23 私って、恐ろしい女ですか
祇園祭が終わり、関白は正常に戻り、以前に賀茂家に向けて出したあやかし調査の中止命令を取り消した。
不知火と星子の生活は前のように戻り、その朝、ふたりは、あやかしの道を探すために、屋敷を出た。
しかし、星子は感傷的な気持ちになっていた。それは、今日行くところが、地図に残された最後の丸印の場所だったからである。不知火といろんな場所に出かけての共同作業が終わると思うと寂しい。でも、これから始まる生活、たとえば料理をしてふたりで向かい合って食べる、そんなところを想像するとうれしくなってしまう。
その「あやかしの道」の印は、嵯峨野の奥、化野に近い竹林の中にあった。
竹の葉がさらさらと鳴るたびに、風が生き物のように動き、空気に死者の気配が混じっていた。地蔵の顔は風雨に削られ、どれも目鼻が曖昧だった。 根の間から覗く裂け目は、まるで地の底へ続く口のように黒く濡れていた。
「ここを封じれば、すべて終わる」
不知火の言葉に星子は頷き、一歩ずつ歩を進めていった。
「……星子……」
その時、竹林の風の吹く中に、女性の声が聞こえた。
「かわいい星子。わたしの星子や」
「えっ、お母さま?」
星子が声の方を見ると、竹の間に、白い単衣、肩までの黒髪の美しい女が、寂しそうに立っていた。
「お母さま?」
それは、幼い星子が知っている母の面影そのままだった。
「そうですよ。ようやく来てくれたのね、星子。あなたをずっと待っていたのよ」
白い袖が揺れている。
ずっとずっと会いたかった人がここにいる。
「お母さまは霊のままで、ここで私を待っていてくれたのですか。なぜ」
「あなたをもう一度、抱きしめたいからよ。愛する星子、さあ、母のところに来なさい。抱きしめさせて」
母が、細くしなやかなその手をさしだした。
「お母さま、私のことは大丈夫ですから、どうぞ、成仏してください」
「母はこんなに星子に会いたいのよ。どうぞ、抱かせて。こちらに、来て」
「私、そちらには行けません」
「どうしてなの。母と一緒に暮らしましょう。あなたには、二度と、さみしい思いをさせませんから」
「お母さま、私は、さみしくないです。私はこちらの世で、不知火さまと生きていきますから、祝福をしてください」
「それは、だめですよ」
と母親が叫んだ。
「その男のところへ行ってはだめです」
「なぜですか」
「その男の母親が、私を刺し殺したのですよ。そんな男と一緒になっても、幸せにはなれません」
「どうして、そのようなことを言われるのですか」
「あなたのためよ。その男は、心の中で、あなたを憎んでいます」
「母親なら、どうして、私が決めた人との結婚を喜んではくれないのですか」
「星子、これ以上、あなたを苦しませたくないからよ。娘は母とともに暮らすのが、一番幸せなのですよ。星子、あなたは母親のやさしさを知らない不幸な娘だったけれど、これからは悲しい目にはあわせません。この世で、あなたのことを一番思っているのは、このわたし、あなたの母です。そして、この母も、あなたがいなくては寂しくてなりません」
「一番思ってくださっているのは、お母さま……、お母さまはさみしい……」
星子がそう呟きながら、夢遊病者のように、母親のほうに歩いて行った。
「行ってはだめだ」
と不知火が叫んだ。
星子の耳に、不知火の声が届いた。
何が本当なの?何を信じれば、いいの?
