4 あやかしの通い路
星子は、もう一週間も、夫になった人の顔を見ていない。最後に会ったのが、八虚空のところ。あの後、星子の部屋まで送ってきて、彼は「笑ってはいけない」などと憎たらしいことを言って、自分の部屋に帰っていった。 むかついたけれど、憎んではいない。なぜだろう。
この広い屋敷の中の、どの部屋で不知火が暮らしているのかを、星子は知らない。でも、夫の部屋がどこにあるのか、それくらいは知っていてもよいはず。けれど、女房に聞いても、教えてくれない。
私が突然押しかけて行って、何かをしでかすと思っているのかしら。
女房が教えてくれたのは、彼は最近は帰るのが遅いということ。それは、日夜を通して、皇居の結界の綱の張り直しの指揮にあたっているからであるという。
「結界の綱とは何ですか」
星子が尋ねると、女房がきょとんとした表情をした。
「奥方様はそのこともご存知ないのですか」
「ええ」
星子は知らないことは、知らないのだから、仕方がないと思う。
「あやかしの侵入を防ぐために貼られて、呪力をもつ綱のことです」
「はぁ」
星子は、神社に行って手を合わせたことはあるが、それは習慣みたいなもので、叶ったらよいなと思ったことはあった。が、叶ったことはない。
それに、呪力などは信じてはいないし、何が何だかよくわからない。
星子はひとり静かな座敷に座って、湯気の立つ茶碗を前にため息をついた。
とても変な家だわ。たとえ契約結婚でも、一応は夫婦なはず。それが、夫の姿も見られず、言葉もかけてもらえず、慣れない場所で、ひとりで暮らしている。
女房や女中たちは「奥方様」と呼び、衣を整え、おいしい食事を運び、世間話をしてくれる。
実家にいた時には、自分で掃除をし、野菜を育て、料理をしていたが、ここでは全部やってくれる。
きれいな着物が用意され、部屋は掃除をしてくれる人がいて、庭はいつも美しい。楽と言えば、楽。だから、満たされていいはずなのに、心の底にずっとさみしさが澱のようにたまっていく。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてくるのが聞こえた。
冷たくされていても、不知火さまに会えるのかと思うと、なぜか胸がどきどきする自分がいる。好きなはずはないのに。
「失礼する」
青い直衣を身につけた不知火が入ってきた。
不本意ながら、ちょっとどきんとする。
その瞳はやはり美しくて、心を吸い取られてしまいそうになるが、今夜は顔色が灰色がかっている。
「お久しぶりです。ではなくて、お帰りなさい。お身体、大丈夫ですか?」
言葉をかけると、不知火は僅かに眉を動かした。
「問題ない。式神が足りず、内裏の結界補修が難航しているだけだ」
「それはあやかしの侵入を防ぐためですか」
「そうだ」
「私に、なにかできることがありますか」
「その時がきたら、お願いする」
「私、巫女のお仕事というものができるかどうか、全然、自信がありません。でも、ほかに、いろんなことができるのですよ」
「あなたには、どんなことができますか」
彼が初めて、興味を持ってくれたようで、星子は張り切った。
「庭に大根を植えたり、伸びてしまった木を切ったり、お料理も得意です。少ない材料で、おいしくできます」
不知火が驚いた顔をして、しばらく星子をじっと見ていた。
星子がその反応を見て、少々得意な気分になった。
「そういうことはしなくてよろしい」
「ええっ、はい」
星子にしてみれば、そんな反応は急に水をかけられたようで、びっくり。考えてみれば、そういう人なのだが、よい方向に行きそうになったと思ったのに、戻ってしまったようで、やはり寂しい。 まっ、そんなにうまくいくはずが、ないか。
「明日から、術の基礎を教える。封印に立ち会う者として、それなりの知識と技量がいる」
「あなたが、ですか」
「他に誰がいる」
「そうですよね。勉強を教えてくださるのですね。うれしいです」
「必要だからだ」
「がんばります」
不知火の表情からは呆れた表情がちらりと見られ、それはがんばるという問題ではないのだと言っているようだ。きみは何にもわかってはいない。
彼は私が嫌いなので、何でも、腹が立つのかしら。
「では、明日」
でも、その一言で、星子の胸の奥に、なんだか少し灯がともったような気がした。 我ながら、単純すぎるとは思う。




