異変
夢を見た。
よく覚えてはいないが。
とても悲しい夢だったと思う。
夢の中でヨハンは泣いていた。
大切なものを失った。
それだけは覚えていた。
ヨハンが目覚めたのは、誰かの腕の中だった。
「おはよう。」
ルイーダが微笑んだ。
「なにその顔。」
とても面白いものを見付けたかのように、ヨハンの顔を除きこんで、ルイーダが笑った。
「う、うわぁぁぁぁ!」
ルイーダの胸に顔を埋め、ヨハンはまた泣いた。
「なんだよぉ、甘えん坊だなぁ。」
「だってさ、だってさ!」
泣きじゃくるヨハンの髪を、ルイーダの手が愛しそうに優しく撫で下ろした。
「俺、俺、ルイーダが死んじゃうと思って、死んじゃうと思ってぇ!」
「ヨハン。」
ルイーダの声が沈んだ。
その声に驚き、ヨハンはルイーダの顔を見上げた。
「ありがとう。
ヨハンのお陰で死なないですんだよ。」
ルイーダはヨハンの身体をきつく抱き締めた。
「危ない思いをさせてごめんね。」
傷が癒えたとは言え、ルイーダの出血はとても酷かった。
かなりの量の血液を失ったルイーダは立ち上がるのがやっとで、ヨハンの支え無しでは歩くこともままならなかった。
ヨハンも初めての大冒険に相当な体力と気力を消耗しており、女性としては大柄なルイーダを支え続けるのは困難だった。
少し進んでは休み、また少し進んでは休み、二人はゆっくりとゆっくりと家路についた。
崖を登り、森を歩き、たまに食べられそうな木の実やキノコを見付けては、体力を取り戻すために二人で分けあって食べた。
とても疲れた。
だけど、ヨハンにとっては何よりも変えがたい、とても大切な一日となった。
それからしばらく森の中を歩いた頃だった。
「ねぇ、ヨハン。」
「どうしたの?」
「さっき食べたキノコね、すんごい元気出るやつだったわ。」
「え?」
「すんごい元気出た。
一人で歩けるかも。」
「嘘だよ。まだフラフラじゃないか。」
「大丈夫、大丈夫。
ねぇヨハン、ちょっとあっちの方へ行ってごらんよ。
何か食べられそうな果物がなってる気がするから。」
言いながらルイーダはヨハンの肩から手を離すと、一人で歩き始めた。
前だけを見つめながら。
「ね、ねぇ、ルイーダ?
どうしたの?おトイレ?」
「そうそう。
だから早くあっちの方へ行ってごらん。
ここから見えない場所へ。
早く。」
ルイーダの言葉がどんどん冷たく鋭くなっていくのを感じ、ヨハンはようやく何かが起きていることに気が付いた。
「うん。分かった。」
その場から小走りで遠ざかると、見える限りで一番大きな木の幹に隠れ、ルイーダの方を伺った。
何かが草を踏む音が聞こえた。
段々とルイーダの方へと近付いてくるようだった。
規則正しい足音の主は馬だった。
しかし馬だけではない。
人が乗っていた。
「驚いた。
こんな森の中に人がいるなんて。」
ルイーダの正面から馬に乗った男が現れた。
少し距離を取って馬を止めると、馬上からそんな声を上げた。
見たことの無い出で立ちのその男も、突如として現れた女を警戒しているようだった。
ヨハンの様に植物から作られた布で出来た衣服を纏ってはいたが、その上から不思議な衣服を更に重ねていた。
布の様にシワが入っていない、硬い素材を張り合わせた物だろうか。
形が崩れることなく、男の身体をがっちりと守っているかのようだった。
そして腰からは剣のような物を吊り下げていたが、ヨハンの知っている木の剣とは何かが違う。
年の頃は三十手前ほどであろうか。
短い髪と同じ灰色の髭を蓄えて、日に焼けたその顔は、整っているとは言い難いが精悍で、実に頼もしい印象を他者に与えた。
「ここで何をしているんだ?」
自分に敵意は無いという意思表示だろうか。
男はゆっくりとした口調でルイーダに問い掛けた。
「家に帰る途中なだけ。この森は私の庭だから。」
普段では聞いたことの無い、低く毅然とした口調でルイーダが答えた。
「なんと、君の庭か。
それは失礼したね。
すまないが、どうやら迷ってしまったらしい。
この森の出口を教えてくれないか?」
「どこに行きたいの?」
「森のはずれに集落があるはずだと聞いてね。
そこを教えて貰えると助かる。」
集落。
ヨハンの村のことだろうか。
ルイーダは左手で村の方向を指差した。
「あっちか。
ありがとう。行ってみるよ。
ところで君、怪我をしてるのか?」
男の視線がルイーダの腕に向かっていた。
世界樹の雫で傷は癒えたが、それでも完治した訳ではなく、ハンカチを傷口に巻き付けていた。
それでなくともルイーダの袖には魔獣の爪痕がくっきりと残っており、何よりも血まみれだった。
「怪我はしてない。
してたけど、今はしてない。
余計な詮索はやめて。」
「してたけどしてない、か。
面白いことを言う人だね。」
男が馬から降りた。
「近くに行っても?」
「ダメ。」
「そうか。
どうだろうか?
