8
ロターリオは自分が昨夜見たものが信じられず、宿屋の一室で眠れないままベッドに入った。そして窓から見える空が明るくなってもまだそのまま、何もせずただ転がっていた。
エスメラルダは今ルディと名乗っていた。そのルディという女が教会にいる神父と懇意にしている、というのは町に半日もいれば勝手に耳に届いていた。聞いたときはルディとエスメラルダが同一人物だと気づいていなかったが、神父から名前を聞いた後は教会に行けばエスメラルダがいるのだとわかり、入り組んだ道に迷いつつも少し高台にある教会を目指して歩いた。
到着したロターリオを待っていたのは抱き合う二人の男女の姿だった。
そして女の泣き声。つまり、泣いているのはエスメラルダ。黒鎧を脱いでも鋼鉄のような人間だったはずのエスメラルダがわんわんと泣き、小柄な神父にしがみつくように抱きついている。
夜目が利くロターリオは長年信頼し自慢にしてきた自分の目を疑った。見えているものが幻なのかと、何か魔法を使われたのかと本気で勘繰った。しかしそうではないことも、わかってしまった。幻術が効きづらい体質でもあるロターリオはすぐに自分が見たものが事実であると認めた。信じられなくてもだ。
(あんな・・・女のような・・・)
そもそも昼間に浜辺で見た時からロターリオは何もかもが信じられない気持ちでいっぱいだった。傭兵時代エスメラルダが女の恰好をしていたことは一度もなかった。笑うことだってなかった。だが浜辺で子どもたちと手をつないで歩くエスメラルダはどこからどう見ても女の恰好で、優しく微笑んでいた。まるで女のように。
ルディが女性の服装をしているのは少しでもエスメラルダのイメージから遠ざかろうとした結果なのだが、それを知らないロターリオはブルーノがエスメラルダを変えてしまったのだと思った。
(あのエスメラルダを変えることなんて誰にも出来ない・・・いや変わるわけがねぇ)
ロターリオは何度も何度も自分にそう言い聞かせる。戦場で迷いのひとかけらもなく敵兵を蹂躙したエスメラルダこそ彼女の本質だとそう思う、思い込もうとする。
しかしそのたびに昨夜の光景がありありと脳内で再生され、また振り出しに戻る。どうしてエスメラルダは死んだことにして、こんな辺鄙な場所に来たのか。
ここで戦ったのはロターリオも同じだった。だが一度たりとも戻りたいとは思えなかった。思い入れはない。仲間が死んでいったことよりも、エスメラルダが敵をなぎ倒しているのを見ていた記憶だけが残っている。
死んだと聞いてからも一度もここに来たいとは思わなかった。エスメラルダは死んでいないと確信していた。戦争中の怪我がもとで、と発表されたがエスメラルダが死ぬほどの怪我を負ったことは一度もなかった。だから死ぬなんてことはありえないと決めつけ、戦いのある場所を回っていた。エスメラルダがいるとしたら傭兵としての仕事がある場所だろうと考えて。
だが死んだと発表されてから二年以上経っても全く手掛かり一つロターリオには見つけられなかった。戦いから離れてエスメラルダが生きていけるはずがないのに、と隣国まで足を延ばしたこともあったが、なしのつぶてだった。
そもそも英雄の中身を知ってる人間が少なすぎて手がかりをつかもうとしても調べようがないのも事実だった。エスメラルダの特徴を話しても、そんな背が高い女は知らないと言われるばかり。女の傭兵に話を聞いてもそんなの聞いたこともないと言われる。ようやくつかんだ情報は戦争が始まる前のものだった。
ロターリオがそんな状態に疲弊した頃、バオが復興したという話を聞いた。英雄が戦った地として旅行する人間がちらほらいるという噂は知っていた。たまたま酒場で会った男がバオから帰ってきたばかりだと話していたので聞いてみると、女神のような綺麗な女がいたという。背が高く薄い茶色の髪をして、肌が白くて異国の風を感じるような美人だったという。なんとなくその特徴がエスメラルダが女装していればそうなるだろうなと思ったロターリオは、どうせこの場にいても何の情報も得られていないのだからと思いバオに足を運んでみることにした。
