17 ちょっとしたことが、うれしい
次の日にふたりが訪れたのは、都を流れる鴨川の河原だった。
星子が川岸に立つと、水底から響くような、不気味な音が聞こえてきた。
「不知火さま、何か変な音が聞こえませんか」
「いや、私には聞こえないが」
「星子、気をつけなさい。その音は、水に沈んだ者たちの悲しみかもしれないし、または川底に潜むあやかしの誘いかもしれない」
星子が水面に手をかざすと、指先に刺すような冷たさを感じ、水の一点から水面に広がる墨のように黒い波紋が広がった。
「星子、下がっていなさい」
不知火は、川の流れに逆らうように術を発動した。彼の掌から放たれた光は、水面を滑るように進み、黒い波紋の中心で渦を巻いた。すると、水底からかすかに震えるような音が響き、濁った水が水底へと吸い取られるように、消え去った。
翌日、ふたりが訪れたのは、鳥辺野の入口、六道の辻だった。
昼なお薄暗いこの場所は、生者と死者の境界が曖昧になると言われている場所である。普段は旅人や商人、あるいは葬送の列が通るばかりなのだが、この近くに住む農民一家が全滅したという記録があった。
「石仏の陰に、黒い靄みたいなものが見えます」
と星子がその場所を指さした。「昨日とはにおいからして、違います」
「これは、この世に未練を残して死んだ者が、あやかしになって、現生に戻ろうとしているのだろう」
不知火はその空気が一番よどんだ場所に近寄り、膝を折り、呪文を唱えて、印を結んだ。すると、石仏の後ろの苔が生えた地面から登っていた黒い煙が、網で絡め取られるようにひとつになって、上に昇ったかと思うと、ぱっと消えた。
その帰り道、東側に鴨川が見えると、不知火が逆の方向を向いた。
「別の道を歩こうか」
「私は、川沿いを歩きたいです。流れを見るのも好きですし、水の音が好きです。もうすぐ桜が咲いて、きれいでしょうね」
「私は好まない」
「川がですか。桜がですか」
彼は黙っている。
「水が恐ろしいのですか」
「いや。好まないのは、このあたりで、……母が身を投げたからです」
「お母さまは、入水なさったのですか。喉を突かれたのではないのですか、ノミで」
「いいや。どうして、そんなことを言うんだい」
「あの家で聞きました」
「剛人が言ったのかい」
「はい」
「おかしい。私は運ばれてきた母上を見ている。ずぶ濡れで」
「喉は」
「気がつかなかった。誰もそのことについては、語ってはいない」
「調べてみなくてはなりませんね」
屋敷の玄関で、不知火の足が止まった。
夜には、塩で身を清めて、夕食の前に、ゆっくりと風呂にはいる予定である。
不知火はいつも家の陰陽師たちと夕食を取り、星子の食事は部屋に運ばれる。
しかし、そのあとは自由なのである。
「今夜、あとで、来てくれますか」
「はい。でも、私、不知火さまのお部屋を知りません」
「そうなのかい。では、鏡を迎えに……。いや、私が行こう」
しかし、星子は下を向いたまま、動かない。
「だめですか」
星子が首を振ると、髪の毛がさらさらと揺れた。
「いいえ。そうではなくて」
「私……、」
「何でも言ってほしい」
「昨日は鳥辺野で、未練を残してあやかしになった人、今日は悲しみを抱いて亡くなった人のあやかしを封印しました。その人のことを思うと、ひとりでその方々のことを思い、喪に服して慎みたいと思うのです。せっかくお誘いいただいたのに、すみません」
「……言ってくれてありがとう。実は、私も似たようなことを思ってはいたのだけれど。でも、星子に大きなことを言った手前、一日伸ばしにしていては、小さな男だと思われるような気がして、それもいやだし、実は、途方にくれていたのだよ」
「どんなことがあっても、私はあなたが小さい男だなんて、思いませんから」
「ありがとう」
「では、こうしませんか。地図の赤丸の場所を全部封印したら、ふたりで、ゆっくりと、私が作った夕食を食べて、それから……、それから、お母さまのことも調べなくてはなりませんよね」
星子が恥ずかしいので口元を隠して、うつむいた。
「いいね。それがいい」
「わかりました」
ふたりは笑顔を交わした。
星子はうれしくて、ぴょんぴょんと跳ねたいように心境だった。不知火さまがこんなに楽しそうに笑ったのは、初めて。星子が笑うと、「笑うな」と叱った人なのに、実はこんなにすてきな笑顔を隠しもっているのだわ。
次の日は、都の北、鞍馬街道沿いの深い森の近くまで行った。ここは、古くからあやかしが棲むと言い伝えられる霊的な場所である。
星子が森へ足を踏み入れると、木々の隙間から差し込む光が奇妙に歪み、ひんやりとした、しかしどこか生々しい「気」が肌に感じられた。
「ここの空気は、今までの感じとは全く違います」
「これは、森の奥深くで長い眠りについていたあやかし達が目覚めの兆候なのだろう」
「人の世に、住み続けているあやかしもいるのですか」
「そうなのだ。とてもやっかいなあやかしだ」
不知火は森の大樹の前に立ち、天を仰いでから、呪術を始めた。
彼の両手から放たれた術は、森全体を覆うように、幾重にも重なる結界の幕を作りだした。それは、森の古木から放たれる霊気と共鳴し、目覚めかけた妖の力を鎮め、あの世へと帰し、現世へ戻ってくる道を永遠に閉ざした。
誰が伝えたのだろうか。賀茂不知火が、あやかしの道を次々と封印しているという噂が都中に流れ、それは内裏にまで伝わった。不知火らしてみれば、時明親王の病気のことを忘れたことはなかったのだが、もう少し確実な封印術を身につけてから、参内しようと思っていたのだった。
それが「急いで参内せよ」という勅が届いた。
不知火が勅書を読んでいる時、星子が隣に座った。
「明日は内裏に行くことになった。星子には、内裏のどこにあやかしの道があるのか、つきとめてほしい。疲れているだろうが、よろしく頼みます」
「私は大丈夫。不知火さまこそ、お疲れではないですか」
「疲れていると言っている場合ではないからね。でも、星子のおかげで、全封印のめどがついて、うれしいよ」
星子は不知火の肩に頭をのせた。彼はいやがるどころか、その頭を優しく撫でてくれた。こういう小さなことって、すごくうれしい。明日もがんばるぞ、という気持ちになる。




