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11 待っているのに

 外はすっかり暮れ、庭の草むらからは虫たちの合唱が響いていた。 鈴虫、コオロギ、クサキリの声が入り混じりながら続く音の波に、星子はそっと耳を澄ませていた。


 虫たちは何を想い、こんなにも賑やかに歌うのだろう。

 いつか、不知火さまと、そんなふうに話がしてみたい。

 そう願いながら、星子はひとり寝殿の寝具に身を横たえていた。


 けれど、今夜は、なかなか寝つけない。不知火さまはもう、眠ってしまったのだろうか。彼はこういう仕事には慣れているから、きっともう熟睡されていることだろう。


 星子の脳裏に、昼間の会話がふとよみがえった。


「夫婦なのだから、秘密はなしだ」

「そんなこと、いつ約束しましたか? 私たちは契約結婚で、本当の夫婦ではないのでしょう」

「契約結婚でも、夫婦は夫婦だよ」

「まだ、同じ布団に寝たことだってないのに」


 あのとき彼は、「寝たいのかい?」と問い、星子は反射的に「夫婦なら、当然じゃないですか」と言ってしまった。 思い返すだけで、頬が熱くなる。


 あの時、彼は「わかった」と答えたはず。

 彼はまじめな人だから、もしかして、その約束を守ろうとして、今夜やってくるのかもしれない。その可能性は、大。

 大変だ。


 星子は慌てて身を起こし、這うようにして鏡台の前に向かう。月明かりを頼りに寝間着の襟元を整え、櫛で髪を梳き、紅の瓶をそっと取り出した。 鏡に映る自分と視線が合ったとたん、なぜか気恥ずかしさが込み上げる。けれど、それでも唇に、ほんのりと紅をのせた。

 深呼吸もして、心の準備もできた。さあ、よいですよ。

 

 それなのに、不知火は一向に現れない。 やっぱり来るはずがなかったのだ。

  最初に言われたあの言葉が、星子の胸に冷たく蘇る。


「この婚礼は、心を交わすものではない」

 そうだった。

 だから、もう眠ろう。明日も、大事な一日が待っているのだから。


 その頃、不知火は月光のように艶めく白銀の絹寝衣を身にまとい、香を焚いていた。 白磁の香炉にくゆる沈香の匂いは、木々のぬくもりにかすかな甘さを溶かし、静かに部屋を満たしていった。


 この匂いを、星子は、好むだろうか。

 彼もまた、昼の会話を忘れてはいなかった。それどころか、何度も思い返していた。


 彼は準備を整えて、女房に星子を呼びに行かせた。

 しばらくすると、女房が肩をすくめて戻ってきた。


「だめでございました」

 女房が両手をぱっと広げて見せた。

「このように大の字で、豪快な寝相でございまして……。いくら呼びかけても、起きられる様子がございません」


「ああ、そうか。それならいい」

  不知火がふっと目を伏せた。

「明日の予定について少し話すつもりだった。明日、直接伝えることにしよう」


「かしこまりました」

 女房が引き下がろうとした時、彼がふいに呼び止めた。


「鏡、このことは、星子には伝えなくてよろしい」

 そう言いながら、不知火は香炉の蓋を閉じた。「たいしたことではないのだから」 




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