20 関白の狂気
その頃、京の都では、ある奇妙な噂がささやかれ始めた。
稀代の権力者、関白・藤原孝道が、若き舞手・霞若に尋常ならざるほど心酔している、というのだ。
最初は、誰もが耳を疑った。
霞若の舞を見て泣いたらしいが、それは親王の全快がそれほどうれしかったからなのだろう。
あの冷徹で知られる孝道が、まさか若い舞手を相手に、個人的な感情に溺れるなど、あり得るはずがないと。
だが噂はやがて具体的な目撃談を伴いながら、日に日に真実味を帯びていった。 孝道が霞若を連れて、堂々と市中を練り歩くようになったのだ。
ある日は牛車に乗せて舞台を見学し、またある日は身分を顧みず市場へ徒歩で現れるなど、前代未聞のふるまいで、人々の目が集中した。
先日は、都の北にある「貴船神社」を訪れた。
そこは貴船川の清流と森に囲まれた神域で、和泉式部が夫との復縁を祈って参詣し、願いが叶ったとされている。
「結び文」を結ぶ時、孝道の眼差しは霞若に注がれていたという。誰が見ていたのかは知らないけれど、関白は慈しみに満ちた瞳で霞若を見つめ、文を枝に結んだ後は、堪えきれぬように、ふふと微笑みを漏らしたのだという噂が飛んだ。
「いい年をした妻子のあるじじいが、なにをやっているんだ」
「若い子に色目を使って、恥ずかしくはないのか」
と巷の人々は陰では言っていたが、相手が関白なので、大声では言うことはできないのだった。
貴族たちは困ったことだと眉をひそめていたものの、昇進や降格がかかっているので、矢面に立とうという者はいないのだった。そのうちに、なんとかなるだろうと問題を先送りしていた。
人々は信じたいものだけを信じるから、関白と霞若の噂は都中に広がった。驚くべきことは、美しい霞若を慕う女子たちが日ごとに増えていったということである。
「関白が熱を上げていると聞くだけで、どうして女子たちは好きになるのだろうか」 不知火はそう呟き、首をひねっていた。
ところで、不思議なことに、霞若の動向は、なぜか都中に漏れ伝わるのだった。
彼が現れるという噂を聞きつけては、女性たちが待ち構えるようになっていた。
あの女房の鏡も、仕事をほったらかしにして、追いかけているようだ。
「いいかげんにしなさい。いい歳をして」
と不知火が珍しく意見をした。
「歳に関係ありますか。私は関白よりも、若いです」
と鏡は不満げな表情で抗議をした。彼女が言い返すなんて、これまでなかったことなのだ。
「それに、星子さまだって」
「星子がどうした?」
「追いかけているだけではありません。大声で名前を呼んだりしていらっしゃいますよ」
「星子まで霞若に夢中になるとは……」
不知火は苦笑を浮かべるしかなかった。
ところが、孝道の偏愛は、公の儀式にまで及び始めた。
五月五日の節句には、厄除けとして「菖蒲」を髪に飾る風習がある。
しかし孝道は、突如その風習を「霞草」に改めよと命じたのだ。
役人やその下役が市中をまわり、高札を立てて新たな通達を読み上げて歩いた。
「関白様は、とうとう正気を失われたのか」
人々はそう噂しつつも、次に何が起こるのかに好奇心を募らせていた。
そして、狂気はさらに加速する。
六月、霞若の誕生日には、都全体で祝賀を行うよう命じられ、彼の名にちなむ「霞の花」を家に飾ることが義務付けられた。
さらにある寺では、霞若の容姿を模した童子像が販売され、それを買うとご利益があるという噂が流れ、人々は行列をして、それを買い求めた。
桂川のほとりや宮廷の庭園の一角には、「霞若神社」の建立までもが始まった。
歴史上、権力者の逸脱はたびたび見られるが、孝道のそれは直接的な害を伴わなかったため、やがて収まるだろうと高を括っていた。
だが、その楽観的な期待は、ある日、突如として破られた。
陰陽師家に、公的な書簡が届いた。
「本日より、いかなる陰陽師といえども、『あやかしの道』と称される場所への立ち入りおよび封印を固く禁ず。この禁を破る者あらば、速やかに捕縛し、厳重なる処罰を科す」
「ついに来たか」
不知火と星子は、顔を見合わせた。
「これでしたね、目的は。ようやく本性をあらわしましたね」
ふたりはこれまで、数々のあやかしの道を見つけ、封印を重ねてきた。その成果を、あやかしたちが黙って見逃すはずがなかった。
今、敵は姿を現わした。
霞若、彼こそが、あやかしの化身に違いない。
関白の心に入り込み、その権力を操っているのだ。
「不知火さま、このままでは、再びあやかしに満ちる都になってしまいます。どうしましょうか」
彼は腕を組み、遠くを見つめながら顎へ手をやった。
「さて、どうしたものか」




