うちの後宮の乱れがすごい!(下)
夜半の後宮を女の手を引いて駆ける。
随分と戯曲的だと思うが、足を止めれば殺されることは明確だった。後宮はいたる場所に篝火が焚かれ、夜でも明るい。防犯にはいいことかもしれないが自分が追われる身になるとこの灯りが憎たらしい。夜の暗闇に沈むこともできないのだ。
私は骸姫の手を引いたまま房と房の間の通路を直角に曲がり、ときには欄干を飛び越えた。
事情を知っているのか知らないのか。見回りをしている宦官が私たちに「何事か」とか「止まれ」と叫んでいたが、柳貴人と宦官長の息がかかっている可能性がある限り止まってやる理由はなかった。彼らをときに蹴り飛ばし、私はようやく目的の部屋を見つけた。
無駄に豪華な装飾をつけられた扉を力いっぱい引くと人がようやく一人通れるほどの隙間ができた。骸姫を先に部屋に押し込むと私も部屋に入って扉を閉めて大きな閂をおろした。息切れした身体が地面に崩れ落ちる。骸姫も同じらしく長い袖口を揺らして乱れた息を整えている。
「……さぁ、ここからは籠城よ」
「ろ、籠城ですか?」
骸姫は部屋をぐるりと見渡して嘆息した。
「宮正節度になると房も豪華なんですね。私の房なんて、あのとおり殺風景で拷問器具のほかはたまに死体があるし」
「ここは私の房じゃないわよ」
私が答えると骸姫が首をかしげる。その様子が大きな小動物じみていて可愛らしかった。
「えっ? じゃここは誰の?」
「……骸姫。扉の様子を見ていてね。私は今から準備をするから」
「皇帝陛下」
背後で骸姫が驚嘆をあげる。
私は部屋の奥にある衝立の後ろに向かうとこの動きにくい衣類を脱ぎ捨てた。動きやすいものを探していると衝立の向こう側で骸姫がなにかあうあう言おうとしているのが聞こえた。何か言いたいようだが言葉にまとまらないらしい。
「骸姫。友達だから教えてあげる。私には昔、兄がいたの」
「えっ、そうなんですか。蘇氏のお兄さんならなんというかその……かっこよかったでしょうね。蘇氏の骨格は美しいからそのお兄さんも」
褒めているのか解体することが前提なのか分からぬが、きっと褒めているのだろう。
「そうね、兄は面が良かったわ。そして、私も面が良かったわ。おかげでよく間違えられた。でも、母だけは私たちの区別がついていた。私はそれが嬉しかった」
語っているうちに扉の向こう側では人が集まってきているらしく、ざわざわと騒ぐ声と扉を叩く音が聞こえる。音が鳴るたびに骸姫が「ひっ」とか「わっ」と声をあげる。それでも私の話は聞いてくれているらしく「流石はお母さんですね」と返事をしてくれた。
だが、私はその言葉に「そうじゃないのよ」と答えずに続きだけを答えた。
「私たちが八歳になったとき流行り病で兄が死んだ。それはもうあっけなく。看病らしいこともできないまま、あっという間だった。それからよ」
「それから?」
「私が母の夢の果てになったのは」
そう。夢の果てだ。皇帝の一夜の愛を受けて後宮から追い出された女官の夢。いつの日か自分の息子が皇帝となり自分を蔑ろにしたものたちを見返してくれる。皇帝の母として煌びやかな後宮に戻る。それが彼女の夢だった。だから、母にとっての一番は常に兄だった。私と兄の区別がつくのは、兄しか見ていなかったからだ。
「夢の果て?」
私は動きやすい着物に着替えると、腰まで垂らしていた髪をまとめて冠の内側に押し込んだ。
「死んだのは私で、生きているのは兄。だから、私はあなたのような磨き抜かれた玉ではなく、紛い物。そう偽物。せっかく友達と言ってくれたのに偽物でごめんなさい。でも、あなたにだけは伝えておかないと」
