世界樹の雫
ルイーダの大きな肩掛け鞄を背負い、ヨハンは花畑の縁に立って洞窟周辺の地形を思い返していた。
花畑から岩までの距離。
岩から洞窟までの距離。
ヨハンの体感で、ルイーダの走る速度は軽く猟犬ほどもあったはず。
しかしそのルイーダですら魔獣から逃れるには岩までの距離がギリギリだった。
ヨハンの足では到底逃げきれる距離ではない。
ならばどうやって洞窟まで到達するのか。
ぐるりと周囲を見回した。
川。
川面の波を見る限り、水深はヨハンの膝程度か。
これでは魔獣も侵入できるであろう。
その線は無い。
崖。
ゴツゴツとした岩と泥が混ざった、ほぼ直角に近い岩肌から、時折貧弱なシダ植物が転々と生えている。
可能性はこっちしかない。
ヨハンは崖に近付くと、意を決してそれを登り始めた。
上手いこと足場を確保できれば、案外簡単に登れるようだ。
始めこそ足を滑らせたり苦戦したヨハンだったが、コツを掴んでからは比較的スムーズに進むむことが出来た。
ある程度の高さまで登ると、そこから右方向に腹這いで移動する。
そのまま洞窟の真上まで辿り着けば、あとは飛び降りるのみだ。
崖を伝い出してしばらくした頃だ。
例の岩の辺りまで差し掛かった時、魔獣がヨハンの存在に気が付いたようだった。
岩壁に前足を掛け、こちらを見上げているのが目に入った。
ヨハンの思った通り、魔獣は身体の構造上、壁や木に登ることは不得手だった。
助走をつけて岩の上から跳躍すると、ヨハンの足元ギリギリを爪が掠めていった。
ヨハンは急ぎ、更に高度を上げた。
何度か飛び跳ねた後、ヨハンにはどうあっても届かないと悟ったようで、魔獣は跳躍を諦めた。
代わりにヨハンがいつ落ちてきても捕食出来るよう、虎視眈々とヨハンの動向を伺い始めた。
ここまではヨハンの筋書き通りに事が進んでいた。
行く手を亀裂が遮るまでは。
認識してはいたものの、遠目からではそこまで問題としていなかった。
恐らくヨハンの歩幅で二歩分程しかないであろうその小さな溝は、いざ目の前にすればとてつもなく大きくて深い奈落への落とし穴だった。
左腕と左足で身体を支え右腕を思い切り伸ばしてみるも、どうしても対岸には届かない。
飛ぶしかない。
ヨハンの決断は早かった。
一旦、体勢を整えると、身体のバネだけを使って飛び上がった。
反動で鞄が揺れた。
それが致命傷になった。
前に飛ぶ力が鞄によって乱され、空中で失速したのだ。
内臓が一気に縮まり上がるのが分かった。
ヨハンは空中で目一杯に短い右腕を伸ばした。
指先だけが微かに対岸のシダの葉に触れた。
それだけが頼りだった。
全ての力を込め、シダを絡めとった。
しかし、脆弱でか弱いその葉はヨハンの体重を支えてはくれなかった。
ヨハンの小さな手の中で、シダは無情にも引き裂かれた。
魔獣にとっては待ち望んだ瞬間だった。
ヨハンはバランスを崩し、頭から崖を滑り落ちた。
魔獣もそれに合わせて再び飛び上がった。
落ちるヨハン。
飛び上がる魔獣。
真っ赤に熟れた果実の色をした口腔が急速に迫り来るのが見えた。
ガクン!
