25 幸せに生きましょう
契約更新はまだできていない。
それなのに、不知火は、最近、よく外出をするようになった。身なりを整えて、いそいそとして出て行く。
おかしい。
最近は、何かを目指して、張り切っているようなのだ。
あれは、書物の中に、回答を見つけた時にする表情。
不知火さまは、何を見つけたのだろうか。
もしかしたら契約更新はなくて、実家に帰ることになるかもしれないので、星子は前の家に通い、庭の整理を始めた。
草を抜きながら思う。
ちょっと態度が大き過ぎたかな、体当たりがまずかったかな、と反省することがある。
でも、紙に書いた契約ばかりを大切にして、なんて肝の小さな男なのだと、腹が立つこともある。でも、そこが愛しいところでもある。いや、愛しいから、何をしても、許せてしまうのかもしれない。そういう自分にも、腹が立つ。
腹を立てても、すぐに心配になる。不知火さまは、どこに通っているのだろう。自分より、あの方を理解してあげられる誰かがいるのだろうか。
その日、星子が実家から帰ると、女房たちが騒いでいて、星子の姿を見ると、憧れの目をして、取り囲んだ。
「星子さま、あの方が来られたのですよ」
と興奮している。
「誰が来たのですか」
「霞若さまですよ」
話をよく聞いてみると、あの橘千歳がやってきたのだという。
彼はあれから家を出て、「霞の緒」という猿楽座を作り、そこで踊っているのだった。「霞の緒」の設立に関しては橘家が資金を提供した。
普通。貴族の子息が芸人になるということはないのだが、母親は「千歳が生きてさえいれば、なにをしてもよい。好きなことをして、好きな人と結ばれてよい」という心境に達して、主を説得した。主のほうは鬱に沈んだ妻の姿を二度と見たくはないので、すぐに賛成したのだった。
「霞の緒」で踊る千歳の人気ときたら、この賀茂の屋敷にさえ彼のファンがいるくらいだから、巷ではどのくらい人気なのかがわかるというものだ。
その千歳が、わざわざ自分で、星子に手紙を届けにきたのだ。
女房がその包みを震える手で、差し出した。
「星子さま、早く見せてくださいませ」
「早く、早く」
女房や侍女たちにせがまれて、星子は手紙を開いてみた。
手紙は青がかった霞色の和紙にじみやぼかしが美しく出る墨で書かれていて、女房たちから歓声が上がった。
「かき曇る 心は晴れて 面影の 昔にまさる きみを見ほまし」
(曇っていた心も晴れ渡り、目の前にあるのは、かつてよりも美しいあなたでした。どうぞ、どうか私と会ってください)
きゃーっとあの年増の女房の鏡が、一番甲高い叫び声を上げた。
「ああ、霞若さまは、星子さまを狙っていらっしゃるのですね。その幸運なお方が、うちにいらしたとは」
その時、不知火は奥にいたらしく、ゆっくりと歩いてきて、星子のそばを通りかかった。そして、首を伸ばして、その手紙をちらりとのぞき見たけれど、全く関心がない様子で歩いて行った。
「ご主人さまはもう少し熱いところを見せないと、これでは、負けてしまいます」
と鏡が星子を見た。
「そうですよ。私、もてるのですから」
夜になり、星子が机に向かっていた時、不知火が一枚の和紙を手にやって来た。
「これ」
彼がそれを手渡そうとした。
その紙には、契約更新のことが書いてあるのだろうが、好きに出歩いていて、契約だけはしてほしいとは、図々しいではないか。
私を甘く見ないでほしい。
気持ちのこもった和歌をもらうまでは、契約をするわけにはいかないぞ。
「今、手が離せないので、そこに置いておいてください」
星子は、彼の顔を見ようともしない。
「なにがそんなに忙しいんだい」
なになに、と彼が覗き込んだ。
「あるお方がすてきな和歌を贈ってくださいましたから、お返事を考えているのです」
「あの千歳への返歌かい」
「そうですよ。聞きたいですか」
「別に」
星子は彼の反応におかまいなく、高らかに、歌を詠みあげた。
「昔より 色は変わらぬ 花なれど 君のまなこに 咲きそめにけり」
(昔から変わらぬ花でございますが、あなたの目に映ることで、今こうして咲きはじめたように思えます)
「どうですか、この和歌」
「どうかな」
「千歳さまはお上手だから、返事に困ってしまいます」
「本当にうまい歌というのはな、源氏物語の場面をそれとなく使うとか、本歌取りがしてあるものだ。字の背後に、余韻が必要なのだ」
「和歌を一首も詠んだことのない方が、よく言いますよね」
「詠んだことはある」
と不知火がぶっきらぼうに言った。
「いつですか」
「……よい。帰る」
不知火が不機嫌そうに立ち去った。
「なんなの、あの態度」
