第1話:『画面を埋め尽くす記号(うそ)の数』
※本作は『色なき風が吹く頃に』のエピソードゼロ(前日譚)となります。
前作で「杏奈」と名乗っていた彼女が、まだ「杏菜」という名で夜の街に立ち、プロのキャストとしても一人の女性としても未熟だった頃の、すべての始まりの物語です。
前作をお読みでない方でも、ここから単体で作品をお楽しみいただけます!
少しでも「面白い」「続きが気になる」と思ってくださった方は、ぜひ下部から【ブックマーク登録】や【評価(★★★★★)】をいただけますと、執筆の大きな励みになります!
それでは、二人の恋の原点の物語をお楽しみください。
『ETERNAL』——ビル街の一角に潜むその重厚な扉を開けると、地階へと続く煌びやかな大階段が聳え立っていた。
吹き抜けの空間を照らすシャンデリアの眩い光と、階段を下りた先に広がる優雅なフロア。高級感あふれるグラスが触れ合う澄んだクリスタルの音色と、賑やかな歓声が交差する喧騒の中で、昇吾はいつものように静かにグラスを傾けていた。
フロアの奥、大勢の客に囲まれながら一際華やかな存在感を放っているのが杏菜だった。店のトップを争う彼女の周りには、常に札束と欲望が渦巻いている。
「ねえ、昇吾さん」
大勢の男たちにあでやかな笑顔を振りまいていたはずの彼女が、ふとした合間に昇吾の席へと滑り込んでくる。周囲の喧騒を遮断するように耳元で低く呟くその所作は、計算し尽くされた距離感だ。
「ん?」
「私、どれだけフロアが混んでてもね……昇吾さんが階段を下りて店に入ってきた瞬間に、すぐ分かるんだよ」
「声も出していないのにか?」
「うん。シルエットで『あ、昇吾さんだ』って、すぐ見つけちゃうの」
そう言って、可愛らしく首を傾げる杏菜。
――特別感の提示。
「あなただけは別格だ」と思わせることで客の基準値を揺さぶり、無意識に心を開かせる手法。夜の街で売れっ子であり続けるための、あまりにも自然で鮮やかな仕掛けだった。
だが、そう言って微笑む杏菜の瞳の奥には、どこか他人に立ち入らせない冷ややかな警戒心と、上客である昇吾に向けたわずかな甘えが同居していた。
昇吾は彼女がグラスを持つ手——その薬指の先が、かすかに震えているのを見逃さない。どれほど余裕を演じていても、店内でのトップ争いと嫉妬の視線の中で、彼女の神経は限界まで研ぎ澄まされている。
まだお互いに踏み込みきれない、「客とキャスト」という透明で強固な壁。
店を出てから届くメッセージも、表面上はその壁を頑丈に補強していた。
スマートフォンを照らすのは、画面いっぱいに散りばめられた音符やハートマークの記号、そしてカラフルな絵文字やスタンプだった。過剰なほどの飾り付けで埋め尽くされた文章が、テンポよく画面に踊る。
『昇吾さん、ありがとう! 今日も会えて本当に嬉しかったよ!』
視覚的なインパクトで強烈な好意を焼き付け、記憶に残すための過剰な装飾。昇吾は画面をタップする指を止め、小さく息を吐いた。
『こちらこそありがとう。無理しないでゆっくり休んでね』
『はーい! 復活の早さだけが長所だから大丈夫! またすぐ会いたいな!』
すかさず返してくる短いレスポンス。相手に考える隙を与えず、心地よいテンポ感で「次」の約束へ誘導する巧みな文面。
完璧に作り込まれた甘いメッセージと、絶対に踏み込ませない安全な距離感。
不夜城『ETERNAL』で出会った二人の関係は、この時はまだ、どこにでもある「売れっ子キャストと上客」の高度な心理戦ゲームに過ぎないはずだった。
しかし、この地下へ続く階段の影で、店内のパワーバランスを揺るがす不穏な動きがすでに始まっていたことを、ふたりはまだ知らない。
そして、この画面を埋め尽くす大量の煌びやかな記号たちが、一文字、また一文字と削ぎ落とされていく未来のことも——。