(せっかく見つけたってのに・・・面白くねえな)
エスメラルダを見かけた時、女装しているとロターリオは思った。おかしな話だ。エスメラルダは正真正銘女である。スカートを履いていても女装とは言わない。ロターリオはそれでもエスメラルダは女装している、そうしなければ生きていけない窮屈な環境にいると決めつけた。だから助け出してやろう、とさえ思って声をかけたのに、返ってきたのは拒絶だった。
そしてまたロターリオの脳内には抱き合う二人の映像が流れていく。
人を殺したことを後悔しているような泣き声が、耳から離れなかった。
子どもたちが朝食を終えて遊びに行き、片づけを終えてからもルディは客室から出てこなかったのでブルーノはそっと客室に向かった。寝ているかもしれないから起こさないように、と。しかし階段の壁にあった明り取りの小さな窓の外に昨日見た魔力を感じた。
あの男、ロターリオという名前の人間がやってきたのだとわかった。
それと同じタイミングでルディもロターリオの気配に気づいた。気配を消すことなく堂々とやってきたことに驚いた。ブルーノの言葉と行動に悶絶し、ただベッドの上を左右に転がるだけしかしていなかった自分を恥じてルディは神経を研ぎ澄ませた。向かい合ってやり合えば絶対に負けることは無いが、子どもたちやマルコ、それにブルーノの身柄を人質にされたらルディに勝ち目はない。
幸い教会の表側にロターリオの気配があり、子どもたちの声は全員分孤児院の裏手の庭にあった。鉢合わせする可能性は低そうだ。マルコがどこにいるかはわからなかったが、彼の住む離れは裏手にあるので恐らくそこにいるだろう。
部屋の扉を音もなく開けるとブルーノの気配が外へ向かっていることに気づいた。慌てながらも足音を立てないようにそっと後をついていくと教会の扉から出たブルーノは真っすぐロターリオに向かっていった。
ルディは少しだけ開かれたままの教会の扉の陰に隠れながら二人がどう動くのかをじっと観察する。
(この距離なら間に合うか・・・遠すぎるかもしれないな)
ロターリオがおかしな動きをしたのならすぐ飛び出せばギリギリ間に合う距離だが、もし脅しではなくブルーノを即死させるつもりで動いた場合間に合わないかもしれない。ただ、扉を出てしまうと体を隠せる場所はない。今出て行っても構わないがルディの姿を見てロターリオが行動を変えてしまうと後手に回る可能性もある。
聞き耳を立て、二人の出方を伺うしかないとルディはわかっているものの、ブルーノに万が一でもあればと嫌な汗が流れる。
「小さい男だな」
ロターリオが教会の敷地に足を踏み入れてすぐブルーノが出てきた。柔和な笑顔を浮かべているが全く笑っていない目をしている。神父というわりにほの暗い何かを感じてロターリオは嫌な気分になっていた。威圧しても躱され、掴みどころのない感覚。とりあえず煽ってみるかと小ばかにしてみたが、ブルーノの表情は少しも変わらない。
「私は小柄な家系でして。ですがこれでも兄よりも大きいんですよ」
ブルーノはにこにこと微笑みながらそう返す。目の前の屈強な男は見た目に反して高い魔力を持っているように見えた。精神にかかわる魔法を使われると厄介だと思い、嘘のない言葉を選んで口にする。洗脳などを行える魔法使いはごく少数な上、研究されて長いため対策もたくさんある。誰でも出来る対策は発言に対して心の隙を作らないこと。嘘をつくのは隙を作る典型だ。
「そんなこと聞いてねぇよ」
「おや。では何をお尋ねに?」
ロターリオは少しだけ眉を顰め、わかってんだろと小さく呟く。ブルーノは答えない。ただにこにこと笑顔を浮かべてロターリオを見ているだけだ。
その異様さに苛立ち、今にも殴り飛ばしたいと思って手を握りしめた時、教会から一瞬とてつもない殺気を感じた。
(エスメラルダ!)
