15 星子の帰る場所
すでに深夜である。
闇の底から、虫の声が響いていた。
しかし、その時、虫の音が一斉に止まった。
安倍家の屋敷の門の前に、一人の男が立っていた。
鋭い瞳の男の姿が、月明かりに照らし出されている。腹を据えたような影は、刀に手をかけている。
「安倍剛人殿に会いに来た」
その声の主は、賀茂不知火だった。
声は静かだったが、ただならぬ殺気が滲み出ており、門に出た家人は震え上がると、すぐに屋敷の中へ案内した。
座敷の奥から、ゆっくりと剛人が現れた。
「不知火殿、来られましたか。ここを占いで見つけられたのですか?」
「星子を連れ去ったと家人が申していた。この都で、そんなことをするのは、おまえしかいない」
剛人は無理に微笑み、暑くもないのに扇子をせわしなく動かした。
「なるほど。だが私も、おまえが来ると思っていた」
「話は無用だ。星子を返しなさい」
剛人はその言葉に、顔をゆがめて笑った。
「もう、おまえの母親が、彼女の母を殺した話はした。どう思うか?」
不知火は一瞬、眉をひそめたが、すぐにその表情を消した。
「昔の話だ」
「昔の話、か。他人のことならいずれは忘れもするだろうが、肉親の話はそうはいかない。とくに敬愛していた母のことなら、なおさらだ。おまえの憎しみや悲しみは、決して消えるはずがない」
「おまえが決めるな。おまえには関係ない」
「では、殺された側の気持ちは、どうなのだろうな」
「それも、おまえには関係ない」
剛人は、その意味深な微笑をさらに深めた。
「では、星子さまに決めていただきましょう。ここに残るか、おまえのもとへ帰るか。この世の中に、母を殺した女の息子のもとに、帰りたい娘がいるものだろうか」
その時、部屋の奥から星子が姿を現した。
「星子さま、お休みではなかったのですか。今、呼びに伺おうと思っていたところです」
星子の瞳がきらきらしている。
「私は、不知火さまのところに帰ります」
星子が剛人を睨みつけながら、はっきりと告げた。
「星子さま、この不知火という男が、どういうつもりであなたを迎えに来たのか、分かっておられるのですか? あなたのことなど愛してはいない。それに引き換え、私はあんな恥知らずなことをしても、あなたをお救いしたかったのです。どうぞ、この気持ちをわかってください」
星子は剛人をまっすぐに見据えていた。
「不知火という男は、あやかしを鎮めるまで、あなたを利用しているだけなのです。そう申しあげたでしょう」
「私、利用されても、かまわないのです。それで、人を救えるのでしたら」
「それなら、安倍家におられても、同じこと。こちらのほうが、敬意をもって対応させていただきますと申しております」
「でも、ひとつ、大きな違いがあります」
「違い?それは何ですか」
「ここには不知火さまがおられないことです」
「星子さまは、何を言っているのですか」
「他人の心はわかりません。剛人さま、あなたの心だって、どこまでが真意なのか、さっぱりわかりません」
「どういう意味ですか」
「不知火さまが私のことをどう思っているのかは分かりません。でも、これだけははっきりしています。初めてお見かけした時から、私は不知火さまが好きなのです。人の心は分からなくても、自分の心は、分かりますから」
剛人はしばらく黙っていたが、やがて肩の力を抜くように笑った。
「愚かな女だな。母親に似ているのだろう」
「言葉に気をつけろ」
と不知火が刀に手をかけた。
星子は急いで不知火の前に出た。
「これで、わかりました」
「なにがわかったというのだ」
「不知火さまを怒らせて、騒ぎを起こさせ、失った仕事を取り戻そうという計画だということがわかりました。その手には乗りません」
星子が不知火のそばに歩み寄った。
「不知火さま、早く、連れて帰ってください。明日も大事なお仕事がありますから」
うん、そうだな、と不知火が頷いた。




