16 忘れられなくても
不知火は提灯に火を入れ、星子と並んで安倍家の門の外に出た。月と星、そして提灯の明かりがあっても、闇は深い。
不知火が提灯を持つ手を伸ばして、星子の足元を照らした。けれど、北の奥にある賀茂家までは、まだ一時間以上はかかる。
石につまずいて星子がよろけた時、不知火が腕をぐっとつかんだので、膝を打たずに済んだ。
「なんとか、なりません?」
星子が不知火の顔を見上げて言った。
「えっ、何ですか?」
「不知火さまは陰陽師なのですから、空を飛べたりしませんか?」
「飛ぶことはできません。私は天狗ではありませんから」
「それは残念。では、不知火さま、あなたには何ができるのですか?」
「占いや呪術はできますが……とてもがっかりしたお顔をしていますね」
「私、今日は疲れたので、屋敷までぱっと連れて帰ってほしいの」
「わかります」
そう言って、不知火が手を差し出した。手を引いてくれるらしいと察して、星子はその手をしっかりと握った。思っていたよりも大きく、しっかりしている。
「しっかりした手ですね」
と、不知火の方が言った。
しまった。
自分の手がどうだったか忘れていた。星子は農作業をしていたため、手は鍛えられていて、がっしりしている。あわてて離そうとしたが、彼は手を放さなかった。
通りには、日除けのゴザがかけられた出店があった。足元には野菜くずが落ちているから、八百屋だったのだろう。
「あなたは庭で育てた野菜を売っていたのですよね」
「はい」
「大変でしたか?」
「朝、起きると、新しい芽が出ていたり、葉っぱが大きくなっていたり、そういうところは楽しいです。でも、荷物を運ぶのは大変です」
星子が荷物を背負う恰好をした。
「自分で運んだのですか。馬車ではなくて」
「うちは貧乏ですから、あ、ちょっと待って」
そう言ったところで、星子がふと足を止めて耳を澄ませた。
「何か聞こえますか?」
「コロコロ鳴いてる……あれはコオロギ」
「虫が好きなのですか?」
「大好きです。チキチキ鳴いてるのは、イナゴですね」
「虫の音はよいですよね」
「はい。とてもおいしいです」
「何と言いましたか」
「イナゴはぷりっとしていて、コオロギは甘くて、豆みたいな味がします」
「味?」
「おいしいんですよ。虫の音を聞くと、お腹が空いちゃいます」
「虫を食べるんですか」
「もちろんです。不知火さまは食べたことがないんですか?」
「……ないです」
「もったいない。カブトムシも食べられますよ。バリバリしてて噛み応えはありますけど、飲み込みにくいのが難点ですが」
ちょうどその時、星子がまた転びそうになり、また不知火の手に助けられた。
「足元に気をつけて。虫の話に夢中になってるからですよ」
「虫の音を聞くと、お腹が鳴るの」
星子は、自分の顔が熱くなるのを感じた。でも、夜の暗さが顔色を隠してくれるのは幸いだった。
「それに」
「それに。何ですか?」
「今日は誘拐されたりして、大変な一日だったので、疲れました」
「本当に、よく頑張りましたね」
「姫が誘拐される物語は何度か読んだことがあるけれど……ああいう姫はみんな、美しいもの。私とは全然、違います」
「……違いません」
「えっ? 何が違わないのですか?」
「……それほど、悪くはない、というか」
星子は驚きすぎて、今度は本当に転んでしまった。
「痛っ」
「大丈夫ですか?」
不知火がかがんで、星子の足を確かめた。
「私の足、折れました」
「折れていませんよ」
不知火が着物越しに、そっと膝を叩いた。
「折れました。もう一歩も歩けません」
不知火は少し困った顔をしたが、ふと何かを思いついたように片膝をつき、背を向けて言った。
「さあ、どうぞ。早く家に帰りましょう」
「よいのですか」
「あなたは、野菜を市場まで運んだのでしょう。私は男ですから、このくらいは、できます」
彼の背に星子が乗ると、不知火は静かに歩き出した。しばらくして、彼が立ち止まった。
「やはり無理ですか」
「いいや」
彼は星子を背負い直すように身体を揺らしながら、ぽつりと言った。
「私たちのように、不運な境遇に生まれた者は、結ばれてよいのでしょうか」
それが、星子の母・日子と、不知火の父の恋。そして不知火の母が日子を殺した過去を意味しているのだと、星子にはわかった。
「あなたは、何を心配しているのですか? 世間の声ですか?」
「いいや、世間のことではない。決して忘れられることではないのですから、こんな私たちでも、この先、うまくやっていけるのだろうかと、考えるのです」
「私も、どうすればよいかは、わからないけれど」
星子は彼のうなじに額を押し付けた。
「とにかく、うまくやっていきましょう。ねっ」
そう口にした途端、星子の喉から嗚咽がもれた。
でも、声を漏らさぬように必死に口元を押さえたが、その微かな震えは不知火にしっかりと伝わった。
彼は黙ったまま、彼女を支える腕にそっと力を込めた。




