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22 祇園祭で、何かが起きる

 その夜、鏡が星子の部屋にやって来た。

「ご主人さまが、来てくださいとのことです」

「い、いまですか」

「今日はずっと外出なさっていまして、先ほど、帰られました。ずい分とお疲れの様子です」

「はい。不知火様は、大丈夫ですか」


 書斎に行くと、不知火は机の上の書類に目を通していた。

「調べてきましたよ」

「橘千歳さまのことでしょうか」

「そうです」

 

 確かに二年前、京の都から「橘千歳」という青年が、突然、失踪した事件があった。まるで狐につままれたみたいに、何の痕跡も残さず、急にいなくなってしまったのだ。家族は捜索を依頼し、神仏に願掛けもしたが、手がかりは一向につかめない。

 

 しかし、若者の失踪というのは、それほど珍しいことではない。

 その頃、千歳はよくもの思いをしていて、しきりに机に向かっていた。それを聞いた検非違使は、失恋だろうと判断した。

「伊勢か、出雲大社、いや、はるか遠い岩木山神社に、願をかけに行ったに違いない。そのうちに戻ってきますよ」

 しかし、彼は戻っては来ないのだ。


 不知火は橘家の屋敷を訪れてみたのだが、千歳の母親は心労のあまり床に伏せたままなのだった。


「私は、あやかしが橘千歳さまに取り憑いたのだと思います」

 と星子が言った。


「あやかしが、取り憑いている?」

「はい。あやかしは橘千歳さまに乗り移り、少年の姿に化け、関白を思いのままに動かし、この世を混乱させているのです。あの霞若は、きっと橘千歳さまです」

 

 不知火が額に手を当てながらしばらく考えた。

「可能性はなくはない」


「しかし、星子、それを確かめる、方法はあるのかい?」

「はい。一つだけ、あります」

 星子の瞳に強い光が宿っている。


「関白と霞若が外出される場所に、私をそこに連れて行ってください。そして、私の声が、霞若にはっきりと聞こえる場所に、私を立たせてください」

「それは、危険です。そんなことをしたら、相手は関白なのですから、逮捕されてしまいますよ」

「でも、それしか、方法がありません。このままでは、都はますますあやかしで溢れ、大変な世の中になってしまいます」


  不知火は、祇園祭の神幸祭に関白が出席されるという情報を得ることができた。

 毎年七月十七日に開催されるこの儀式は、八坂神社から御旅所へ神輿が渡御する祭である。

 

 祇園祭では、夕方四時頃に八坂神社で神輿渡御出発式が行われ、六時頃には、重厚な神輿が石段下で天に向かって何度も持ち上げられる「差し上げ」の儀式を行い、いよいよ出発する。


「その時です。その時しかありません。どうか、私の声が、はっきりと霞若に届く場所に連れていってください。お願いします」


 その夜、不知火は安倍剛人の屋敷を訪問して、祇園祭の日に協力してほしいと頼んだ。

「断る。そんな危ない橋はわたりたくはない」

「頼む」

「同期のおまえが、おれにものを頼むのは初めてだ。しかし、今は、陰陽師は、目の敵にされている状況なのだ。火中の栗を拾いたくはない」

「我が家のためだけではないぞ。陰陽師家が生き残る最後の試みだ。これしかない」


「何をするというのだ」

「星子に、作戦がある」

「詳しいことを話してみろ」

「詳しいことは、知らない」

「それは、実に、珍しいことだ。おまえは緻密な計画を立て、それに従って行動する石頭の男だった。それだけ、彼女を信じているということか。呆れて口がきけない」

 

 *


祇園祭当日。

八坂神社の石段下は、人々の熱気に包まれていた。鈴の音と太鼓が鳴り響き、見物人のざわめきが波のように押し寄せる。巨大な神輿がゆっくりと石段を下り、いよいよ「差し上げ」の儀式が始まった。

 

 男たちの勇壮な掛け声が空に轟き、神輿が高く差し上げられるたびに、見物人から大きな歓声が沸き起こる。その興奮と熱狂の中心に、関白・藤原孝道と、並んで立つ深紅の衣装を着た妖艶な霞若の姿があった。

 

 神輿がいよいよ出発しようと、最後の「差し上げ」が最高潮に達し、人々の視線が一点に集中した。

 その時だった。


 見物人のざわめきの中で、星子が不知火に守られて、周囲の人々を押し退けて進み、一番前に出た。


「橘千歳さま、よく聞いて!」

 