集落まで案内してくれないか。
そうしたら、君にこの馬を貸そう。
僕が引くから乗っていくといい。」
ルイーダはしばらく考えるように指を顎に当てると、
「出ておいで。」
ヨハンの方に振り返り、少し声を張った。
その呼び掛けにヨハンはすぐさま応え、隠れた時と同じく小走りでルイーダの元に駆け寄った。
「なんと。子供もいたのか。
君の子かい?」
「余計な詮索はやめてと言ったでしょ。
この子を馬に乗せてくれるなら、案内してあげてもいい。」
「何度も失礼をしてすまない。
勿論だ。その子を馬に乗せよう。
この馬は僕の自慢の馬でね、とても力強い子なんだ。
君も乗るといい。
君達ふたりくらいなら楽に運べる。」
ヨハンは馬に乗るのは初めてだった。
ルイーダがヨハンのお尻を馬上に押し上げると、自らも鐙に足をかけた。
「ひとりで乗れるかい?」
男がルイーダに手を貸そうと近付いてきた。
ルイーダは一瞬止まって男の顔を一瞥すると、男から視線を外さずにヒラリと鞍に飛び乗って見せた。
「お見事。」
男は苦笑しながら頭を掻いた。
ルイーダが警戒を解いていないのは分かっていたが、ヨハンとしては、この男と出会ったことは悪くなかった。
正直、手負いのルイーダをあのまま歩かせておくのも辛かったし、自分自身も小屋まで歩き続けるのは限界だった。
安心からか、腹が鳴った。
「なんだ、腹が減ってるのか?」
男は馬を止めると、鞍の後方に括りつけた袋の中をまさぐり始めた。
「旨いぞ。」
ヨハン達に差し出されたのは、ヨハンの手のひらほどもある大きな干し肉だった。
「いいの?」
目を輝かせ、その干し肉を受け取ったヨハンだったが、あっ!と思い背後に座るルイーダの顔を見上げた。
思った通り、不機嫌そうな表情で男の顔を見つめていた。
「そうカリカリしなさんな。
毒なんて入ってやしないから、食えよ。」
ぐぅ。
先程よりも更に大きな音で、ヨハンの腹はもう限界だと主張した。
仕方ない。
諦めたようにため息をつくと、ルイーダは男から干し肉を受け取った。
それを見たヨハンは嬉々として干し肉にかぶりついた。
「うえっ!」
その味に驚き、ヨハンは干し肉を口から吐き出した。
「なんだこれ、辛い!」
「これはコショウっていうの。
ずっとずっと遠いところでは、このコショウで肉が腐るのを防いでるの。
危ないものじゃないから食べて平気だよ。」
「ほう、詳しいな。
子供の口には辛すぎたか?」
「ううん。辛いから驚いただけ。
分かってれば食べられるよ。」
再びヨハンは肉に噛りついた。
ルイーダの食生活は基本は野菜や果物が中心で、むしろそれしか食べないのだが、ヨハンが肉を食べるのは実に半年ぶりのことだった。
「あなた。」
意外にもルイーダから男に声を掛けた。
「海を渡ってきたの?」
「そうだ。」
「海?」
ヨハンは肉を噛み締めながらルイーダを見上げた。
「そうよ。そう言えばまだ教えてなかったね。
この世界はね、とても広いの。
あなたの村を出て、川に沿って何日も進んでいくとね、それはそれは大きな水たまりがあるの。
今私達が立っているこの大地は、その水たまりに囲まれた島っていうものなの。」
「水たまりに囲まれてる!?」
「そう。
そしてその水たまりを、船っていう乗り物に乗って何ヵ月も進んでいくと、こことは違う島があって、そこには私達以外の人達が住んでいるの。」
「俺達以外の人達?」
「この人みたいなね。」
そう言って男を手で示した。
男は驚いた顔をした。
「何でも知ってるんだな。
では僕がどこから来たか分かるかい?」
「コショウが採れるのはこの島の北にある大陸の南部。
なめし革で鎧を作る技術と、鉄製の剣を作る技術はその地域内のさらに西寄りの人達しか持ってなくて、その技術は門外不出の秘技。
本来持ち出しすら許されていない物を所持してる以上はそこの出身。」
「すごいな。