そう思って振り返ると、彼が置いたはずの紙がない。
彼、怒って、契約書を持ち帰ったのかしら。
でも、契約延長ができないと困るから、星子は駆けていった。
「契約更新の紙をください」
「それは、後で届ける」
「今、ください」
「これは更新ではない」
「じゃ、何ですか」
「これは、忘れてください」
「そう言われたら、ますます忘れられないではないですか」
「返して」
不知火が紙を高く上げたから、星子は飛び上がったが、背が低いから届かない。
「返して」
「届いたら、返してやる」
背が高い彼は、星子が届かないと思っているようで、不敵な笑みを浮かべている。
よし。言ったな。
星子は彼の後ろに回り、肩に飛び乗って、その紙を取り返した。彼がまたそれを取り返そうとしたけれど、星子はうまくかわして、部屋に駆け戻った。
取り返しにこないうちに、さっさと署名をしてしまおう。
そう思って紙を開くと、それは契約書ではなく、そこには、和歌が書かれていた。
「言の葉に 尽くしもやらぬ 想ひ路を 思ひ入るほど 君をぞ願ふ」
どういう意味かしら、と星子は首を傾げた。
わかりそうで、わからない。
でも、これを不知火さまが作られたかと思うと、その顔を想像して、星子は笑ってしまった。
その時、女房の鏡が、茶と菓子を持って、部屋に入ってくるなり隣に座った。
「星子さま、どうなさるのですか。不知火さまですか、霞若さまですか」
「鏡さん、あなたは本当に、噂が好きですよね」
「この独身女の鏡、変わり映えのない仕事ばかりの日々で、この世の中に、他にはおもしろいことがありません」
「そうですか。困りました」
「ところで、星子さま、先日は、不知火さまの後をつけていたでしょう」
おお、世の中、狭い。ばれていた。
「よくご存知ね」
星子は冷静を装って、茶をすすった。
「実は、私もつけていました」
と鏡が首をすくめた。
「鏡さんも。そうなの?」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
「でも、私は見失いましたが」
「私は突き止めましたよ」
と鏡が誇ったように言った。
「突き止めたのですか」
どうして身軽な自分が見失って、鏡が見つけられるのだろうか。
「どうして、鏡さんが」
「星子さまは尾行の仕方をご存知ない。見つかるのを心配して、びくびくしすぎです。もっとぐんぐん行かないとだめですよ」
「どうして、そんなことを知っているの?」
「それは、経験が違いますから」
「鏡さんは、よく尾行をしているの?」
「はい。私の趣味であり、唯一の特技ですから」
「では、不知火さまが行かれた場所がわかったのですか」
「もちろんです」
「それはどんな女性、……いいえ、そこはどこですか。」
星子が思わず、身を乗り出した。
鏡が意味深に笑った。
「星子さまのお気持ちを聞かせていただけたら、お教えします」
「何の気持ちですか」
「お心は、不知火さまですか、霞若さまですか」
「……そんなこと、決まっているではないですか」
星子は少し頬を染めて、冗談めかすように笑った。
「どちらですか」
「私は不知火さま、一筋ですから」
「それを伺って、安心いたしました。不知火さまが通われていたのは、御所の南門の前にある藤原定家さまのお屋敷です」
「あの和歌で有名なお方ですか」
「そうです。あの方に、和歌の心を習いに行かれていたようです」
「ああ。そうだったのですか」
不知火は和歌を作るために、藤原家に通っていたのだった。
その夜、星子は墨を摺りながら、不知火が贈ってくれた和歌を何度も読み返した。
「言の葉に 尽くしもやらぬ 想ひ路を 思ひ入るほど 君をぞ願ふ」
(言葉ではうまく言えないけれど、心の中に続く道をたどりながら、あなたを思っています)
最初は難しい言葉が並んでいる堅苦しい和歌だと思ったけれど、藤原定家さまが見てくださった作だと思うと、だんだんとよく見えてきた。
本歌取りのような気もするし、源氏物語の匂いもする。ただ、どこがそうなのかはわからないけれど。
これって、ずうっと私のことを思ってくださっているという歌。つまり、一緒に暮らしたいと言っているのだわ。
ああ、なんてよい歌なのかしら。
頭のよいお方は、少し習うとすぐに上達してしまうものなのね。
星子は頬を染めながら、返歌を考えた。
「忘れめや うまくと告げし あの夜より 恋しき色の 褪せぬままなり」
(あなたは、忘れてはいないでしょうね。ふたりでうまくやりましょうねと告げた夜から、私は、あなたに、ずうっと恋しています)
これで、契約更新は確実である。
了




