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9 七條市場へ行きたくない理由

岩割りの挑戦に敗れた安倍剛人は、約束に従い一枚の地図を差し出した。それは京都の町の地図で、病気が集中的に発生している場所に赤い丸が記されていた。


  それらは、神社や寺院を避けるようにして、荒れた路地、古い屋敷の跡地、墓地や葬儀場の近く、橋の下、そして市場など、百二十三か所に及んでいた。


「ここがあやかしが出たという場所なのですね」

「そうだ」

「荒れた場所にあやかしが出るのはわかりますが、どうして市場なのでしょうか。あやかしも、人と同じで、たくさんの人が集まる活気がある場所が好きなのかしら」

  星子が不思議そうに呟いた。


「それはない」

「そうですよね」

「それは、人の欲望、怒り、執着が渦巻く場所だからだろう」

  不知火の答えに、星子は感心して「なるほど」と小さくうなずいた。不知火は考えが深い。


「では、この赤丸の場所へ行ってみよう。まずは七条市場だ」

「ええっ、七条市場ですか」

  星子が声を濁らせた。「あのう、三条市場のほうがよくないですか。内裏に近いですし、大きいですよ」


「七条の方に赤い点が多いだろう。七条だと、何か困ることでもあるのかい?」

「そういうわけでは、ないのですが」


 ふたりが七条市場に入ると、道端の屋台から湯気が立ちのぼり、焼き魚や煮物の香りが漂ってきた。 人々の活気あふれる声が飛び交い、木箱に詰められた野菜がいくつも積み上げられていた。


「不知火さまは、ここは初めてですか」

「そうだ。星子は」

「……はい、私も」


 星子は顔を伏せたまま歩いていたが、すぐに声をかけられた。

「おい、星子ちゃんじゃないか」


 思わず肩をすくめる星子に、不知火が尋ねた。

「知っているのかい?」

「ああ、そうでした、ここには夕食の買い物に来たことがありました。行きましょう。赤丸の場所はどこですか」


 星子は足早に通り過ぎようとしたが、煮物を作っていたおばさんがにっこり笑って、竹串に刺したおでんを差し出した。

「星ちゃん、久しぶりだね。元気にしていたのかい」


「ありがとうございます。でも、あのう、今日はいいです」

「どうしたのさ、これ、大好物じゃないか。最近、見かけなかったけど、もう店は出さないのかい?大根が不作かい」

「あの、すみません……」

 星子は申し訳なさそうに串を受け取って、歩を進めた。


「店は出さない、とは?」

  不知火が歩調を合わせながら、訝しげな顔をした。

「だから、七条市場はいやだって言ったのに」

「あなたは何かを隠していますね」

「そんなことは……ありません」


「夫婦なのだから、秘密はなしだ」

「そんな約束、いつしましたか? 私たちは契約結婚で、本当の夫婦ではないと、あなたが言ったのではないですか」


「契約結婚でも、夫婦は夫婦だよ」

「まだ、同じ布団で寝たことだってないのに」

  星子が頬を膨らませると、不知火は無表情のまま言った。

「寝たいのかい?」

「えっ。今、何て言われました?」

「私が、何か言ったか」

 不知火は自分が不用意に言ってしまったことに気がついて、動揺しているようだった。


「言いました。でも、そんなこと、夫婦なら、当然じゃないですか」

「なにが」

「もういいですから」

「わかったよ。じゃあ、まず秘密を話して」


 この人は何がわかったというのだろうか。

「私、ここで店を出していたんです」

「いつ?」

「かなり前からです」

「なぜ?」

「うちは貧乏で……、没落貴族なので、お金がないんです。だから庭で野菜を育てて、ここで売っていました」


 不知火が、突然声をあげて笑った。


「そんなに笑うことですか? あなたは笑ってはいけないと言いましたよね。自分は笑ってよいのですか」

「私は笑ってはいない」

「笑っていました」

「ただ呆れていただけだ」


「どうして」

「貴族の娘が市場で野菜を売るなんて、聞いたことがない」

「仕方ないでしょ。それしか生きる方法がなかったのですから」

「よその年頃の娘みたいに、屋敷に貴公子が訪ねて来たりしなかったのかい?」 「うちのボロ屋を見たら、誰も来ませんよ。たいていの場合、妻側に住むことになるから、父親に財がないと駄目みたいです」

「そうなのか」


「あー、でも」

「何かあったのか」

「思い出しました。貴公子から、和歌をもらったことがありました」


「いつのことだ? それで?」

「そんなこと、もういいではないですか。不知火さまは、誰かに歌を送ったり、通ったりしたことはありますか?」

「もちろん、あるに決まっている」

「何度くらい?」

「二十八回」


「それ、嘘ですね」

「なぜわかるのだ?」

「その数って、不知火さまの年齢ですよね。そういうことは、性格的に、無理かと」

「失礼な」

  不知火が足元の小石を軽く蹴った。


 星子が、背後から飛び立った烏の姿を追いながら立ち止まり、目を閉じた。


「あらっ、このあたり、感じます」

「何を?」

「妖気みたいなもの。ひんやりしていて。なんだか、微妙な感覚がしませんか」

  そう言って、星子は市場の裏手へと向かって行った。





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