魔獣
物事を禁じることは、往々にしてそれを助長することと同義になる時もある。
してはいけない。
は、人の興味をそそる材料だ。
特にヨハンの様な好奇心の固まりには、これ程までの燃料は無い。
草取りに熱中し、自分のことはすっかり目に入らなくなったルイーダを眺めることに飽きてしまったヨハンが、禁じられた場所に興味を示すのにそう時間は掛からなかった。
ルイーダに気取られぬよう、足音に細心の注意を払いながら、その場を抜け出した。
彼女に指し示された曲がり角には大きな岩が鎮座しており、身を隠して先を伺うにはもってこいのロケーションだった。
ヨハンは岩にへばりつくと、そろりと首を伸ばして前方を伺ってみた。
不思議なことに、花畑は岩のある場所に近付くにつれて徐々に姿を消し、ゴツゴツした石の転がる、至って普通の川原に変貌していった。
ヨハンが身を潜めている岩陰から少し先。
川原と崖の繋ぎ目には比較的大きめの洞窟が口を開けているのが見てとれた。
ヨハンの興奮は今が最高潮だった。
本に描かれた三つ首の魔獣の姿を思い浮かべ、ひとりで身震いした。
行くべきか行かざるべきか。
実際は分かりきった自問自答をするこの時間も、ヨハンには最高の愉しみだった。
行くべき。
そっと一歩、足を踏み出した。
と同時に、ヨハンの頬を水が叩いた。
雨かな?
ふと空を見上げた。
ルイーダの言葉が脳裏をよぎった。
「私がニヤニヤしてる時は本当だからね。
お願いだから言うこと聞いてね。」
言うことを聞いておけば良かった。
岩の上。
ヨハンの顔を覗き込むように身を屈め、こちらを見つめていた。
大型の狼よりも更に一回り以上大きな体躯。
ゆうにヨハンの数倍はあろう。
全身を覆う鋼色の太い毛が、呼吸と共に忙しなく波打っている。
まるで吸い込まれそうな深い闇を湛えた一対の瞳と視線が絡んだ。
耳まで割けた大きな口にはナイフのように鋭く尖った牙が無数に並び、その隙間から滴り落ちた唾液がヨハンの頬を濡らしたのだった。
そしてひとつだけでも恐ろしいその首が三本。
並んでこちらを見やっていた。
「・・・あ。」
思わず呼吸と共に声が漏れた。
その小さな声が引き金となった。
魔獣がヨハンに向かって激しく咆哮した。
ビリビリとした衝撃波がヨハンを襲い、鼓膜が破けるかと思うほどの大音量がヨハンの耳をつんざいた。
ヨハンは咄嗟に駆け出した。
魔獣は巨大な体躯に似合わぬ俊敏な動きで岩から飛び上がると、ヨハンの目の前に着地し行く手を遮った。
動物の行動を熟知する者であれば、この時点での魔獣はヨハンが何者なのかを探っている段階だと理解できたはずだ。
しかし残念なことに、ヨハンにそんな知識は無かった。
「うわぁ!」
恐怖がヨハンの頭を一気に混乱に陥らせた。
本能のまま悲鳴を上げ、足元の石を拾い上げると魔獣に放り投げた。
所詮は子供の力。
石は魔獣の真ん中の首にコツンと当たると力なく転がり落ちた。
魔獣の六つの瞳孔が一瞬で収縮した。
ヨハンを外敵と認めた合図だった。
再び魔獣が咆哮し、
そのままヨハンに喰らいついた。
「ヨハン!」
ルイーダの声が響き渡った。
魔獣の首はヨハンの顔を掠めると、背後の岩に激突した。
全力で岩石に噛みついた魔獣はその痛みから大きく身をのけ反らせ、ヨハンの脇にひっくり返った。
「何してんの!?」
倒れ伏す魔獣の腹の上で、ルイーダが片膝を立ててヨハンを睨み付けていた。
ルイーダが魔獣に体当たりを仕掛け、ヨハンに喰いつくのを間一髪で妨いだのだ。
「ル、ルイーダ!」
「ギャウ!」
魔獣が身を捩り、ルイーダを払い除けた。
魔獣の太い腕に振り払われたルイーダは宙に投げ出されたが、空中でひらりと身を翻すと、四つん這いになりながらも何とか着地をした。
「グルル・・・。」
バネの様に跳ね返りながら起き上がった魔獣が、ルイーダの方へと向き直った。
「ヨハン!花畑まで走りなさい!」
魔獣と対峙しつつ、ルイーダが声を張り上げた。
「は、花畑?」
「この魔獣は花畑の匂いが嫌いなの!
あそこまで行けばもう追い掛けてこないから!
早く!走って!」
「う、うん!」
ヨハンは急ぎ、花畑を目指して走り出した。
しかし最初の一歩で足がもつれ、その場に倒れこんでしまった。
あまりの恐怖に腰が抜けていたのだ。
ヨハンの倒れる音を魔獣は聞き逃さなかった。
ルイーダに向かって鋭い爪を立てた腕を一振り。
後方に跳び難なくそれをかわすルイーダだったが、魔獣はそれすら見届けることなく、くるりと背後に向き直った。
(フェイントかよ!)
ルイーダは心中で毒づいた。
片足での着地と同時に、前方に大きく身体を蹴り出した。
(間に合わない!)