 彼女の凛とした声が、祭りの熱気を切り裂くように響き渡った。


 星子は懐から、一枚の短冊を取り出し、頭上高く掲げた。

 そして、その短い言葉を、魂を込めて歌い上げた。


「風吹けば なずなゆらるる きみの歌 胸に染み入り 言の葉ほしき 明原星子」


(風が吹いて、あのナズナが揺れると詠んでくれたあなたの歌が、今も私の胸に深く染み入っています。どうか、あなたの言葉が聞きたいのです、何か言ってください)


 その歌が響き渡ると、一瞬、祭りの喧騒が遠のいたかのように、場が静まり返った。だが、すぐに我に返った警備の役人たちが、星子に向かって猛然と駆け寄ってきた。


「近づくな」

 不知火は冷静な声でそう言い放つと、背に差していた儀式用の刀に、ゆっくりと手をかけた。


「動いてはならぬ」

 そう言って、刀を抜いたのは安倍剛人だった。

 安倍家の弟子たちが、星子を取り囲んだ。

 役人たちの足が止まり、周囲の空気が一瞬で張り詰めた。


「風吹けば なずなゆらるる きみの歌 胸に染み入り 言の葉ほしき 明原星子」

 星子が、もう一度、渾身の力を込めて詠った。


 その瞬間、祭りの中心で、関白の隣に石像のように立っていた霞若の体が、微かに揺れ、まるで何かに突き動かされたかのように、彼が顔を上げた。


 その霞若の漆黒の瞳が、雑踏の前に立つ星子を捉えた。

 誰もが息をのむ中、霞若の表情に変化があった。


 霞若が顔を星子に向けた。


「風吹いて なずなそよげば 君見つつ 胸うち騒ぎ 言葉出でずも」

 その声は弱々しかったが、星子には聞こえた。


「和歌を覚えていてくれたのですね」

 星子の瞳から、喜びの涙が溢れ落ち、彼女はさらに大きな声で、もう一度、詠じた。


「風吹けば なずなゆらるる きみの歌 胸に染み入り 言の葉ほしき 明原星子!」


 霞若の目は、その場に固まったままの関白孝道をちらりと見た。孝道の顔には、得体の知れない動揺と、わずかな怒りが浮かんでいた。霞若は、その視線から逃れるように再び星子に向き直ると、今度、彼の声にはもっと力がこもっていた。


「風吹いて なずなそよげば 君見つつ 胸うち騒ぎ 言葉出でずも。橘千歳」


「橘千歳」という名前が、霞若の唇から絞り出された瞬間、祭りの騒めきが、突如として奇妙な静けさに包まれた。

 

 霞若の体が地面に倒れ、稲妻に打たれたかのように大きく震え始めた。


「橘千歳さま!」

 星子が叫んだ。「橘千歳さま、戻ってきてください」

 

 霞若、いや、橘千歳は、一瞬、目を見開いた。


 その瞳が揺れた瞬間、彼の身体がぐらりと揺らぎ、細い指先が震え出した。そして、次の瞬間、彼の口から、黒々とした気味悪い何かが、煙のように噴き出した。


 「う……うう……っ」

 千歳は額を押さえ、膝をついた。耐え難い苦痛が彼の全身を貫いているようだ。

 

 黒煙の内から、言葉にならぬうめき声が響いた。まるで何者かが咆哮ほうこうとも断末魔ともつかぬ声をあげ、地の底から呪詛を吐いているかのようだった。

 その黒煙は、じわじわと形を変えながら伸び、突如として跳ね上がったかと思うと、近くの役人のひとりに襲いかかるかのように、蛇のように牙を剥いた。

 

「下がれ!」


 不知火が大声で叫び、刹那、結界の印を切って空間を裂いた。剛人も、それに続いて、印を切った。

 煙は寸前で弾かれ、甲高い金属音のような悲鳴をあげて後ずさった。

 

「出ていくのだ! ここは、もう、お前の居場所ではない!」


 不知火が再び印を切ると、黒煙は天を仰ぐように立ち上がり、螺旋を描いて空へと渦を巻きながら昇って行った。

 その呻き声は次第に細く、消え入り、最後に一際鋭い音を立てて空に散った。

 夜空に染みのような影を残しながら、それは風に裂かれて、闇の彼方へと消えていった。


 霞若と呼ばれた少年は、震えながら、地に伏していた。

  星子が駆け寄って、やさしく背中を撫でた。


「がんばりましたね、千歳さま。もう大丈夫ですよ、私がついていますから」


 関白孝道は、目の前で起きたあまりに異常な出来事に、言葉を失い、蒼白な顔で立ち尽くしていた。

 祭りの人々も、神輿の担ぎ手も、皆がその劇的な変化に凍りつき、静まり返った石段下には、ただ風が吹き抜ける音が響いていた。




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