18 星子、宮廷へ行く
朝霧が低くたなびく中、不知火と星子は賀茂家を発ち、迎えの馬車で、内裏へと向かった。夜明けとともに鳴き始めた鳥の声に包まれながら、ふたりの影は高い築地塀の中へと入って行った。
陰陽師賀茂家の不知火は、墨染の狩衣に、黒漆の烏帽子。袴は深い藍色で、裾には結界を象徴する白い刺繍が縫い込まれている。また腰には祓具を収めた小袋を下げ、背には護符と呪札を納めた木箱を背負っている。
幽世の巫女の星子は、白の小袖に薄紫の袴を重ね、古式の襟が首もとを清らかに包む。髪は肩の下に自然に流しており、その佇まいは、凛として清らかである。
不知火はその責任感からか、目元には疲れが滲んでいた。星子が優しく彼の袖をつまむと、不知火は短くうなずき、歩みを合わせた。
内裏に入ると、その空気は、門の外とは違っていた。
白砂の庭にはまだ露が残り、どこかから鳥の声が聞こえるのに、どこか時間が止まっているようだった。
建春門をくぐると、陰陽寮の若き役人達が、ふたりを迎えた。噂で聞いていた不知火の姿を見て、深く頭を下げた。また女房や侍女たちまでが出てきて、柱の陰からそっと覗き込み、ひそひそと声を交わした。
「不知火さまの横にいるあの小さな娘はだれ」
「侍女にしては、堂々としているわよね」
「まさか、結婚したわけじゃないわよね」
「あのお方、女性には興味がないという評判よ」
「じゃ、その相手は、だれ。安倍家の剛人さまかしら」
「そうなの?ああ、お似合いかも。ふふふ」
いつも世も、時間をもてあます人々にとって、無責任な噂は大好物。こういう時には、張り切るものだ。
陰陽師のことは知っていても、幽世の巫女の存在を知る者は少ない。
しかし、星子の姿を見た若き陰陽師達は、この巫女が常世とつながる力を秘めた存在であることを、本能的に悟った。
「この先が、清涼殿でございます」
そうして、案内されたのは、王太子の第一子であられる時明親王の寝所だった。
薄布の帳の中、まだ七つの親王が目を閉じたまま、横たわっていた。額にはうっすらと汗がにじみ、その呼吸は浅く、その額には苦しみの皺が見られた。
「こんな幼い子が」
星子がそっと膝をついた。
その顔を覗き込むと、ふっと冷たい風が頬をかすめたような気がした。窓は閉まっていて風など吹いていないのに。
「何か感じますか?」
不知火が星子の表情が変わったのに気づいて、小声で尋ねた。
「はい。けれど、この部屋ではなくて」
星子は周囲を見回した。
星子は目を閉じ、空気の流れを指先でなぞるようにして、内裏の空間を辿った。ふっと視界に何かが映った。
見える。
花が散っている。
池のほとりで、子どもが笑っている。
「ついてきてください」
星子はすくっと立ち上がり、歩き出した。
渡殿を抜け、回廊の角を曲がり、やがてたどり着いたのは、忘れられたように手入れのされていない庭だった。
「ここは、どこですか」
「『花隠れの庭』と呼ばれております。春には、それは美しい桜が咲いたものですが……」
と女官が言葉を濁した。
「咲いたものですが、とは」
「今はもうこの庭には誰も、訪れることはありません」
「見えます」
「なにがでございますか」
星子の目に、何かが見えた。
そこには、一輪だけ咲き残っている桜の下に、ひとりの少女が立っていた。
「あなたは、どなた」
星子が尋ねると、その少女が、ふわりと振り返った。
十歳ほどだろう。うす紅の小袿をまとい、肌が透けるほど白い。
「わたしは、桜子内親王です」
追いかけてきた不知火が、桜子内親王は時明親王の姉で、昨年、亡くなったのだと教えた。
桜子内親王の魂が、どうしてここに。
「あなたは、時明さまに会いに来られたのですか」
「はい」
「おさみしいのですね」
「はい。みんな、わたしを忘れていきます。わたしの庭にも、もう誰も来ない。でも、弟だけは、夢の中で、わたしを呼んでくれる。わたしは弟とお遊びがしたいの」
「桜子さま、それはおつらかったでしょう。おさみしかったでしょう」
星子がそっと手を伸ばした。
その時、風が吹いて、桜子の姿がふっと揺らいだ。
「わたしは、弟を連れて帰りたいの。そうしたら、ひとりではないから」
「時明さまが、ご病気になられて、あんなに苦しまれても、あなたは連れて帰りたいのですか」
「弟が苦しむのはいやです」
「では、こうしましょう」
と不知火が言った。
「この庭をきれいにしてもらい、あなたはそこに住むことにして、あの世とこの世を通えばよいのではないですか。時明さまが元気になられたら、この庭で、遊べばよいでしょう」
「そんなことができますか」
「私は陰陽師ですから、そういうことできます。あやかしの道を封印するだけが、仕事ではありません」
「本当に、やってくれるのですか」
「はい。私は約束したことは、必ず守ります」
その時、また風が吹いて、庭を包む気配が一変し、枝のあいだから花びらがざわざわと舞い上がった。
桜子の姿が光に包まれ、花びらが舞った。
「信じます。お願いね」
そう言って内親王は、春の夢のように空へと溶けていった。
星子は立ち尽くし、目を閉じて祈った。静けさが戻り、庭には桜が香っていた。
不知火がゆっくりと歩み寄った。
「この庭を、一刻も早く、直させましょう」
「はい。桜子さまが、再び、来られるように」
星子は桜子の寂しかった心情を思い、そっと、不知火の袖を握った。
清涼殿のほうに歩いて行くと、人々のうれしそうな声が聞こえてきた。
時明親王が、目を覚ましたのだ。




