希望
「ねぇね。」
バーバラが遠くの丘を指差した。
ルイーダはバーバラの方へと歩み寄ると、彼女を抱き上げた。
特に優れたところもないが、人里から程よく離れたとても落ち着いた土地で、気候も安定している。
天災で荒れる事も滅多にないし、何よりも、その特徴の無さが人を引き寄せる事がなく、平穏な暮らしを送るにはとても適した場所だった。
丘の上に土煙が舞うのが見えた。
まだちゃんと人差し指だけを立てることもままならず、親指も中指も一緒に同じ方へ向いていた。
それでもバーバラは一生懸命に丘を指差した。
土煙が次第に大きくなっていくにつれ、地鳴りにも似た振動がルイーダ達の足元を揺さぶった。
「ねぇね!」
「こわいよぉ!」
園庭で遊んでいた子供達が一斉にルイーダの元に駆け寄り始め、彼女の足元にしがみつくよつに身を寄せた。
ルイーダは子供達の頭を順に撫でた。
土煙の正体は、五頭だての小さな騎馬隊だった。
騎馬隊は園庭の外に馬を止めると、全員が馬を降りて兜を取った。
腰丈程の低い柵越しに、先頭に立った騎士が頭を下げた。
「ルイーダ様でいらっしゃいますか?」
ルイーダは無言で頷いた。
「あぁ、間に合った。」
騎士はその場に立て膝を付くと、深々と頭を垂れた。
「ルイーダ様。我が主が貴女にお会いしたいと申しております。ご同行願えませんでしょうか。」
ルイーダが振り返ると、孤児院として使われているあばら家の入り口に佇んだ、初老の女と視線が絡んだ。
女院長はルイーダに微笑みかけた。
それが返答だとルイーダは受け取った。
「貴女が。」
男はルイーダの姿に目を留めると、玉座から立ち上がった。
灰色の髪、灰色の髭を長く伸ばした壮年の男。
「貴女のお話しは伺っています。こちらへ。」
男は分厚いマントを翻し、玉座の間を後にした。
ロビーに降りると、階段の裏手へと回り込み、正門とは反対側へと向かった。
階段に隠れた裏口を抜けると、そこには裏庭が広がっていた。
「貴女はお分かりですか?」
それは国王の城の庭とは思えない程に荒れ果てていた。
「この国は、貴女のお陰で生まれた。」
否、手入れをしていないと言うべきか。
「そして貴女のせいで壊れた。」
うっそうと下草が生い茂り、背の高い木々が視界を遮った。
「一人の王が貴女を求めた。」
扉を通り抜け、数段の低い階段を降りると、そこはもう森の中だった。
「その結果、王の手は血に染まった。」
その夜は、月がとても大きい夜だった。
「王は貴女を求めたが、血に染まった手では貴女に触れる事は出来ないと悟った。」
一歩踏み出すと、足元のリンドウの花が淡い光を放った。
「そして王は、求める道を失った。」
もう一歩踏み出すと、また違うリンドウが光を放つ。
「貴女が何故いなくなり。」
ルイーダが迷わないように、導いているかの様だった。
「貴女が何をしていたのか、誰も知り得ない。」
畦道を進み木々の間を通り抜けた時、突然視界が開けたかと思うと、目の前には巨大なドーム状の温室が現れた。
「ただ一つ、分かるのは。」
ドームの中は外界と打って変わり、色とりどりの光を放つ短い下草だけが繁っていた。
「貴女が側にいてくれたなら、未来は変わっていた。」
その中央。
月の光に照らされて、静かに佇むのは、みすぼらしい小さな小屋だった。
「こちらです。」
歩を進める度に、草むらから朧げな光を纏った羽虫達が舞い上がっては消えていく。
小屋の前に立つと、小さな木戸を軽く叩いた。
中から誰かの声が聞こえる。
そんな事はなかった。
戸を開けると、小屋の中は手狭ながらも、裏庭に広がる森とは異世界の如く、綺麗に手入れが行き届いた、清潔感溢れる空間だった。
何の匂いかも分からないが、仄かに香る甘い匂いが鼻をくすぐった。
一間しかないその部屋には、小さな釜戸。
一人用のベッド。
オーク材とおぼしき衣装ダンス。
