↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『ETERNAL』  作者: 千筆拓
PR
4/4

第4話:減らないクリュッグと無防備な聖域

高級シャンパンの泡よりも、手渡された一杯の温かいお茶を選ぶこと。

煌びやかな不夜城の真ん中でプロとしての仮面を脱ぎ捨て、不機嫌な顔のまま隣に居座り続けること。

世間の常識や夜のルールの外側で、彼女にとってそこは唯一の「聖域」だった。

計算も営業スマイルも存在しない、無防備で切ない素顔。

減らないボトルの横で通い合う確かな体温を描く、昇吾視点の物語。

杏菜からのLINEは、以前のような過剰なハートマークやギラギラした絵文字が少しずつ減り、その分だけ素直で体温の伝わる言葉が並ぶようになっていた。


『昇吾さん、お疲れ様! 付け回しのスタッフさんやヘルプの子に、教えられた通り『ありがとう』ってちゃんと言ってみたよ』


客とキャストという透明な壁を挟みながらも、二人の距離は世間の常識や営業トークとは全く違う、歪で深い場所で繋がり始めていた。


週末の深夜。不夜城『ETERNAL』の重厚な扉を開け、大階段を下りると、フロア全体は相変わらず煌びやかな熱気に包まれていた。


遠くのテーブルに視線をやると、背筋をピンと伸ばし、大きな声で客と話して楽しそうに笑う杏菜の姿があった。器用に場を仕切るタイプではないかもしれない。けれど、彼女なりに必死に「プロのキャバ嬢」としての仮面を被り、外の世界で戦っているのだ。


だが、昇吾の席に滑り込んできた途端、杏菜の背筋からはすっと力が抜け、どっと溜め込んだ疲弊を吐き出すように深くソファにもたれかかった。表情は暗く、お酒を作る手も動かさず、ただ黙り込んでいる。


「……ねえ、杏菜。他のテーブルではあんなに楽しそうにしてるのに、なんで俺のテーブルに来ると全然笑ってくれないの?」


昇吾が静かにそう問いかけると、杏菜はすっと視線を落とし、眉間にぐっと皺を寄せて眉をひそめた。その瞳には涙ではなく、やり場のない苛立ちと怒りの色が強く宿っていた。そして、掠れた低い声で、感情をぶつけるように言い放った。


「なんで昇吾さんのテーブルでまで、私、自分を作らなきゃいけないの……?」


「自分を作らなきゃいけないの?」という、感情の剥き出しになった問いかけ。

他の客なら困惑するような強い態度だった。けれど、昇吾には痛いほど分かっていた。外のテーブルで必死に大人を演じている彼女が、唯一すべての鎧を脱ぎ捨てられる「絶対の安全地帯」でまで優等生であることを求められたことへの、怒り混じりの切ない叫びなのだと。


本音をぶつけ合った後、しばらくして二人は不器用に仲直りをした。昇吾が黒服を呼び、仲直りの証として注文したのは、

高級シャンパン『クリュッグ グランド・キュヴェ』のボトルだった。

運ばれてきたシックな深緑のボトルと、ゴールドのラベル。

だが、杏菜はその高額な泡にはたった一口しか口をつけず、昇吾が黒服から受け取って渡してあげた温かいお茶のグラスを、両手で大切そうに包み込んだ。


「昇吾さんお茶、おいしい」


そのまま、店から借りたブランケットにすっぽりと体を丸め、ソファにもたれかかる杏菜。大人の計算ができるキャストなら、高額なシャンパンを喜んで飲み、気遣いを見せるのが「正解」だろう。けれど、彼女は大好きな白米やラーメンやクレープを思う時と同じ素朴さで、温かいお茶をすすり、昇吾の隣で無防備な体を小さく丸めている。


「店にいるんだから、もう少しちゃんと営業しなよ」


昇吾が呆れ半分に言うと、彼女はブランケットの中からぎゅっと昇吾の手を握りしめ、まっすぐな眼差しで言い放った。


「嫌だ……だってこのテーブルは、昇吾さんとのプライベートだもん」


公の場であるキャバクラの客席。けれど彼女にとってそこは、他の誰にも踏み込ませない、昇吾と二人だけの完璧な「聖域」だった。


そう宣言すると、彼女はブランケットを少しだけ持ち上げ、自分のウエストのあたりを指さした。

「ほら、見て。最近ちょっとお腹出てきたの」

ドレス越しではなく、無防備に膨らませたお腹を隠そうともせず、平然と見せてくる。普通のキャストなら、お客様の前で体型の崩れやだらしない姿など死んでも見せないだろう。ましてや周りのテーブルでは、高額なボトルが飛び交う華やかな夜の世界だ。

けれど、彼女はまるで家で寛ぐ猫のように


「なんだろこの可愛い生物は」


と思わず脱力してしまうようなテンションで、自分のぽんぽんを無邪気にアピールしてくる。


「仕事しろよ(笑)」と昇吾が呆れ混じりに笑うと、彼女はぷいっと顔を背け、少し険しい表情のままソファの背もたれに沈み込んだ。

営業スマイルの愛嬌なんてへったくれもない。顔の筋肉すらゆるゆるに緩みきり、どこか不機嫌そうにすら見える顔。お酒を作る手も完全に止まり、プロとしての仕事は長いこと完全に放棄されている。逆にそれは完全なる安心感の証明、特別の証でもあった。


黒服や周りのキャストから見れば「クリュッグを開けてもらっておいて、なんて失礼な態度だ」と目を疑うような光景だろう。しかし、どれだけ愛想がなかろうと、どれだけ顔が険しかろうと、彼女は昇吾の隣から絶対に離れようとはしなかった。


「杏菜ってさ、俺に一途なはずなのに、占いの相性とか見るといつも下の方だよね」


以前、LINEで『最下位ってちょっと納得いかないなぁ』と憤っていた彼女の姿を思い出して昇吾がそうイジると、彼女はブランケットの中からぎゅっと握る手に力を込めた。


「……納得いかない。一途だもん。……一途じゃないかもしれないけど、でも、ずっと一緒にいる」


支離滅裂で、大人としての計算など一ミリもない言葉。

他のお客の前では「完璧なプロ」として気を張り巡らせている彼女が、昇吾の前でだけ見せる、嘘偽りのない剥き出しの素顔。愛嬌を振りまくことよりも、プロとして振る舞うことよりも、ただ「ここにいていいんだ」という安心感に包まれて、昇吾の隣に居座り続けること。

減らないクリュッグのボトルがテーブルの真ん中で静かに佇む横で、彼女は両手でお茶のグラスを包み込み、昇吾の手を握りしめたまま、静かに目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。