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デュナミスの大気圏を進む白い戦闘機の姿を、アッジャはゼウスの廊下に据えられたモニター越しに見つめていた。彼の周囲で慌ただしく動き回る軍人は、皆一様に混乱の様相を浮かべている。
そんな彼らを一瞥し、アッジャは静かに溜息を吐く。上官が死んだことで、鯨の形を模した戦艦の指揮系統は大きく狂った。この大きな戦艦の中で、目標の機体が青い惑星へ入ろうとしていることを、はたして自分の他に誰が把握しているのだろう。想像するだけで、アッジャはえもいわれぬ空しい感覚に襲われた。
「左舷、機関部の損傷大! ゼウス、航行不能!」
どこかで、若い男の耳障りな声が響く。これ以上の混乱に耐え切れず、アッジャは踵を返して歩き始めた。その時、彼の後方で若い女が声をかけた。
「あの、レミース会長」
アッジャが振り返ると、眼鏡をかけた小柄な女性はすたすたと歩き出し、彼の骨ばった手を掴んだ。そのまま、彼女はアッジャの瞳を覗き込む。
「向こうに、緊急脱出用のポッドがありますので、ご案内します。こちらへ」
女性はそう言って、アッジャをやや強引に連れ出そうとした。だが、彼はそのまま、両足を固定させたまま動こうとしない。彼女がアッジャの顔を振り返ると、彼は微笑を浮かべて女性へと告げた。
「待ってくれ。気持ちは嬉しいが、その前に総司令と連絡を取れないかな。今回の事態について、収拾策を確認しておきたいんでね」
中年の男の言葉に、女性は困惑したかのように目を泳がせた。やがて、言葉を選び取るかのように、彼女は慎重に唇を動かす。
「確認してきます。会長はこちらで、今しばらくお待ちください」
言うが早いか、若い女性はアッジャに背を向け、廊下を走り出した。徐々に小さくなる彼女の背を見つめた後、彼は再び小さなモニター越しにある青い惑星へと顔を向ける。先ほどまで肉眼で見えていた白い戦闘機の姿は、雲に紛れて既に分からなくなっていた。それを確認したアッジャは、大きく溜息を吐く。
「どうやらここは、我々の負けか」
アッジャはそう言って、歪な笑みを浮かべる。そして、敗北の味を噛みしめるかのように、唇の隙間からくつくつと声を洩らした。
◇
黒一色に覆われたフリゲートは、太陽系から目と鼻の先にある宙域をゆっくりと航行していた。
キャロラは、艦長室に唯一存在する座椅子にどっしりと腰掛けた。視界の端々に映る複雑な図面から意識的に目を逸らすと、小さな机を挟んで立っているクラードやアイン、ツヴァイの顔を交互に注視する。そして、彼女は目を輝かせ、茶褐色のジャケットを着た彼らに向けて、艦長室に響くほどの声を上げた。
「私たち自由門の次の標的は、宇宙戦争で大儲けした資産家の宇宙船よ。聞いた話じゃ、そこに積んである金や宝の価値は百兆円を超えるらしいわ。火星へ持って行けば、皆で三十年は遊んで暮らせるほどの大金よ」
オレンジ色の髪を揺らし、興奮した口調で告げる少女を前に、クラードは溜息交じりに応じる。
「確かなのか、それ? そもそも、その船はどこにあるんだ。目星がつかないことには、どうにも」
青年の言葉を受け、キャロラは右手の人差し指を伸ばし、ちっちっち、と左右へ揺らしてみせた。
「ところがどっこい、あるんだなこれが。確かな情報筋によれば、冥王星付近にある小規模コロニーに、愛人の住む別荘があるらしいわ。まずは、そこを狙う」
「冥王星……って」
アインとツヴァイが、互いの顔を見つめた後、おもむろに叫んだ。
「お、お嬢! 冥王星と言ったら」
「ここからすぐ近くじゃないですか、お嬢!」
二人が熱い息を鼻から吐きながら、キャプテンへ顔を近づける。彼女は、一瞬こめかみに血管を浮き上がらせたかと思うと、二人の頭を思い切り叩いた。
「お嬢じゃなくて、いい加減キャプテンと呼びなさい。あれから三箇月経ったというのに、ちっとも覚えないんだから。まったく……ほら、分かったらさっさと偵察に出る! 急ぐ!」
キャロラの命令を受け、三十代の男二人は、慌ただしく艦長室を後にした。艦長室のドアは勢い良く開かれたままだ。
「急ぐのはいいんだけど、ちゃんとドアは閉めなさいよ。もう」
キャロラは頬を膨らませ、両足を眼前の机に乗せた。唐突に現れた白い生足に、クラードは思わず目線を逸らす。キャロラは、そんな彼を睨みつけながら不満げに尋ねた。
「何よ、あんた」
「何でもねえよ」
クラードは、顔を赤くさせて答える。しばしの間、二人は何も言わずに沈黙する。やがて、キャロラは座椅子に思い切り背を預けると、深く息を吐きだした。感慨深げに、彼女は唇を動かす。
「ギリーズとアスカ、今どうしてるのかな」
キャロラの脳裏に、青年と少女の顔が浮かんだ。考えてみれば、デュナミスへ送り出して以降、二人とはまったく顔を合わせられていない。せめてお別れの言葉は言っておきたかったな――心の内で後悔していると、クラードが彼女から顔を背けたまま、自信ありげな口調で告げた。
「二人なら、きっと大丈夫さ。またいつか、必ず会える。そう信じよう」