ヨハンの落下が止まった。
ヨハンの少し長めの髪の毛を一束だけ噛り取ると、魔獣はヨハンから遠ざかっていった。
見ると、ルイーダの肩掛け鞄が崖から飛び出した細い岩に引っ掛かり、ガッチリとヨハンを受け止めていた。
またもルイーダに救われた。
宙吊りのまま、掴めそうな岩を探し当てると、ヨハンは慎重に体勢を立て直した。
身体中が焼けるように熱かった。
ようやく木の葉にへばりついたカエルのような姿勢に戻ると、深く溜め息をついた。
(あと少し。)
再び岩壁を伝い出した。
間もなくヨハンは洞窟の上に辿り着いた。
ここから先のやるべき事は、ヨハンの想像でしかない。
成功するかどうかは分からない。
ヨハンは脇腹にぶら下がった鞄に手を掛けると、ベルトを外しながら眼下を観察した。
苛立ちを隠せない魔獣がしきりに洞窟の出入りを繰り返していた。
魔獣が入り口からほんの少し離れた瞬間を見計らい、ヨハンは鞄の中身をぶちまけた。
ルイーダの採取した薬草が、洞窟入り口の地面に降り注いだ。
「ギャン!?」
魔獣が大きく飛び退いた。
ヨハンの想像は見事に現実となった。
苦手な薬草の匂いを嫌い、洞窟から相当の距離をとって、威嚇するような唸り声を上げていた。
そして、その距離から近付いてくる気配もない。
ヨハンは洞窟に結界を作ることに成功したのだ。
それを見届けると、ヨハンは洞窟のうわべりに手をかけてぶら下がり、内部へと向かって反動をつけて飛び降りた。
洞窟の高さは、ゆうにヨハンの生家の屋根と同じくらいはあった。
子供が飛び降りるには高過ぎる。
下手をすれば骨折では済まないだろう。
しかし、ヨハンに躊躇はなかった。
意を決して。
そんな表現は相応しくない。
なんの迷いもなくヨハンは暗闇の洞窟に身を投げ出したのだ。
お世辞にも華麗とは言えなかったが、湿った土のお陰で何とか無傷で着地に成功した。
背後で魔獣の咆哮が聞こえた。
獲物を目前にして捕らえることが叶わぬ怒りの咆哮だろうか。
鞄から取り出した松明に火打石を使って火を灯すと、精一杯かかげて前方の様子を伺った。
どうやら見える範囲では、洞窟は削り取られたように平坦な作りをしているようだった。
ヨハンは静かに歩き出した。
ところどころ、魔獣の餌食となったのであろう動物が骨となって朽ち果てていた。
そして時折、松明の光に驚いたコウモリの群れが、ヨハンの頭上を飛び交っていた。
どのくらい歩いただろうか。
どこからか水のぶつかる音が聞こえ始め、長かった洞窟は、遂に終焉を迎えた。
突然開けた空間が現れた。
天井には無数の鍾乳石が連なって、次々と雫を落とし、集まった雫は洞窟の奥に大きな湖を生み出していた。
もし、ここに来た動機が別のものであれば、なんとも心打たれる光景として写ったことだろう。
しかし今のヨハンには、自然の作り上げた神秘に感動するだけの余裕はなかった。
ぐるりと周囲を見渡すと、湖の奥だろうか、
何かぼんやりと光る物が目に留まった。
ヨハンは駆け出した。
湖岸をぐるりと回り込み、光を目指した。
少しずつ、光の正体が見えてきた。
植物だった。
ヨハンの膝下ほどの背丈の頂点にはユリに似た花を咲かせ、その美しい花の雌しべと思われる部位が仄かな光を放って暗闇に浮かび上る。
そんな幻想的な植物は、この広大な空間の中のほんの少しのスペースに固まって群生していた。
松明を地面に突き刺して、ヨハンは鞄から図鑑を取り出した。
幻想的な光を湛える花の根元。
芝にも似た雑草を一房引き抜いて、ルイーダの描いた絵の隣に並べてみた。
世界樹の雫。
見た目には何の変哲もない雑草にしか見えない。
その小さな一房こそが、ルイーダの命を繋ぎ止める最後の希望だった。
世界樹の雫を大切に鞄にしまい込んだ時だった。
聞き覚えのある遠吠えが、洞窟中に響き渡った。
通路から蝙蝠の群れが飛び込んでくる音がする。
何かから逃げているような、そんな激しい羽音。
少しの覚悟と獲物への欲望があれば、あんな子供騙しの結界など、飛び越えるのは容易であろう。
魔獣の侵入を直感した。
ヨハンは地面に突き刺した松明の炎を見つめていた。
ゆらゆらと燃える炎。
ヨハンはじっと待った。
ふわり。
ほんの一瞬だが、炎がゆらめいた。
松明を掴むと、揺らぎと真逆の方向にある壁に駆け寄った。
ルイーダは、世界樹の雫を使って薬を作った。
つまりここへ来たことがある。
そしてこの洞窟の主である魔獣は今もまだ生きており、ヨハンやルイーダの命を奪おうとしている。
魔獣を駆逐せずにどうやってここから生還した?
ルイーダならどうやってそれを成し遂げたのだろう。
ここへ来るにあたり、ヨハンが考えたことはその一点だ。
ルイーダなら、どうする?
