第02話 謁見
「恐れながら申し上げます――」
静寂を裂くように、ふすまの向こう、廊下の奥から凛の声がかかった。
それに呼応するように、上段の間――その上手側のふすまが、音もなく引かれる。
「御座所より、美鶴御前様、お渡りあそばされます」
現れたのは、二〇代後半と見える和服の女性。
纏う五衣はまるで十二単のように裾を引きずり、白く結われた髪は、白髪ではなく、あたかも白金を束ねたかのように淡く輝いていた。
その瞼は閉じられたままであり――目が見えぬゆえか、それとも。
女性は上段の間の最奥、中央の座へと進み、静かに身を沈めた。
所作には一片の乱れもない。
一拍の静寂ののち、彼女は口を開く。
「……美鶴である」
その声音は、柔らかくも決して揺らがず、静かに場を支配する力を秘めていた。
まるで、その名が空気に沁み込むように、場に沈黙が落ちた。
次の瞬間、流一郎と宵子、そして後方の巫女たちが一斉に、恭しく頭を垂れる。
宵子は、一目見て、美鶴御前と姫野先生がどこか似ているような気がした。雰囲気でも声でもなく、もっと奥にある何か――人の底に流れる何かが、同じ色をしているように思えた。
宵子がそんな空想にふけっているうちに、美鶴御前の言葉はもう始まっていた。宵子は悟られないようにあわてて居住まいを正す。その一連の仕草を、美鶴御前の脇に控えた凜がまっすぐに見ていた。
「さて、風月丸よ。ここ数日の間、わしはお前の剣戟を遠くから見せてもらった。特に、鬼化していたとはいえ三流麒族ごときに手こずった挙げ句、真那霞姫の助力を得るとは――まこと、冴えぬ戦いぶりじゃな」
「学園に現れた白磁の鬼は、ただの三流麒族じゃなかった。文化街のディスコでは惹麒空間を展開するパワーを持っていたし、あれなら二流に分類してもいいくらいだ。そもそも今回の件は、封印された餓鸞童子の力が復活しつつあるせいじゃないのか? 金属バットにだって限界はある。倒せただけでも儲けものだった」
「餓鸞童子か……その点については、いささか興味深い結果がコンピュータ・シミュレーションで出ておる。凛よ、シミュレーション結果のプリントアウトを皆に」
「かしこまりました」
美鶴御前のすぐ脇に控えていた凜が、紙束を手にして静かに下段の間へと下りてきた。彼女が配った紙には、プリンタで印刷された舞鶴市の地図が描かれていた。その各所に赤い点がいくつも記され、それらの点と点を結ぶ線が描き加えられていた。
「この地図は、風月丸が祀った亡霊人たちの座標を示しておる。すべて合わせると四十八柱。餓鸞童子由来と思われる亡霊人を、お前はこれだけ相手にしてきたことになる――」
美鶴御前はそう言いながら、瞼を閉じたまま、指先で地図に描かれたいくつもの線を指し示した。
「ここに描かれておるとおり、点と点をある法則に従って結ぶと、一つの紋様が浮かび上がる。どうじゃ、何か気付きはせぬか?」
「……これは、魔方陣か」
流一郎がそうつぶやくのを聞いて、宵子もあらためて渡された地図を見た。確かに点と点を結んだ線が多数描かれているが、宵子には、あくまでランダムに書き殴った落書きのようにしか見えない。これを「意味のある魔方陣」と言い切るのは、どうにも乱暴な気もするのだが、流一郎たちのようなプロの目から見れば、一目瞭然なのかもしれない。
「点と点を結ぶシミュレーションは、六五五三六パターン実行致しました。そのうち、魔方陣と断定出来たのは、今みなさんがお手持ちの一パターンのみでございます」と凛が補足する。
「問題は何をするための魔方陣か、だな」流一郎は地図から視線を外さずにそう言った――言いながら、すでに確信を深めているようでもある。
「風月丸よ」と美鶴御前。
「はい」
「お前は、先ほど餓鸞童子の力が復活しつつある可能性を示唆したな。その根拠は何じゃ? 亡霊人だけでなく三流麒族まで徘徊を始めたゆえか?」
「そのとおり。餓鸞童子は、先代の――第三十七代風月丸の呪縛から解き放たれようとしている」
「何か裏付けでもあるのか? 申してみよ」
「いや……俺の勘でしかない。ただ、餓鸞童子の墓標を毎晩見ていれば気付くこともある」
「ふむ。それは信じよう。お前もまた風月丸なのだから」
そう言われて、流一郎は腕組みして考え始めた。しばらく目を閉じたまま、深く思索にふける。
「さて――」と美鶴御前が話を進める。
「餓鸞童子は、またの名を八十八鬼とも言う。八八柱の亡霊人を使役出来ることから付けられた二つ名じゃ。今までに使役し、風月丸に割られた亡霊人が四八柱であれば、残るは四〇柱」
流一郎はゆっくりと目を開け、静かな視線を美鶴御前に向ける。
「じゃあ、その四〇柱を使って、奴はこの魔方陣を完成させようというんだな……だが何のために?」
「それを今、汎用コンピュータ『天穂日』を使って演算させておるところじゃ。あと数日で、候補とされる魔方陣を割り出すことが出来る手筈――じゃが、おそらくは……」
「餓鸞童子自身の復活か……」
「そういうことになろうの。その日に対抗するため、全国を行脚しておる渡殺者たちに招集をかけておる。来週中には皆がこの舞鶴市に帰還することじゃろう」
「あの、すみません……渡殺者って何ですか?」
まるで授業中のように、宵子が手を挙げて質問を投げかけた。これには凛が答える。