星子は目を閉じて、意識を集中させて心の声を聞いた。
「あなたは……、私のお母さまじゃない」
星子が目をあけて、叫んだ。
「あなたを産んで、育てた母親ですよ」
「……それならば、証拠を見せてください」
「母親に、母親だという証拠を見せよというのかい。なんて情けない」
その女は竹の間を吹く細風のように弱々しく泣いたから、星子の胸が痛んだ。
「泣かないで」
「この母を泣かせたくないのなら、こちらへ来なさい」
「ああ、お母さま、風の音で、思い出しました。お母さまが歌ってくださったあの子守歌を。あれをもう一度、歌ってください。そうしたら、私は信じます」
「そうかい。わたしはいろんな歌を歌ってあげました。すぐにでもその子守歌を歌って、母親だと証明したいところだけれど、正直のところ、長い年月の間、こんな人気のない場所にいたから、すっかり忘れてしまいました。残念なことです。星子や、少し、歌ってはくれないかい。そしたら、思い出すから」
「わかりました」
と星子は歌い始めた。
「ねんねんころり よるのそら
つきのひかりに みす《御簾》ゆれて
ほしのひとつが ほほえめば
ねむれ ねむれ いとしきわが子」
「ああ、ああ、思い出してきましたよ」
と母親だという女が泣いた。
「ねんねんころり やみのなか
すだれのそとに かぜぞふく
こおろぎなけば こもりうた
ねむれ ねむれ よきゆめをみて
ねんねんころり おやすみなさい
かあさまここに おりまする
あなたのそばで うたいましょう
ねむれ ねむれ いとしきわが子」
星子はさいごまで歌った。
「すっかり思い出しました。だって、これは私が作った歌なのですから。星子、一緒に歌いましょう」
「はい。お母さま」
ふたりは一緒に、子守歌を歌った。
二人が声を合わせて歌い終わった時、星子が不知火のほうを向いた。
「不知火さま、どうぞ、調伏してください。この女はあやかしです」
「どうして、星子は母親でないとわかるのだ」
「わかります」
と星子が胸を張った。「だって、この子守歌は、私が今、即興で作ったものですから」
星子の言葉を受けて、女の頬に浮かんでいた微笑が消えて、目元に影がさし、口角が大きく歪んだ。
「ああ、そういうことか。星子、おまえは恐ろしい女だ」
それはまるで土の底で響いてくるような男の声だった。
次の瞬間、女の肌がひび割れ、そこから墨を流したような黒が滲み出した。
髪がゆっくりと逆巻き始め、風もないのに宙へと舞い上がった。
「惜しかったのう、もう少しだったのに。賀茂の不知火、よく聞け。おまえにこの女は扱えない。食われてしまうぞ」
その目は赤く輝き、顔の輪郭は異様に細く引き伸ばされていった。
「何を言うか」
星子がそう言ったかと思ったら、突然、あやかしを目指して突進し、どんと体当たりをした。
ええっ、と不知火が仰天した。
あやかしが地面にばたりと倒れ、星子がその上に乗って、あやかしを殴りつけた。
不知火があわてて駆け寄り、星子の腕を引っ張って、起こした。
「見たか、この女を。おまえの手には負えない」
「黙れ」
と不知火が叫んだ。
「星子、離れていなさい」
彼は袖の奥から護符を取り出し、指先で一気に結界の印を切った。
「封印」
あやかしの乾いた笑い声とともに、黒い光が現れて、地を這った。
あやかしの足元から、風が渦を巻いた。
あやかしが嗤う。
「人の子が、術者気取りか」
「おまえは、あやかしの国へ帰れ」
不知火は護符を掲げた。
「封神結界──天と地の狭間にて、偽りの魂を縛り給え」
彼の掌から蒼白い火が立ち上がり、空に神紋が浮かび上がる。 それは鎖のように絡み合い、あやかしの身を締めつけた。
あやかしが叫んだ。
「その術は、陰陽寮の秘印か!ああああ、悔しい」
不知火が印を結び、光の環があやかしを包み込んだ。
「迷えるものよ、形を偽り、人を惑わし、望まぬ道へと引きこもうとした者よ、帰るべき場所に帰れ」
あやかしの姿は一瞬、真っ黒な影の塊となったのち、霧のように散っていった。
不知火はそっと手を下ろし、静かに息を吐いた。
結界の光が消え、辺りに再び、夏の夜の静けさが戻ってきた。