ヨハンはルイーダになったつもりで考えた。
この半年間、ずっと一緒にいた。
いつだってルイーダの考え方を学んできた。
誰よりも憧れた。
誰よりもルイーダになりたいと思った。
誰よりもルイーダに認められたかった。
誰よりもルイーダの為に閃いていたかった。
導き出された答えはひとつ。
ヨハンは岩の隙間に手を当てた。
微かながら、冷たい風を感じた。
「やっぱり。」
屈んだヨハンより少し小さな岩の向こう側から、確かに風が流れ込んでいた。
この裏側から外部と繋がっている。
「抜け穴だ。」
ルイーダならばこうすると思った。
自然が作ったものなのか、ルイーダが作ったものなのかは知る由もない。
ルイーダならば。
岩に手を掛け、力を込めて押してみた。
一度力を緩め、今度は強く引いてみた。
こういうところもルイーダだ。
ヨハンは大きく息を吐いた。
岩はびくともしなかった。
魔獣が吼えた。
近い。
ヨハンはここへ来て初めて焦りを感じ出していた。
流石に岩をどかす方法までは考えていなかった。
むしろ普通であれば、この大きさの岩をどかそうなどは考えもしないことだ。
どかす方法など知らなくて当たり前なのだ。
思い切り歯を食い縛り、再度岩を引っ張った。
「あぁぁぁぁ!!」
どんなに強く力を込めようと、岩はどっかりとその場に収まったまま動く気配すらなかった。
鍾乳洞に魔獣の咆哮が響き渡った。
湖の対岸は暗闇で包まれ、魔獣の姿を捉えることは出来ない。
しかし、土を踏む音、荒い呼吸、そして禍々しいまでの気配が、魔獣がすぐそこにまで迫っていることをヨハンに教えていた。
「くそ!くそぉ!」
力任せに岩を押すも、どうあっても動くような様子はない。
もはやヨハンに時間は残されていなかった。
いよいよ足音が大きくなってきた。
暗闇の中、橙色の宝石のような輝きが六つ。
不気味に浮かび上がるのが見えた。
淡い死の鼓動がすぐそばまで近付いていた。
「なんで開かないんだよ!」
ヨハンは腹の底から声を張り上げると、動かぬ岩の横っ面を力任せにひっぱたいた。
ぐらり。
その動きをヨハンは見逃さなかった。
こういうところがやはりルイーダなのだ。
岩の側面に両手を掛け、少しの力で横に押した。
あれだけ頑なに解放を拒否していた岩はごろりと転がり、なんとも呆気なく抜け穴が姿を現した。
ヨハンが四つん這いになればやっと通れる程の小さな穴だった。
世界樹の雫を潰さないよう、丁寧に、しかし迅速に鞄を穴に押し込めた時、魔獣がこの異変に気付いたようだった。
ゆっくりとした足音が一瞬途絶えたと思った次の瞬間、猛烈な乱打音に豹変した。
ヨハンを逃がすまいと、一気に追い込みをかけたのだ。
ヨハンが抜け穴に飛び込むのと、魔獣がヨハンに飛び掛かるのはまるで同時だった。
背後で物凄い音がした。
振り向くと、魔獣が穴に飛び込まんと岩壁に激突した音だと分かった。
絶対に届かれぬようしばらく穴の中を這って進んでから、もう一度振り返った。
三つの首の真ん中だけを抜け穴に捩じ込んで、ヨハンの足に必死で噛み付かんと悪戦苦闘する姿が見えた。
そのあまりに滑稽な様に、ヨハンは全身の力が抜けるようだった。
冷たい岩肌に覆われた穴ぐらに身体を預け、ヨハンはくったりと横たわった。
まだやり終えたわけではないが、少なくとも死の鼓動は通り過ぎたはず。
それだけでもヨハンが気持ちを緩めるには十分な理由だった。
少し休みたい。
そっと目を閉じた。
何かがヨハンの頬に触れた。
驚いて目を見開くと、小さなネズミが細い尾でヨハンの頬をくすぐっていた。
「わっ!」
驚いて身を起こすと、頭を強かに低い天井に打ち付けた。
後頭部を両手で抱え込み、身悶えた。
ヨハンの動きに驚いたネズミは走り去っていった。
しかしそのお陰で、意識がはっきりと覚醒した。
「ありがとう。」
小さな救世主の後ろ姿を見送った。
魔獣から逃れる際、松明は鍾乳洞に置いてきた。
ヨハンは鞄を携えて、暗く狭い穴ぐらを四つん這いで進んでいった。
時間も距離の感覚もなく、永遠にも感じられた。
どれだけ進んだだろう。
気が遠くなり始めた頃だった。
前方に紫色をした点のようなものが見え始めた。
出口だ!
赤子のような姿勢ながら、ヨハンは全力で前へ前へと進んだ。
遂に細く小さな洞窟にさよならをする時が訪れた。
紫色は夕暮れの色だった。
ヨハンが顔を出したのは、花畑を眼下に望む崖の中腹程度の場所だった。
まだほんのりと明るい花畑を見渡すと、比較的近い場所にルイーダの姿を見付けた。
乱暴に穴から抜け出して、かなりの高さの崖を滑り降りると、ヨハンは花畑を全力で走った。
横たわるルイーダの元に辿り着くと、ヨハンは傍らにしゃがみこんだ。
生気がなく、顔色は白く澱んでいた。
そっとルイーダの口元に手をあてがうと、力は無いが確かに息をしていた。
途端に涙が溢れてきた。
ごしごしと目を擦るものの、涙は止まらなかった。
ヨハンは鞄から世界樹の雫を慎重に取り出すと、自らの口に含んで噛みしだいた。
傷に効く薬草とは思えぬ、何とも言えない柔らかい味が口いっぱいに広がった。
ルイーダの左腕を取り、ハンカチを外して、ルイーダが自ら被せた薬草を取り除いた。
磨り潰されて繊維のほどけた世界樹の雫を口から取り出すと、傷口に優しく塗り付けた。
何も起こらなかった。
ヨハンは慟哭した。
泣いて、泣いて、それからまた泣いた。
そのうち泣き疲れて、ヨハンは眠りに落ちた。
つづく。