「風月丸様のように、天下に巣くう悪しきものを征伐する腕利きたちのことですわ」
つまり、金属バットで亡霊人を割るような者たちが、日本国内にはたくさんいるということだ。死ノ儀流一郎を唯一無二の存在だと思っていた宵子は、少し複雑な気持ちになった。
「美鶴御前――」今度は流一郎が口を開く番だ。
「なんじゃ、風月丸」
「俺にあの部屋の鬼包丁を抜かせてくれ」
「ならぬ」
「どうして!?」
「あれは先代――第三十七代の得物。お前にはお前の鬼包丁があるはずじゃ」
「しかし、それはまだ……」
そう言うと、なぜか宵子を見やる流一郎。
宵子は「???」と、頭上にクエスチョンマークを浮かべることしか出来ない。それはそうだろう。時女宵子自身は有り体に言って、何の特技も持たない平凡な女子高生なのだから。そもそもが、こんな場所にいること自体、何かの間違いなのだ。
だが美鶴御前が次に名指ししたのは、他の誰でもない、宵子だった。
「さて、時女の娘よ――」
「は……はい!」
「――お前はなぜこの町に来た?」
もっともな質問だ。姫野先生もそれを疑問視していた。
だが今の宵子なら、明確に答えることが出来る。
「父と母の最期が、本当はどのようなものだったのか知りたいからです」
「知ってどうする」
「分かりません。それは真実を知ってから考えようと思います」
「自ら飛び込むか、この混沌に――じゃが、時女の娘よ……知った以上は引き下がれぬ線もあるぞ。すでにお前も身に染みておろう。この舞鶴は、魑魅魍魎がうごめくところ。深く関われば命の保証はない」
「……それでも、構いません」
宵子の意思は堅かった。単なるやけっぱちだとも言えた。もとより彼女にはもう何も残されてはいないのだ。今さら、人並みの青春を謳歌する気持ちにはなれないし、無理をしたところでどこかで歪みを生むのは目に見えている。彼女にとって、両親の死の真相を知ることだけが、生きる「よすが」なのだろう。
美鶴御前が流一郎のほうに向き直る。
「風月丸」
「はい」
「時女宵子をお前の従者とする。一時も離さず、これを使役せよ」
「えっ!?」と最初に言葉を発したのは橘凛だった。流一郎もそれに続く。
「ちょっと待ってくれ。俺に従者なんていらない。そもそも渡殺者は、全員がスタンドプレーをするために生きてるようなものだ。何の理由があって時女宵子を――いや、そもそも何をさせるために同道するんだ」
「古今東西、従者を連れた渡殺者がいなかったわけではない。むしろその方が多数派じゃ。それに風月丸よ、お前はいつまで金属バットで亡霊人を割り続けるつもりじゃ? そんなものは児戯に等しい。一人前の渡殺者と名乗りたくば、麒族どもを次々に割って見せよ」
「だから、そのためにあの部屋の鬼包丁を抜かせて欲しいと言っている」
「堂々巡りで要領を得んな――お前にはお前のための鬼包丁がある。それをこの世界に誕生させぬ限り、渡殺者として名を馳せることはないぞ。そのためには時女宵子の力を抜きにして語ることは出来ぬ。悟るのじゃ、風月丸」
「あの、ちょっと待ってください」
ここでようやく宵子が口を開いた。
「私には、話が全然見えません。どうして私が死ノ儀くん……いえ、風月丸さんのお供をすることになるんですか? 亡霊人との戦いは何度か見せていただきましたけれど、私にお手伝いが出来るようなこととは思えません――たまたま、椅子を使って不意打ちは出来ましたけど、それはビギナーズラックだったって――いえ、あの、私の望みは両親の死の真相を知ることなんです。それが済んだら、私はこの街を出て行きますから」
誰も気付かなかったが、そこで橘凛の眉根がぴくりと動いた。
美鶴御前は問答を続ける。
「そのためにも従者をせよと言っておる。それが一番の近道だからじゃ」
「近道……?」
「風月丸よ、時女の娘よ、お前たち二人の願いは表裏一体なのじゃ。どちらか一方の願いが叶うとき、もう片方の願いも成就する。そのために主従の契りを交わすのじゃ」
「美鶴御前、あんた何か知っているのか?」
「何を今さらよ、風月丸。わしの目が見えぬことはとうに知っておろう。わしには何も見えぬ。お前たちがそれを見つめ、そして見定めるのじゃ」
そう言うと美鶴御前は静かに立ち上がった。
「此度の謁見はここまでとする――」
美鶴御前が静かにそう告げると、その声は微かな余韻を残し、室内の空気を一変させた。まるで彼女の言葉そのものが、部屋の空間を支配するかのように。
厳かに立ち上がり、優雅に一歩を踏み出す。その足元で、裾を引く衣が波のように揺れ、微かに音を立てる。その所作の一つ一つが、まるで時間が止まったかのように感じられるほど、威厳と品位に満ちていた。
そして、彼女はゆっくりと上手のふすまへと歩みを進める。その歩みが、まるで穏やかな風のように、周囲の空気を静かに変えていく。
ふすまが滑らかに閉じられると、室内に残された者たちの間に、深い静寂が流れた。誰もがその瞬間を胸の内で反芻するように、安堵の息を漏らす。美鶴御前が去った後も、しばしその存在が空気に漂っているような気配が、誰の心にも残った――。
風月丸と宵子は、互いに視線を交わした。言葉にはせずとも、その眼差しにはそれぞれの思いが宿っている。だがその様子を見つめる凛の視線は冷ややかだった。それはまるで、嵐の前の海のように不穏で、感情を押し殺したものだった。