まさしくそれは戦場でエスメラルダから放たれていたものだった。向けられたことは一度もない。ロターリオは味方だったので当たり前だが、自分に向けられていないとわかっていても身震いするようなものだったのは覚えている。それを真正面から食らって思わずロターリオは一歩後ずさる。
ちら、と目の前の小さな男を見ると殺気を全く感じなかったかのように、やはりにこにこと笑っているだけだ。
「お前不感症か?」
「・・・ご質問の意味を図りかねますね」
「エスメラルダの殺気を感じないとはお気楽な奴だ」
ブルーノは少し困ったような表情を浮かべる。
「エスメラルダとは?」
「あぁ?お前何言ってんだ・・・ああ、知らねぇのか。自分の女のこと」
はっと馬鹿にするように笑ったロターリオは優位に立ったと感じた。泣いて縋っていたのを見ててっきり何でも教え合っているのかと思ったが、どうやらそうではないと妙な高揚感を覚えた。そしてそれならば教えてやろうとにやりと片方の口角を上げた。
「あの女はエスメラルダだよ。死んだふりしてここに隠れてやがったが間違いなく英雄サマだよ。そんなことも知らされないで、お前利用されてたんだなぁ可哀想に」
「ここにはエスメラルダという名前の方は一人もおられません。どなたかと勘違いでは?」
「お気楽だなぁお前は。あのルディとか呼ばれてる女だよ。まぁお前みたいなちびっこい男ではあの女も満足させられねぇだろ」
ロターリオは笑いながらブルーノの横を通り過ぎようとする。
横を通る瞬間にぽん、とブルーノの肩を叩いたロターリオの手をぎゅっとブルーノが掴んだ。
「お待ちなさい。教会は誰にでも門戸を開いておりますが、危害を加えるためにやってきた人間を通すつもりはありません」
「あ?危害だと?エスメラルダを迎えに来ただけだ」
「そのような人はこちらにはおりません。お帰りを」
そう言ってブルーノはロターリオの腕をひねり上げた。ロターリオの力のほうが強かったため腕はすぐに解放されたものの、予想以上の力の強さにロターリオは驚いていた。
(身体強化でも使えるのか。面倒な・・・でもそれなら殴っても死なねぇな)
ブルーノの顔面に向けて一発お見舞いしようと腕を引いたその瞬間、後ろから首筋にヒヤリとしたものを押し付けられた感覚があり、ロターリオはぴたっと体の動きを止めた。エスメラルダに背後を取られたのなら、うかつに動けば一瞬であの世行きだと息を吞む。
「・・・教会で殺生してもいいのか?」
「暴力に対しての抵抗は正当防衛ですよ。神も認めてくれるでしょう」
ロターリオの投げかけに答えたのは後ろの人物ではなく、ロターリオの目の前にいたブルーノだった。
「それに彼はうちの用心棒なのですよ。暴漢に対して当然を行為をしているまでです」
続けて言ったブルーノの言葉にロターリオが驚いて振り向こうとするが振り上げたのと逆の左腕を掴まれ捻り上げられたため身動きが取れない。
「いてぇ!」
「自業自得だ。神父さん、自警団を呼んである」
ロターリオをひねり上げ制圧しながらマルコがそういうとブルーノは今度こそ本当ににこりと笑った。
「ありがとうございます・・・ああ、もうすぐそこまで来ていますね」
ほんの少し傾斜のある教会に続く道を上がってくる数人の気配と魔力を感じて、ブルーノは教会から出てきた時同じような柔和な笑みでロターリオを見下ろした。
一連の動きをルディは扉から隠れて見ていた。
途中でマルコが木の陰に隠れていることに気づいたが、同じように気づいたマルコから目配せされたので動かなかった。万が一何かあればと思っていたが、そんな心配は一切なく無駄のない動きでマルコはロターリオの背後を取り一瞬で制圧した。
(足を怪我していたはずだが・・・うまく騙されていたようだ)
怪我人の歩き方だとルディでさえ思うような動きをしていて、一年ほど毎日のように顔を合わせていたにも関わらず一度も、違和感一つ感じなかった。マルコがこれほどの腕があることも全く気付いていなかった。
(私が居なくても大丈夫なんだな)
今までブルーノをはじめ教会にいる人々に対して自分が守らなければと思っていたルディは、ほっとするのと同時に寂しさが体の内側に広がっていくのを感じた。