そして、中央には小綺麗なテーブルとイス。
一人用のベッドには、一人の年老いた男が横たわっていた。
身体中から肉はこそげ落ち、骨と皮だけになった男は、それでも息をしていた。
ルイーダは男の枕元に静かに近付いた。
男はルイーダに気が付いた様で、うっすらと目を開くと、深く息を吸い込み、
そしてゆっくりと目を閉じた。
「ヨハン。」
ルイーダの声が届いたのだろう。
男は満足そうな表情を浮かべた後、それきり、動かなくなった。
「私の名はフランツ二世。この国の王です。」
ルイーダは、枕元に膝を付くと、ベッドから男の手を取り出して、そっと握った。
「これは先王である私の亡き父と、初代王妃からの最期の伝言です。」
ルイーダは干からびた男の頭をゆっくりと撫でた。
その安らかな眠り顔は、子供の時と何も変わらない、穏やかな表情だった。
「貴女が作り、貴女が壊したこの国で、滅びゆく最期の時まで、この国を見守っていて下さい。」
旅人の酒場は町のスラムに大昔からある、勇者達の集まる酒場だ。
ある時代には、魔族と戦う戦士達が仲間を募る為に集まり、
そしてまたある時代には、他国からの侵略を防ぐ為に雇われた傭兵達の安息の場となり、
いつの世も、人々に安らぎを与えてきた。
人は噂する。
何でも、ここの主人はこの国が誕生した頃から生きている、不老不死の魔女らしい。
いやいや、この国を昔から護ってきた守護聖人だ。
しかし、本当の事は誰も知らない。
ヨハンの死を看取ってから数百年。
もはやルイーダの犯した罪を知る者はほとんどいない。
かろうじて創世記の伝説として、王族が所有する書物に記されているのみだ。
ルイーダは今日も薄暗い裏通りに看板を出し、旅人を迎える。
きっと、今日看板を出さず、そのままずっと出さなくても、誰もルイーダを咎めたりはしないだろう。
しかし、それでもルイーダは看板を出し続ける。
これが自分に与えられた罰なのだから。
「おはよう。ルイーダ。いい朝だね。」
隣に住む、恰幅の良い主婦が話し掛けてきた。
「おはよう。」
ルイーダは手を振りながら主婦に近付いた。
「そうだ。お向かいのお家、赤ちゃん生まれたの?」
「あぁ!昨夜、無事に生まれたみたいよ。男の子だってさ。」
「そぉなんだぁ。良かったねぇ。」
「あんたもべっぴんさんなんだから、早いところ良い人見付けて子供を作りなよ。」
「んー。まぁ、私なんか相手にする酔狂な人なんて滅多にいないからさぁ」
「まーた謙遜しちゃってぇ。」
「ところでさ、赤ちゃんの名前、なんていうの?」
「えっと、確かなんだか珍しい名前だったねぇ。ほら、あそこの奥さん、異国の出身だからさぁ。」
「そっか。出身地の言葉で名前を付けたのかな?」
「えーっと、なんて言ったかなぁ。うーん。あっ、そうそう!
その男の子の名前はね、
【エジル】
って言うんだって!」
新訳・エジルと愉快な仲間
おしまい。
これにて第四章【創世記】は終了です。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
明記した通り、これはエジルとルイーダが住む国が誕生するまでの物語です。
そして、人間の歴史が記され始めた頃を描きました。
ルイーダはエジルと出会うまで、長い長い時間を待ち続けてきました。
そうしてようやくエジルと出会い、彼女は救われるのです。
もし可能であるならば、再度、第一章から振り返ってみて下さい。
また違った感覚でお読み頂けるのではないかと思います。
そしてこれで【新訳・エジルと愉快な仲間】は完結致します。
ですが、ルイーダの生きた年月だけ、物語は生まれます。
スピンオフという形で、またお目にかかることがあるかもしれません。
その時はどうぞ宜しくお願い致します。
長い間お付き合い頂き、本当にありがとうございました。