ヨハンとルイーダとの間は完璧に魔獣に塞がれていた。
ルイーダは右手の岩へと向かって跳躍した。
魔獣がヨハンへと襲い掛からんと身を屈める。
地面に水平になる体勢で、ルイーダの足が岩肌に触れた。
十分に反動をつけた魔獣が、ヨハンめがけて飛び掛かる。
魔獣の頭上。
岩肌を小さく走って勢いをつけ、ルイーダもヨハンめがけて飛び掛かった。
砂ぼこりが大きく舞った。
ヨハンを両腕で抱え込み、ルイーダは身体を丸めて川原を転がった。
瞬間前にいた場所を、魔獣の爪が大きく抉った。
本当に刹那の差だったが、何とか魔獣よりも先にヨハンを捕まえることに成功した。
転がりながら体勢を立て直しつつ、片腕で身体を跳ね上げると、そのまま花畑へと向かって駆け出した。
背後から魔獣の息遣いを感じるが、振り向いている余裕はない。
ヨハンを抱き抱えたまま、ルイーダは全力で走り抜けた。
大した距離でもないのに、こういう時に限って時間は永遠にも感じるものだ。
長い長い時間を走り続けた。
魔獣の荒い呼吸がどんどんと近付いてくるのを感じる。
あともう少し。
ルイーダの耳元を生温かくて湿った空気が掠めた。
(いる!真後ろに、いる!)
花畑はもう目の前だ。
ルイーダは頭を下げ、最後の力を振り絞ると、花畑に駆け込んだ。
「キャン!」
背後から、魔獣とは思えない甲高い悲鳴が聞こえてきた。
しかし、ルイーダは走り続けた。
咲き誇る草花を蹴り上げながら、そのまま荷物を放り出した場所まで辿り着くと、ヨハンを抱えたままどっさりと花畑に倒れこんだ。
ゼッ!ゼッ!
息が出来ない程に呼吸が乱れていたが、そんな事には構いもせず、ヨハンの顔を両手で包み込んだ。
「け、怪我は?」
ヨハンの顔は真っ青で、歯をガタガタと震わせていた。
「怪我、してるの!?」
ヨハンは首を横に大きく振った。
「良かった。」
そこで初めて、ルイーダに安堵が訪れた。
「帰ろ。」
グイ!
立ち上がらんとするルイーダの衣服を、ヨハンが強く引っ張った。
「どうしたの?
ここは今は安全だけど、夜になったら森には他の魔獣も現れるかもしれないから。
早く帰ろ。」
ヨハンが激しく首を振った。
「どうしたのよ!?」
ルイーダは苛立ち、声を荒げた。
ヨハンの目には涙が溢れ、先程よりも更に激しく歯を震わせていた。
「だってルイーダ!」
ヨハンの視線は、ルイーダの左腕を捉えていた。
「血が!血が出てる!」
ルイーダの服の袖は大きく切り裂かれ、肘から先をおびただしい量の血が流れていた。
「血なんて毎月出るから!
大丈夫だから!
落ち着いて、小屋に戻ればまだお薬があるから。塗ったらすぐに治るから。
大丈夫だから。」
言いながらルイーダは鞄から傷に効く薬草を取り出すと、口に含んだ。
何度か歯で磨り潰してから吐き出して、傷口に被せて強く押さえ付た。
「これで小屋までもつから。
さぁ。早く帰ろう。」
言いながら立ち上がろうとしたが、足に力が入らずに、その場に膝から崩れ落ちた。
「ルイーダ!!」
ルイーダの身体にしがみつき、悲鳴にも近い声を上げるヨハン。
その顔はルイーダよりも青ざめ、恐怖に溢れていた。
「ルイーダ!ルイーダ!」
まずい。
血が流れすぎてる。
動脈が傷付いたか。
これには流石のルイーダも閉口した。
このままヨハンをここに置いては逝けないのに、どんどん意識が遠退いていく。
「ヨハン。
すぐに帰りなさい。
あなたの家に帰りなさい。」
「いやだ!いやだよ!ルイーダを置いて行けないよ!」
ルイーダはヨハンの頬にそっと手を当てると、にっこりと微笑んで見せた。
「大丈夫。
私も、すぐに・・帰る・・・から。」
言い終えて、ルイーダの意識は完全に何処かへと去っていってしまった。
ヨハンの身体中を戦慄が駆け巡った。
全身の毛が逆立つのが分かった。
ヨハンはルイーダの口元に手を当てた。
息をしている。
しかし、その腕からはおびただしい量の血液が流れ出したままだ。
ここままでは本当に死んでしまう。
ルイーダの鞄から、彼女の薬草図鑑を引っ張り出した。
荒々しくページをめくり目的の章を探し当てると、彼女の文字に従って、ルイーダの上腕をハンカチで縛り上げた。
それからまた違うページを追った。
焦りから、手元が言うことを聞かない。
何度も何度もページを行ったり来たりさせながら、遂に辿り着いたのは、
「世界樹の雫。」
魔獣が棲む洞窟の奥に生える強力な傷薬。
以前のヨハンには場所を詳しく示す文字を読むことが出来なかった。
今なら読める。
ヨハンの努力は無駄ではない。
世界樹の雫の生息する場所。
ヨハンの考えた通り、三つ首の魔獣の棲み家、その場所だった。
「ルイーダ、待ってて!」
ヨハンは立ち上がった。
つづく。