青年の言葉に、キャロラはうん、と笑顔で頷いた。やがてクラードもまた、先に格納庫へ向かった二人に続いて、艦長室を後にした。その際、一面惑星や恒星の図面で覆われた扉が、静かに閉じられた。
◇
朝の喧騒が落ち着き、人通りが少なくなった公園の遊歩道を、トリトンと飛鳥は歩いていた。トリトンの右手は青いハンドボールを抱えており、左手は白いジャンパーとマフラーに身を包んだ少女の手を繋いでいる。黄色やオレンジ色の花を咲かせるフクジュソウの花壇の前を通り過ぎたところで、二人は遊歩道から外れ、芝生の中へと足を踏み入れる。その瞬間、正面から冷たい風が一陣、音もなく吹き付けた。
「うー、う」
飛鳥は、身体を大きく震わせたかと思うと、間を置かずに二回くしゃみをする。トリトンは立ち止まり、少女の鼻を持っていたポケットティッシュで素早く拭いた。拭き終えた後、飛鳥の小さな鼻はすっかり赤く染まっていた。それを前にしたトリトンは、思わず吹き出す。
「トリトン、うーうー!」
不満げな声を上げる飛鳥を前に、トリトンは笑いを堪えながらも応じる。
「悪い悪い、わざとじゃないって……ほらっ」
トリトンは飛鳥の背に両手を回すと、彼女の身体を軽々と持ち上げた。彼が力を入れた瞬間、肩まで伸びた金髪が、わずかに揺れる。
大きな両手に掴まれた少女の視界に、公園の芝生や灰色の老木、さらにその向こうに広がる小さな町の姿がぼんやりと見えた。
飛鳥が満面の笑顔でハミングしていると、二人の頭上から白い雪の結晶が降って来た。トリトンと飛鳥は同時に、空を見上げる。灰色の雲からは、大粒の雪がゆっくりと、音もなく降り続けていた。
「どうりで、今日は寒いと思ったら。やっぱ降って来たか……今日のところは、早めに家へ帰るか」
トリトンは、両腕に抱えたままの少女へ尋ねた。唇を尖らせて彼を見つめる黒茶色の瞳を前に、トリトンはここ三箇月間の状況を思い返す。
デュナミスの大陸の片隅にある、小さな田舎町に不時着した二人は、すぐに亡命の手続きを取った。『ギリーズ・エンドライン』という名の身分証の他に、戸籍をはじめとした本人確認の証明を何も持っていなかったことなどから、最初の数週間は苦労することも多かった。
複雑な手続きを経て、『トリトン・トライデント』と『月読飛鳥』の名前を手に入れた後、二人は小さなアパートの一室で生活を共にし始めた。そして先日、トリトンの新しい仕事も決まった。そんな彼の次なる課題は、飛鳥を学校へ送る準備を整えることだ。来週からは仕事の傍ら、飛鳥の入学手続きを進めなければいけない。苦労することも多かったが、その度に青年は、飛鳥の無垢な笑顔に心を洗われた。
「うー、あー」
飛鳥が抗議の声を上げたかと思うと、彼女は手足をバタバタと動かした。トリトンは、身に纏う黒いコート越しに鈍い痛みを感じつつも、飛鳥の足を地面に下ろす。その瞬間、彼女は足元に置かれていたハンドボールを手に取り、芝生へと駆け出していった。
待て、飛鳥。トリトンがそう声をかけようとするも、彼女は転ぶことなく、青年から距離を置いた。やがて、彼女はトリトンへとハンドボールを投げた。雪が舞う中、青いボールは弧を描き、青年の手へ渡る。
「うー、うー」
視界の先にいる少女は、喜びを全身で表すかのように、左右へ大きく手を振った。きっと、ボール遊びをしようという意味なのだろう。そう察したトリトンは、あまり力を出し過ぎず、かつ確実に飛鳥へ届くように加減しながら、ハンドボールを宙へ放った。彼の思い通り、ボールは緩やかなスピードで、少女の方角へと飛んでいく。やがてボールは、芝生の上に落ちた後、再びバウンドすることなくその場で静止する。青いボールを拾おうと、飛鳥は早足で歩き出す。そんな彼女の姿を前に、トリトンは今の幸福をゆっくりと噛みしめた。
失われた時間は、もう戻らない。それでも、やり直すことはできる。おれはこれから、彼女との時間を少しずつ取り戻す――心の内で、誰に向けるでもなく鼓舞するトリトンの眼前で、飛鳥はやや乱暴に青いボールを投げた。
青い軌道は空高く舞い上がり、やがて風に揺られる。そのまま、重力の影響を受けて静かに地面へと落下する。トリトンは、青いボールに目を凝らしたまま、両腕を真っ直ぐ前へと伸ばした。すると、ボールは吸い込まれるかのように彼の手に触れた。トリトンは、それを離さないよう、素早く自身の胸へと収める。すると、彼の耳に小さな拍手の音が聞こえてきた。
「トリトン、トリトン!」
トリトンが顔を向けると、黒髪の少女が拍手を送っていた。拍手を続けたまま、飛鳥は無垢な笑顔を満面に浮かべる。
「ナイスキャッチ!」
快活な口調で叫ぶ少女を前に、青年はあっけらかんとした面持ちを浮かべる。対する彼女は、はにかんだように微笑み、トリトンの青い瞳を見つめていた。
飛鳥の顔を前にしたトリトンは、穏やかに笑ってみせた。あの頃と何も変わらないんだな、お前は。心の内でそう呟くと、青年は腕を前へ伸ばし、手に持ったハンドボールを空へと構えた。
彼女にきっと、届くように。そう願いながら、トリトンは青いハンドボールを放った。塵のような雪の中で、ボールは宙を舞い上がる。やがて青い軌道はゆっくりと落下し、美しい弧を描いた。
宙塵城のエウリュアレ/Fin.