私は衝立の奥から出ると、華美な寝台の枕元に置かれていた後宮に唯一、持ち込まれた宝剣を腰に刺した。部屋の隅に置かれた鏡に私、いや兄が写る。
「蘇氏……? とっても似合いますね」
「そう? ありがとう」
私が微笑むと骸姫は男装した私を褒めた。
「え、ええ。そう。きっと私のお役目からはあなたを許すわけにはいかないでしょうね。生者出さず。死者を騙るものを許さず。つまり偽りを許さず……」
薄っすらと骸姫の瞳が曇る。
私は先ほど来ていた衣の腰帯を骸姫に手渡す。彼女が役目に忠実であればこの帯で私を絞め殺すと良い。
「偽りを許さず……。蘇氏、あなたは私のなんですか?」
「……あなたは偽物の私からは眩しい友達よ」
一つの役目を遂行するために磨かれた本物。私には見れない夢だ。
「そ、そうですか。あ、え、なら蘇氏は本物ですね。だって私たちは友達なのですから」
「あなた、変な男に捕まると一気に不幸になるわよ。気をつけなさい」
「え、そんなことありませんよ。だ、大丈夫です」
ひどく目を左右に動かしながら骸姫が反論する。
「そうかなぁ、心配だわ」
そんなことを言っていると扉が激しく揺れた。どうやら、扉を打ち壊すことにしたのだろう。後宮に破城槌など置いてはないのでどこかの柱でも倒したのかもしれない。骸姫の手を引いて私の後ろに隠して、扉に向き合う。
木がきしむ音と飾りが砕けて地面にぶつかる細かな金属音が十数度して、閂を支えていた金具が弾けとんだ。どっと宦官が十数名が柱と共に部屋に押し入ってきた。その背後には宦官長と柳貴人が立っている。
「余の寝所に押し込むとは謀反だとは考えなかったのか?」
私が言うと宦官たちは何とも言えない表情をして宦官長を見つめる。見つめられた宦官長は「謀反」と呟いて私と骸姫を睨んだ。
「謀反? それでしたらこの部屋に入った蘇氏と呼ばれる女官が柳貴人のところの女官を殺害し、そこの骸姫と共に外へ向かって紙気球を飛ばしておりました。この二人こそ謀反人。おそらく後宮の乱れを我らの企てと陛下に喧伝し、我らを排除したのちに陛下のお命を狙うつもりでございましょう」
「蘇氏は余が特別に選任した宮正節度。謀反とは思えぬな。なにより余が報告を受けたのは、そなたらが余を亡き者にして新たな皇帝を迎えようとしているとのことだが、いかががなことか?」
「それこそ、蘇氏の謀りです。陛下が背後に蘇氏を庇いだてされているのでしたら、彼女は背後で刃を研いでおりましょう」
「なるほど……。ならば、蘇氏に直接尋ねるとしよう」
私は冠を宦官長に投げつけるとまとめていた髪を解いた。
宦官長と柳貴人の表情がこわばる。下級の宦官たちは何があったのか分からないような顔をしている。後宮とはいえ皇帝サマの玉顔を直視できるものは限られている。この場では宦官長と柳貴人だけが皇帝サマの顔を知っていた。
そして、その二人だけが蘇氏の顔を知っていた。
冠をつけ皇帝として男装をした私と女官の姿をした私が同一人物だと気づいたとき、宦官長は狼狽したが、柳貴人だけはすぐに腹をくくったようだった。
「へ、陛下が蘇氏だとは……」
「陛下が女に扮するとはあり得ぬこと。すぐにその女たちを取り押さえなさい。陛下を騙る謀反人です!」
柳氏が叫ぶと宦官たちはゆっくりとこちらを見た。彼らの手には木の棒が握られている。後宮は武器の持ち込みが許されていない。それゆえ、古代の知性なき者が持つような原始的なものを武器とするしかない。
それに対してこちらは剣がある。
腰から剣を抜きはらう。装飾華美な鞘とは比べ物にならぬほど簡素な剣がいまはひどく頼もしい。
「余に向かうならば、それこそが謀反よ」
