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第九帖:百舌鳥の黄揚羽

 旅とは、非日常を楽しむための時間だ。例えば、遊園地にしても、寺巡りにしても、普段にはない喧騒や静謐さを求めて、特別な時間を過ごすのだろう。

 とはいえ、そこに日常性がさし挟まることは、それはそれで楽しいことであるし、「それ自体」が、日常性を持つようになって初めて、それは旅ではない何かになる。日常の、景色の中に溶け込んだ旅の奥深さは、なんと形容すればいいだろうか。


 からりと晴れた夏の空の下にある、三国ヶ丘駅降り立った。旅のきっかけは軽率な思いつきで、特筆すべきものもない。ただ、そこに思い至るには、おそらく僅かながら縁と言えるものがあったためであろう。

 特別なことではなく、兄弟の伴侶の趣味を耳にする機会があり、そのことが頭の片隅にあったので、ここに行こうか、ということになった。


 駅を出ると早速現れる看板に、旅の目的地を堂々と描かれている。駅のそばにある急カーブの河川も、それと関わるものだろうかと勘繰ってしまう。


目的地への道を確認して、駅から出発する。喫茶店の裏手にある色の異なる街路を曲がると、まさにその曲がり角、住宅街のすぐそばに、小高い丘のようなものが見えてくる。

 『源右衛門山古墳』。生い茂る木々の下にある円墳は、今となっては景色の中の一つ、丘のようなものになっている。青空の下に鳴く蝉の声がこだまし、今は昔にあった人の営みは自然の中にすっかり溶け込んでいた。


フェンスで囲まれた古墳を目印に角を曲がり、進んでいくと、道の脇に大きな川のようなものが見えてくる。フェンス越しにその川の向こうへと視線を動かせば、ある種「異様な」島のようなものが見えた。生い茂る緑の数は遥かに多く、目にも麗しく、葉擦れの音は耳にも優しい。

 深緑の水面を囲う鉄製のフェンスは、そこに何か「特別なものがある」ことを教えてくれている。フェンスの中を背伸びをしたり、あるいは目を凝らしたりして覗き込む。自分でも信じられないことだが、案内板を見る前に、私はそれが旅の目的地であることを即座に理解したし、目的地には確かにそれだけの凄まじい存在感があった。


 どれだけ歩いたか、おそらく10分か20分ほどで、長い長いフェンスの曲がり角へと至る。そこに至ってようやく、目的地の拝所が視認できるようになってくる。


大仙(仁徳陵)古墳。大阪は堺市にある、巨大な前方後円墳である。源右衛門山古墳はその陪塚で、この強大な天皇の陵墓に纏わる物や人のために作られたとされる。

 ほとんど島と形容してよい古墳の全貌を見ることは容易ではない。それだけに、拝所から眺める陵墓の壮大さには圧倒される。自然と頭を下げずにはいられないその威容に、当時の朝廷の強大さを感じずにはいられない。

 権威を示すための墓所というと、我々の世代にとってはあまりピンとこないものであるが、後世まで語り継がれるこうした墳墓を前にすると、さすがに納得せざるを得ない。


さて、参拝の後、やはり古墳の全容は見てみたいと思うのだが、それにちょうどよい建物というととても少ない。そこで、大仙古墳のほぼ向かいにある、ビジターセンターに向かった。入館すると大仙古墳とその陪塚を含めた百舌鳥・古市古墳群の概要を伝える展示、さらに建物の奥に土産物屋が併設されている。展示自体は簡素に纏まっているものの、なにぶん紹介するもののスケールがとてつもなく大きい。古墳群の立体地図一つの展示でも一望するのが難しい大きさで、シンプルではあるが非常に味のある施設に思える。

 また、映像展示として、上空から古墳群を眺めた展示があり、これのおかげで天皇陵を擬似的に一望する事が叶った。ありがとうビジターセンター。


 さて、堺市の歴史は非常に古く、そのはじめての記述は平安時代ごろにまで遡る。さらに古くは窯がある土器の名産地だったのだが、平安時代には一度廃れ、その後交易の中心地として反映していくこととなる。天皇陵でさえ、海原を臨むように建てられており、古くから拠点の一つとして繁栄したのであろう。


そんな堺市の歴史を伝える堺市博物館は、大仙古墳のちょうど向かい側、大仙公園内にある。

博物館へと向かうために公園を散策するのだが、この公園がなかなか凄まじい。というのも、普通に歩いているだけで、大仙古墳の陪塚(ばいちょう)(つまり、大きな古墳の周りに建てられた副葬品や関係者を埋葬する古墳のこと)があちこちに散見されるのである。

