回収して、駅の事務室の引き出しに仕舞いました。……なのに」
駅員さんは、優しく、でも不思議そうに首をかしげる。
「次の雨の日になると、また全く同じ場所に、あの真っ赤な手袋が、
ちょこんと掛かっているんです。もう、何度も」
玄の黒いしっぽが、一度だけ、静かに揺れた。
私と玄は、目を合わせる。
「……ただの落とし物じゃ、なさそうだね」
「フン。雨の音に誘われて、置き忘れた想いが形を結んだか
。……おい紬、行くぞ。傘を忘れるなよ」
「うん、ありがとう、玄」
私たちは駅員の男性に案内されて、
雨のベールに包まれた駅前へと、ゆっくり歩き出した。
お読みいただきありがとうございました。
駅前にある古びた『あやかし相談所』。紬と玄の物語が始まりました。
次回は【中編】、雨の駅前に置かれた赤い手袋に秘められた、優しい過去の記憶が明かされます。




