53.子猫と少女
(子猫と少女)
気が付くとそこは明るい雑木林の中だった。
「何だ、やっぱり夢か……、でも、ここはどこだろう。夢の中で、また夢を見ているのかな?」
良一は、不安をかき消すように、ひとりごとを言いながら明るく見える方に歩き出した。
雑木林を抜けると、そこは草原で、まばらに高木も立っていた。
あたりを見回すと、どうやら丘陵地帯らしく、なだらかに下っていった所に、民家らしい建物も一軒見えた。
清々しい風と青い空と緑の草原、夢の中とはいえ良一の気持ちは、さっきの苛立ちとは違って、生き返ったような心地よさだった。
「新一はどこに行ったんだろう……?」
そもそもこの事態を作り出した張本人でさえ、注意しないと忘れてしまいそうなくらい、自然にこの夢の中に溶け込んでいる自分が不思議に思えた。
そんなことを考えながら、遥かかなたに見える民家へと、何となく進路をとった。
いつの間にか、膝丈ほどあった雑草も、きれいに刈られているような、放牧場のようなところに出た。
でも、そこには牛も羊も馬も動くものなど何ひとつ存在しない、ただ緑の草原が続いているだけだった。
「あ、あの子だ……」
周りの風景から一段高い丘のようなところに女の子が立っていた。
良一は、右手を肩まで上げて小さく手を振って、丘を登って行った。
「やー、猫ちゃん元気……?」
猫のことよりも、ここが何処で、どうして家の中からここまで来てしまったのか。
そのことを一番に聞きたかったが、こんな小さな子に明確な答えが出せるとは思えないし、
とりあえず会話の糸口に猫を借りてきたのだった。
「……、どうして、ここがわかったの?」
女の子は、遠慮がちに良一の顔を見ずにつぶやいた。
「新一に、……」と、言いかけたときに……
「新一を知っているの?」
彼女は少し驚いた顔をした。
「多分、……」
良一は曖昧な答えをした。
「変ねー、多分だなんて……」
女の子の方がしっかりしている。
彼女は下を向きながら上品に笑うと、振り返って大きな木の下を指差した。
その木の下には御座が引いてあり、お人形やプラスチックのお皿やまな板や鍋なんかが広がっていた。
「おままごと、やっていたの……?」
「おままごとじゃーないわ。あの家で暮らしているのよー!」
彼女はゆっくり指さした方に歩きだした。
良一も遅れないように歩き出した。
「私の家、あそこでサっちゃんとミーちゃんとで暮らしているの……」
「サっちゃんって、誰なの?」
「私のお友達……、ミーちゃんは、……」
「わかった。子猫だ……」
「そうよっ!」
急に駆け出した彼女は、履いていたサンダルを跳ね上げて御座の上に座った。
「いらっしゃいませ!」
彼女は丁寧にお辞儀をした。
「お邪魔します……」
良一も小さくお辞儀をした。
「どうぞ、あがってお座りになってくださいなー!」
彼女はどこから出してきたのか、座布団を引き出して良一に示した。
「それでは、お邪魔します」
良一も靴を脱いで御座に上がろうとしたときに思い出した。
「どうして靴を履いているのだろうー?」
心のどこかに引っかかるものを感じながらも、今はそれよりも、ここから帰ることが先決と考え直した。
御座の上に上がると、大きなバスケットの中に、ふわふわのタオルケットが入っていて、
その上に小さな三毛猫が気持ちよさそうに丸まって寝ているのが見えた。
「わ、かわいいねー! まだ生まれたばかりだね」
良一は座りながら、バスケットを覗いた。
「でも、春に生まれたから、五ヶ月くらいはたってると思うわ」
彼女の話で、良一は少なくとも暦は一緒だと思った。
「なついちゃったんだね。でも、まだ子猫だから近くで親猫が心配しているんじゃないかな?」
「ちょっと来て……」
彼女は突然立ち上がり、今座ったばかりの良一の手をとって引っ張りあげた。
そして、そのままサンダルをすっ掛けると、良一の手をとってぐいぐい走り出そうとしていた。
良一も引っ張られるまま、あわてて靴をすっ掛けて付いていった。
向かっているのは、あの遠くに見えた白っぽい大きな家だった。
女の子は疲れたのかしばらくして歩き出した。
良一は、すぐに女の子の前にしゃがみ……
「おんぶしてあげる……」
「失礼ねー! わたし、そんなに子供じゃないわ」
「あ、ごめん」
良一はすぐに立った。
「でも、わたしのこと、おんぶしたかったら、して下さってもいいわよ……」
「え、ほんと、おんぶできるなんて光栄です」
良一は、また女の子の前でしゃがんだ。この言い方。小さい頃の妙子に似ていると思った。
「あそこに見えるのが君の家なの?」
良一は彼女との間が持てずに思いつくまま話し始めた。
彼女は小首をかしげた。
「おじいちゃんの家……」
「そうだ、なんて呼べばいいのかな? 名前、……、何?」
良一はこの手の質問が嫌いだった。
相手が小さくても女子であると言うのも聞きにくいひとつの事情であるが、名前を聞かないと言うのが良一の決まりごとだった。