まさかこんな森の中で出会った人がそこまで知ってるとは思わなかった。
君、一体何者なんだ?」
「森に住む妖精。」
「ますます面白いな、君は。
そうだ。
僕はここの集落に物々交換をしに来たんだが、何か面白い物を知らないかい?」
「物々交換?」
ヨハンが口を挟んだ。
「何と交換するの?」
「もちろんコショウだよ。
袋の中身いっぱいに詰めてきたんだ。」
「うーん。俺の村にそんなに珍しい物、ある?」
ヨハンの問い掛けに、ルイーダは首を振った。
「私達は関わらない方がいいことよ。」
ヨハンには分かっていた。
ルイーダの持つ砂糖や薬はそれに値すると。
もし村に持って行き、食料と交換したならば、たったの一握りで何ヵ月分の食料と交換できるであろうことを。
しかしルイーダがそれを明かさなかった以上、ヨハンが教えることではない。
ヨハンはルイーダに調子を合わせることにした。
「あの村には何もないよ。貧しいんだ。」
「そうか。
まぁとにかく行ってみるよ。
君達が知らないだけで、他の地域では珍重されるような物があるかもしれない。」
この男もまた、非常に聡明な頭脳を持ち合わせていた。
ここでの物々交換を成功させる鍵はこの女だと、この短時間で悟った。
同時に、どうやらとても気難しいこの女を懐柔するのは容易ではなさそうだとも悟っていた。
男はしばらくこの島に滞在する予定だった。
ゆっくりと時間を掛けて、この女に接近しよう。
会話を続けながら思案していた。
陽がかなり高くなり、三人を真上辺りから照らし始めた。
周囲の景色も、ヨハンの見覚えがある場所に変わってきた。
「ここまで来れば村はすぐそこよ。
私達が案内するのはここまで。」
ルイーダが口を開いた。
「そうか。
せっかくだ。君達の家まで送ろうか。」
「ダメ。」
乗った時と同様に軽い身のこなしで馬から降りると、ヨハンに向けて手を広げた。
ヨハンは躊躇した。
この男の前だから無理して軽やかに動いてはいるが、そんな状態じゃないのは火を見るより明らかだ。
しかもあれだけの深手を負った腕でヨハンの身体を支えようなど、無茶にも程がある。
「君は怪我人だろう?」
男がヨハンの脇に手を添えて、体重を移すように促した。
ルイーダには悪いが、やはり男の力。
ヨハンは安心して身体を任せることが出来た。
ヨハンをルイーダの側に降ろしてから、男は手を差し出した。
「ん?」
ヨハンにはその意味が分からなかった。
「なんだ、握手を知らないのか?」
「握手?
「お互いの手のひらをがっちり握り合うんだ。友達になった証なんだぞ。」
そういうものなのか。
ヨハンは男の手を握ってみた。
男はニッコリと笑いながらヨハンの手を握り返してきた。
なんとなくだが、心が温かくなった。
それから男はルイーダにも手を差し出した。
そっちは難しいんじゃないか?
ヨハンはルイーダの顔色を伺った。
しかし意外にも、ルイーダはすんなりと男の手に自分の手を重ねた。
「干し肉をありがとう。
あと、ここまで乗せてくれて。」
あまりにも意外だった。
男の表情が一瞬で明るくなったのが見てとれた。
「なに?」
「い、いや、まさか君からお礼を言われるとは思ってなかったから。
こちらこそ案内をありがとう。
助かったよ。」
「じゃあね。」
ルイーダがくるりと踵を返した。
「お、おい。
もう行っちゃうのかよ?
名前は?」
振り向くことなく、
「ルイーダ。」
一言だけ言って歩き始めた。
「俺、ヨハン。」
ヨハンも一言だけ言って、ルイーダを小走りで追い掛けた。
「僕はフランツ!
しばらくこの土地にいるから、また会ってくれよな!」
背後でフランツが声を張り上げた。
ヨハンが振り返ると、フランツの顔が少し赤くなっている気がした。
それからルイーダの顔を見上げた。
ほんのり頬が赤く染まっている。
のを期待していたのだが、その表情は固く強張っていた。
つづく。




