64.キリヤの過去
「私がアクアランサーに選ばれた当時、それはもう嬉しくて嬉しくて仕方がなかったわ。百年に一度、選抜の儀式が海底神殿で開かれて、候補者が大勢神殿の広間に集められるの。そして、『選抜の目』の洗礼を受けて『神聖なる鍛冶場』へ通された者だけが、アクアランサーになることを許される。多くの人が脱落していく中、私もその洗礼を受けたわ。そうしたら、それまで固く閉ざされていた扉の鍵が解除されて、神聖なる鍜治場への道が開かれた。初めて扉が動いた時、私がアクアランサーに選ばれたんだって確信したわ。周りから大歓声が巻き起こって、その場に居た誰もが、私に向かって『おめでとう』と言ってくれた。……私の、アクアランサーとしての人生が始まった瞬間だったわ」
アッコロは、自らがアクアランサーに抜擢された過去を思い返しながら、深色たちに当時の様子を語って聞かせた。
「へぇ……あの変な目の付いた扉って、そんなに重要なことを決めるためにあったなんて、全然知らなかったよ。私が行った時には、普通にあっさり開いてくれたからさ」
「『神聖なる鍜治場』への扉は、百年に一度、しかも選ばれし者の前でしか開かれないのよ」
そう言って、アッコロは話を続ける。
「そうして私がアクアランサーに指名されてからは、まるで濁流に飲まれたように、あっという間に時が流れて行った。アテルリア王国の王都アステベルで、国王の居城であるロシュメイル城に呼ばれて、任命式が行われて、盛大なパレードが開かれて……そうして私は、アクアランサーとして、百年間王国を守る任に着いたの。老いと衰えを知らないこの体と、強大な力を与えてくれる黄金の槍で、王国に迫る脅威を幾度となく撃退してきたわ。他の海底国からの侵略や、テロの防止、害獣の駆除、各地で起こる紛争の鎮圧……」
そしてアッコロは、傍に居るヴィクターの方を見やる。
「そんな中、ヴィクターと出会ったのは、私がアクアランサーを務めて九十年目になる頃だった。その時彼は、地上の人間が造った潜水艦に乗っていて、事故に遭って危うく沈みかけていたの」
すると、隣に居たヴィクターも、アッコロに呼応するように答える。
「ああ、そうだったな。……あの頃は俺もまだ青二才で、当時アメリカ海軍の原子力潜水艦の艦長を任されていたんだ。あの時は、俺たちはとある任務で、危険な海溝の調査に当たっていた。電力供給の問題で一時レーダーとソナーが使えなくなり、その際不遇にも岩壁にぶつかって、船体に巨大な穴が空いた。海水が流れ込み、艦は浮上することなく沈んでいった。私も、乗り合わせていた乗組員たちも皆、死を覚悟していたよ。潜水艦が事故に遭って、乗組員が生き残ることなどまず有り得なかったからだ。奇跡でも起きない限りはな……」
そう言って、ヴィクターはアッコロへ目を向けた。
「彼女が居なければ、俺たちはとうに海の底に沈んでいただろう」
「私が、沈んでゆく潜水艦を海上まで引き揚げたのよ。全長百メートルもある船体を持ち上げるのは、一苦労だったけれどね」
アッコロによって窮地を救われたヴィクターは、この時初めて、海底人でありアクアランサーでもある彼女と出会った。最初、自分たちの救ったのがたった一人の少女であったことにヴィクターは驚いていたが、命の恩人である彼女を前に、彼は深く首を垂れ、これからは自分の命が果てるまで、彼女のもとで尽くしていこうと決心したという。
「けれど、私たち二人の間には、人種が違うという大きな一つの壁があった。私たち海底人は、基本陸地に住む地上人とは関わりを持たないよう、小さい頃から教育を受けさせられるの。――だから、地上人である彼を助けたのは、私たちにとっては禁忌の行いだったの。……だから、私とヴィクターの関係は、決して誰にも口外する訳にはいかなかった」
深色は話を聞いていて、まるで人魚姫でも読んでいるような気分になった。禁忌の恋をしてしまった男女が、海と陸という隔たりを克服してでも一緒になろうとする健気な二人をイメージして、深色は少ししんみりとした気持ちになる。
「――だけど、彼と出会ったおかげで、地上人が悪い人たちじゃないということがよく分かったわ。地上人は低俗で野蛮な者ばかりで、過去に幾度も戦争を繰り返してきた歴史があるのもそれが理由だって、私たちは教わってきたから……だから、私たちの所属する組織『アイギスの盾』は、地上人と海底人が混在しているの。かつてヴィクターの下で潜水艦に乗り込んでいた船員たちを筆頭に、地上人と交流を持ちたい海底人たちも仲間に加わって、今の『アイギスの盾』は成り立っている。事故に遭って沈みかけたヴィクターの潜水艦も、海底人の技術による改造が施されて、潜水速度と耐圧に優れた『モビィ・ディック』として生まれ変わったわ。それに――」
そこまで言って、アッコロは一呼吸置く。
「……結局、最終的には私も、ヴィクターに命を救われることになったから」
彼女は、思い出したくない記憶を脳裏に過らせてしまったようで、過去のトラウマから逃れるように目を伏せた。
「何か、あったの?」
深色の問い掛けに、アッコロは暫く答えられないでいたが、やがて話す決心をしたように顔を上げる。
「……アクアランサーとして、王国の守護を担って百年後……海の邪神クラーケンが百年の封印から復活して、海底に危機が訪れた。邪神を倒して再び封印させるため、私はたった一人でクラーケン討伐に出かけたわ。王都の民たちから盛大な歓迎を受けて。一人勇敢に邪神に立ち向かう姿を、アメル国王からも激賞されて。だから私は、クラーケンを倒して必ず王国を守ると誓って、希望を胸に王都を出発したわ」
「………でも、抱いていた希望は、すぐ絶望に塗り潰された」と、アッコロは言葉を続ける。
「私は負けたの。クラーケンを倒して王国を守ると誓いながら、情けないことにね」
「そんな………」
深色は驚愕のあまり目を丸くする。しかし、アッコロの話にはまだ続きがあった。
「―――いいえ、正確には負けたんじゃない。戦う前から敗北が決まっていたの。私がクラーケンと対峙して敗北することも、それ以前に、アクアランサーである私がクラーケン討伐に出掛けたことも……全ては、アメル国王によって仕組まれていた罠だったのよ」