彼女の名前を聞くことは、彼女とかかわりを持つことであって、聞いてしまえば、もう通りすがりの人間ではいられなくなる。
そんなに深刻に考えなくてもいいのだが、いつの間にか人とのつきあい方が苦手になり、わずらわしくなってきたときから自分で決めてきたことだった。
しかし、背中におぶっている彼女はもう、ただの通りすがり人とはいえない関係だと思った。
「ともこ、……」
「じゃ、ともちゃんだ」
彼女は下を向いて微笑んだ。
「あなたのことはなんて呼べばいいのかしら?」
「友達は良一、かな。後は江崎君とか良一君かな。小さい時は、りょうちゃんかな……」
「じゃ、りょうちゃんがいいー!」
「いいよ!」
この呼び方は良一の母が呼んでいた名前だった。
ようやく着いた白っぽい建物は、大きな格子の窓とテラスが印象的な洋館風のしゃれた建物だった。
やはり彼女の家らしい。
しかし、そこにも、やはり人影はなく、まるで廃屋の雰囲気があった。
「ここでいいわ。降ろして下さらない」
彼女は下に降りると、この家には見向きもせず、この家の棟続きの端に当たる崩れかけたガレージのような納屋のようなところに入っていった。
前は家畜小屋だったのか、この中にも囲いがありワラが山のように積まれていた。
彼女が中に入った先から猫の鳴き声がした。
暗がりを見回すと壁に取り付けられている何段もの棚の上に子猫が二匹並んで鳴いていた。
しかし、まだほかにも鳴き声がする。
よく見回すと下の方からでも、子猫が二匹現れた。
そして、外から二匹大きい猫と小さい猫。
きっと大きい猫が親猫だろう。
「全部で七匹いるの?」
女の子は足元に近づいてきた子猫をひざまずいて、抱きかかえながら笑って見せた。
良一はやれやれと思った。
「とも子ちゃん、親猫もちゃんといるし、今引き離さないほうがいいと思うよ。それにここは自然がまだ生きているし餌になる獲物もたくさんいそうだから、ここで暮らすほうが幸せだと思うけどな……」
良一も足元の子猫を一匹なでた。
「でも、お爺ちゃんがどこか遠くに行って捨ててくるって……」
人の親なら誰でも言う言葉だと思った。
「でも、それは動物愛護違反だし法律で罰せられるんじゃないかな」
「ホンと?」
「ほんとだよ。動物をむやみに捨ててはいけないんだ。でも、もし子猫が捨てられそうになったら、僕が全部面倒を見てあげるよ」
確かにさびしく、一人暮らしをしていた頃を考えれば、猫の一匹でもいれば楽しいかなと思い浮かべたが、それが全部で七匹ともなれば、家の中が猫だらけになることはいうまでもない。
あっちでもこっちでもニャアニャアなかれては、落ち着いて勉強もできなくなると思った。
「ホンと! でも……、全部飼えるの? 家の人は何にもいわないの?」
「もちろんいわないよ! 今は、湯川家にお世話になっているけど、本当は一人暮らしの身軽な身の上だから……」
「一緒にいた女の人は……」
「あの人は、湯川家の人だから関係ないけど、多分彼女も猫好きだと思うよ」
そういいながら、良一は妙子が動物好きかどうか知らなかった。
二人は、子猫を置いて納屋から出ると、また再び彼女をおんぶして、大きな木の下のおままごとの家に戻る道を進んだ。
しばらくして、丘の長い坂を登り切った所で、少女は良一の背中に頭をつけて、眠たそうな小さな声で呟いた。
「わたし、ここから見る風景が大好き……」
「少し休んでいこうー」
丘の峰の道沿いには、まばらに欅の木が植えられていた。
良一は女の子を背負ったまま一本の木の下でしゃがみ込んだ。
「ちょっと疲れちゃった……」
良一は言った。
ここから眺めると、丘はなだらかに下りながら牧草地帯が広がっている。
しかし、牛や馬など一匹もいない。
あたりにはやはり動くものがなく爽やかな風だけが草木をゆすっていた。
その次の瞬間、背中の女の子の感触が消えたと思ったとき、良一は、後ろに大きくよろけ、ベッドの支柱と床が同時に目に飛び込んできた。
「あれ……」
そこは母親のベッドの脇だった。
良一はやっと夢から覚めたと思った。
冷たい床からゆっくりと起き上がり、あたりを見回すと、あたりは明るく日が差していた。
思わず壁にかかっている時計を見た。午前六時十分……
「もうこんな時間……」
良一は慌てて朝食の支度を始めた。
まもなく紗恵子が起きてきた。
「おはよう……」
良一はびっくとして振り返った。
「おはようございます。すみません、ちょっと寝坊しまして……、急いで朝食の支度をしますから……」
「そんなこと、いちいちあやまらなくていいのよ。私も手伝うから、何すればいいの?」
「今日は時間がないから、うどんにしましょう」
「そのほうが手間を取るんじゃないの?」
「だしは昨日たくさん作っておきましたから、すぐです。まだご飯も炊いてないから、その方が早いですから……」
良一は慌てながらも、どうにか間に合うと高鳴っていた胸をなでおろした。