 もはやどれがどこにあったどの名前の古墳かも判然としないレベルでゴロゴロと古墳があるので、寄り道が止まらない。恐らく1時間ほど公園内をうろうろと徘徊して回った後、ようやく堺市博物館へと入館する。


 入館料は極めて安く、少し驚くほどだったが、中の展示はかなり見応えがある。堺市の歴史を年代ごとに追っていくのだが、出土した土器の展示から、百舌鳥古墳群出土品の展示が続くので、この時点ですでに入館料以上の見応えがある。

 また、私はスタッフの方に面白い解説を頂くこともでき、大変有意義な時間を過ごした。

 展示品の中でも独特な雰囲気を醸し出すのが、古代の蒸し器である甑である。恐らく元は大陸からの伝来品で、これに伴って日本に「蒸す」という調理法が伝わり、それが私たちの食文化に大きな影響を与えたのだという。

 そう、「蒸す」事が可能になって、米を「炊く」事が可能になったのである。大きなというよりも、ない事が考えられないレベルでの影響と言っていいだろう。ほぼ日本の心なのだから。


 さて、それに続き、古墳群の出土品の展示、中世の堺市の発展、さらに近代化に向かう展示を見た後、新たな出土品の展示を記念した特別展へと続く。

 再発見された副葬品は、金銅装刀子。甲冑の一部と目される鉄片とともに発見された。金銅板と銀鋲で木製の鞘に加を施された、鉄製の刀子である。明治時代に仁徳天皇陵から出土し、柏木貨一郎による発掘の記録があったものの、その後何らかの理由で柏木と親交のある益田孝にその他の収集品と共に寄贈されたものと考えられるそうだ。


 当の刀子と甲冑片についてだが、非常に小さいものだった。丁寧にメモ書きされた用紙に包装されており、その包装を見ると、決して蔑ろにされていたわけではなく、人為的なミスで混同してしまったのだろうと分かる。

 5世紀ごろの刀子については、通常は鞘が革製で作られる事が多いそうで、その点でこの刀子は特異な構造をしている。甲冑片などの装飾も合わせると、元から副葬品のために作られたものだということのようだ。なるほどそう思ってみれば金銀を用いた構造は明らかに豪華であるし、それに見合う価値があるように見える。


 さて、特別展はこの刀子にちなんで、金に纏わる宝物を集めた展示で、古来から人類を魅了してきた金と、その高級感をさらに高める黒のコントラストを楽しむものとなっていた。展示物の時代や種類はさまざまで、刀子をはじめとした古代から、漢詩や経典などの書物、中世の甲冑、茶器、絵画など、さまざまな美術品を取り扱っていた。目に見るには非常に美しい品々で、やはり螺鈿は一等美しいものに感じられた。


 堺市博物館を後にし、大仙公園から外れた百舌鳥古墳群を散策する。

 公園を出てすぐにある、巨大な堀に近づく前に、陪塚の七観音古墳、復元七観山古墳を観覧する。

 私の故郷にも小さな古墳があるのだが、それは小高い丘のようであるのに対して、公園の隅にある七観音古墳は、緑豊かななだらかな勾配のある、美しい古墳である。ツツジの木が植えられた整った形状は、見るものの心を不思議と穏やかにする。

 発掘調査によれば、どうやら外周に堀のない陪塚であったらしく、公園内にある帆立貝型前方後円墳である竜佐山古墳(周囲の大古墳と比べれば小さいが、堀もあり、洗練された形の古墳だ)や、孫太夫山古墳(副葬品や埴輪の形状から、大仙古墳とかなり近い時期に作られたようだ)などと異なり古墳然とした雰囲気は少ない。しかし、ツツジを植えたなだらかな形状はやはり優美で、どこか公園の構造物のように見える。


 さて、七観音古墳から横断歩道を渡って、すぐにあるのが、伝履中天皇陵ミサンザイ古墳。伝と表記したところから分かる通り、調査の結果仁徳天皇陵より古くから存在する古墳であると考えられるらしい。履中天皇は仁徳天皇の子であるため、矛盾が生じる。宮内庁が履中天皇陵と推定しているのは、古記録(『延喜式』第二十一巻「諸陵式」、905年)の記録による。

 そういうわけで、巨大極まりない古墳のすぐ隣にあるこれまた巨大な島のような古墳を横から拝見したのであるが、堀には藻が湧き、森のように木々が生い茂り、やはり全容を捉えることはできない。その悠然たる佇まいは、はるかな歴史の重みを感じさせる。