一番前にいた宦官めがけて剣を振り下ろす。兄が死んだせいで習うことになった剣術であるがこういうときには役に立つ。宦官の手首から先が切れ落ちる。鮮血と一緒に宦官の叫び声があたりに響き渡る。それにつられて周囲の宦官たちの足が下がる。いくら剣の心得があっても囲まれれば負けるし、体力だって有限だ。だからこうやって腰が引けてくれるとやりやすい。
恐怖を覚えた顔から順に斬りつけていく、与えた傷が大きかろうが小さかろうがそういう人間は逃げ散る。そうすれば騒ぎは大きくなる。なれば後宮の外にも異変が伝わるだろう。だから、それまで暴れまわるしかない。
目の前の敵に集中していると背後で鈍い音がした。剣を横薙ぎに払うついでにくるりと回転して背後を窺うと骸姫が手首を失いしゃがみ込んでいた宦官の顔に龍の置物を叩きつけていた。右ほおから口元にかけてが砕け、前歯が宦官たちの前に転がる。
「後宮の冥府を預かる骸姫は傷と死によって使える者。どうぞ、お手の届くところへおいでください」
彼女はそう言って宦官の残っていた反対の手首を置物で砕いた。あらぬ方に向いた指が仲間の宦官たちに助けを求めるが、明瞭な声が出ないらしく求められた宦官たちはさらに後ろへと身を引く。
背後に憂いがないと私はさらに踏み込む。宦官たちはすでに喚き散らすだけでまともに統制が取れていない。さらに二、三人を斬りつけて宦官長の頭に剣を振り下ろす。布の弾ける音がして宦官長の冠が地面に叩き落ちた。
眉の上から血を流しながら宦官長が床に落ちていた棒を拾い私に向ける。
「いずれは更迭するつもりだったとはいえ、反逆者のように処刑する気はなかったのだがな」
「お前など、皇帝であってたまるものか。先々帝から続く血統こそが正統であり、四代も前にたまたま帝位についた傍流が宰相の意を借りて皇帝を名乗ることこそ後宮の乱れよ」
彼の言うことは半ばが正しい。
確かに私は宰相に見つけられたために皇帝になった。彼は私を見つけたときひどく驚いた。庶子ではあっても男子だと思っていたものが、男装をした女子であったのだ。そのうえ、その母は息子に死を受け入れられずにありえない夢を見続けていた。
それでも彼は私を帝位に押し上げた。
理由はいくつかあった。いま、王朝は最盛期のように華やかだ。戦火は見当たらず。都市では様々な商品が並び人々の生活は豊かになっている。しかし、戦火が遠ざかり兵は弱兵となり、市中では役人の汚職が跋扈し、短命な皇帝が続くことで有力な外戚が入れ替わり権力を争っている。
私は宮殿内に有力者を生み出さないために選ばれた偽物の皇帝。蘇玉環という名前は兄に成り代わるためにずっと前に捨てられた女の子の名前だ。それを久しぶりに使おうとした結果がこれだ。つくづく運のない名前だ。
「言いたいことはそれだけか? 帝位がここにある。それはお前の気にするところではない」
私は片手で剣を握りしめたまま、反対の手で自分の胸を叩いた。
「顔だけが良い皇帝なぞに」
宦官長は握っていた棒を私に投げつける。それを剣で打ち払い宦官長に近づいたときだった。真横から押し飛ばされ、首に布が巻かれた。真横を睨みつけると柳貴人が鬼のような形相で布を絞めていた。剣を振り回そうにも完全に密着されているせいで動けない。
息が続かずに肺から漏れ出た空気が、押しつぶされた音を立てる。
「お前がいなければ、いなければ」
呪詛のような声に意識が薄れそうになる。柳貴人の恍惚と怒りに混じった表情に影が落ちた。
影はまったくの感情を見せずに柳貴人の顔面に何度も置物を振り下ろした。
悲鳴と布を通して首に伝わる衝撃が二度あって私は自由を手にした。
横では骸姫が置物の角や髭がなくなるほど力いっぱいに柳貴人に打ち付けている。美しかった彼女の顔は赤黒くはれ上がり、声は小鳥のようなさえずりから水に沈められた鼠のような甲高い水音に変わっている。私は剣を構え直して宦官長を牽制する。
わずかな膠着のあと甲冑を鳴らす音共に兵士たちが部屋に入ってきた。彼らは泣き叫ぶ宦官や柳貴人を見たあと私と手を真っ赤に濡らした骸姫に驚いた様子だったが、流石に構えた武器を乱すことはなかった。
「皇帝陛下。ご無事ですか?」
「無事なものか。余はこの有様だ。髪を振り乱し、唯一の仲間は血に染まっている」
「それはご奮戦おめでとうございます」
兵士の後ろから現れた宰相は部屋の様子をみて大抵のことを理解したらしく、兵士たちに宦官たちを縛るように命じた。
「めでたいことなどあるか。宦官長と柳貴人によって殺されかけた」
「陛下が始められたことでございましょう」
ぐうの音も出ずにいると宰相はあっという間に宦官たちと柳貴人を兵士たちに捕えさせて部屋から去らせた。部屋には私と骸姫、宰相の三人が残された。
「見事に藪をつついたらしい」
「だから、無理をしないように申し上げました」
「せっかくの神輿が失われるところだったな。……しかし、後宮に兵を入れるとは反逆を疑われるぞ」
「陛下はお許しくださいましょう?」
「神輿に意志はいらぬだろうからな」
「よくご存じで」
悪い表情をする宰相から視線をずらして骸姫のほうに向きなおると私は私の首を絞めていた布を彼女の手に渡した。
「拭きなさい。真っ赤になってるわよ」
「……あ、はい。すいません」
骸姫は返り血まみれの手を拭きながらこちらの方をじっと見つめる。
「ありがとう。あなたが味方してくれてよかった。私みたいな偽物を本物のあなたが救う必要なんてないのに」
「そ、そんなことありません。皇帝陛下は偽物かもしれません。でも、私を友達と言ってくれた蘇氏は本物ですから。私はあなたの力になれて嬉しいのです」
骸姫はそう言って微笑んだ。それは冥府に飾るにはもったいない美しさだった。
「陛下。このものに秘密を話したのですか?」
「……ええ、話した。すまない。宰相」
深いため息とともに宰相が骸姫を見つめる。
「陛下が女であることを知った以上、今までと同じ生活をできるとは思わないでほしい」
「宰相、待ちなさい。彼女は私を助けてくれたばかりか、この後宮で初めてできた友人です。それを害するのなら私は!」
帝位を降ります。と言いかけたところで宰相が先に口を開いた。
「君には陛下の寵姫になってもらおう」
意味を理解するまでに少しの時間がかかった。それは骸姫も同じだったらしくしっかりと間を開けて「わ、私なんてものが寵姫なんて! し、死体臭いですし、拷問しかできません」と叫んだ。
「いままで陛下には寵姫がいなかった。それが不審だったのです。皇帝が女に手を出さない、それが疑惑にもなろうが、こうやって寵姫を置けば陛下も人並みに色を好むことが示せ、秘密を知る人間を見張ることができて二つの問題が解決されますな」
他人事のように納得した顔をする宰相に私も思考を巡らせる。
確かに、彼女を寵姫にすれば私も女であることを隠しやすい。男色家だと思われずに済む。
「そうね。そうしましょう。骸姫、今日からあなたは私の寵姫です」
宣言をすると彼女は卒倒しそうに顔を赤らめて頷いた。それに満足していると骸姫がなにかを物欲しそうにこちらを見つめている。何かと思い考えて私は納得した。
「骸姫。後宮の礼儀にのっとり、宦官長、柳貴人の拷問を命じます。人を傷つけることで仕える女官の責務をはたしなさい」
私が言うと宰相が少しだけ困惑した顔をしたが、骸姫は嬉しそうに「はい」と頷いた。
これで一つ後宮の乱れが片付いたと私は安堵したが、まだいくつかの病と怪異が残っていることに気づいてまだまだ安穏な後宮生活は遠いのだと苦く笑った。