 ここで私のよくない癖で、(育ちは良くないのだが)やはり相手には礼を尽くしたいという義務感から、拝所へ向かって拝みたいと拝所を探したのであるが、何とこの一からちょうど向かい側あたりにあり、入り組んだ狭い街路の住宅街を彷徨うこととなった。

 住宅街の家屋は、地価が高いためか私の故郷よりもいくらか細長い感じがある。また、建物の間の間隔も少し狭く感じた。田舎者の私には些か散策難易度が高い。

 建物群がぐるりと外堀を囲むように建つため、盗掘の難易度は非常に高そうではある。

 と、いうのも、江戸時代に後円部に大きな溝があったと記録があり、盗掘が行われた形跡があるのだという。

 これほどの規模の古墳だ、さぞ貴重な品々があったことだろう。そう思えば歴史的にも惜しい気持ちもあるのだが、何より盗掘という行為によって形状が変わることそれ自体が、遺産の破壊であるという事が恨めしい。なにより天皇陵と伝わっているのだから、重ねて罪深いものである。


 さて、歩く事こと20分ほど、ようやく見えてきた拝所は、まさに道路から住宅街を削り取るように道を伸ばしていた。仁徳天皇陵同様に、水で手を濯ぎ、大きな鳥居の前に立つと、その大きさに圧倒される。外堀の中に横たわる古墳は永遠の時の中で目覚めを待つかのようであり、それが自然の一部として、住宅街の中に堂々と在る。この言いようのない壮大さこそが、古代の歴史のロマンであり、また、陵墓が現代に伝えようとした威容でもある。


 散策にはちょうど良い爽やかな青空の中を、再び古墳を求めて歩く。

 そんな中、狭い路地が開け、小さな神社が脇に立つ、大きな古墳が視界に現れる。広い外堀の中に綺麗な水が流れるこの古墳は、御廟山古墳である。御廟山古墳は百舌鳥古墳群の中で四番目の大きさを誇る、巨大な前方後円墳である。私が訪問された時には優雅に飛び、川面に佇むカワウの姿があった。長い時間の中で、古墳群は緑の命を育み、そこに様々な生態系を形成していっただろう。今目前にある数羽のカワウの姿も、外堀の中に魚や、藻や、昆虫などを育んできたことを物語っている。ちょうど陵墓の建造に当たって、当時の人々の営みがあったように。


古墳巡りの最後を飾ったのは、百舌鳥古墳群のほぼ中央に存在する、いたすけ古墳である。

 いたすけ古墳は、5世紀前半に建造されたとされる前方後円墳である。貴重な国史跡であると同時に、文化財保全の観点でも重要な古墳である。

 いたすけ古墳は大きな突き出した、時代錯誤を感じる橋げたのようなものが見える古墳であるが、かつて堺市周辺の開発計画の一環で、土取り工事の現場として利用されようとした過去がある。多くの反対意見が出る中で、発掘調査の際に貴重な兜型埴輪が発掘された。これを受けて反対運動がさらに高まり、最終的にいたすけ古墳は現代的な橋げただけを残して、保全されることとなったのである。


 これは歴史的に重要な功績であり、文化財の価値を考えれば当然と言えば当然の帰結ではあるのだが、なかなか難しい問題もはらんでいる。


 かつてこの百舌鳥の地には、現存する古墳群のほかに、数多くの古墳群があったという。今は住宅街となったその下に、希少な古墳が、歴史の闇の中に消えていった。それは貴重な価値の喪失であると同時に、現代に諸行無常の思いを伝える一つの資料でもある。

 しかし、私達が踏む土の下には、数多くの史跡があったことは疑いないのである。開発と保全。この相反する活動の調整は、実際には非常に難しい。つまりは、文化財の保管場所をめぐって、どこまでを「保全」するのか、つまりは特別なものには特別なものの文化的たちが、一般普及した物には一般普及した物の文化的価値があるのだが、それを「どこまで」保全するべきなのか。これは答えの出ない問題である。

 例えば、文化財の保全のために使われる多くの資源。例えば、生活のために消費されるなんてことはない『チラシ』の文化的価値。かつて良質な銅瓶を作るために、古銭が用いられたことがある。かつて極寒の発掘調査の折に、薪と間違って使われた巻子がある。かつて堺市の発展のために、掘削された古墳群がある。


 今を生きる烏合の人々の快適性を保全することと、歴史の中で営まれた、雑多な文化財を保全すること。それらは全て、今の私達に突き付けられた課題なのである。


 突き出した橋げたをフェンス越しにじっと眺めていると、眩い太陽の下に、騒めく木々の緑が萌えている。私はしばらく青一色の空の下で風の音に耳を傾けた後、JR百舌鳥駅を目指して歩き出した。

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