51 二十年前
メイベルのお腹の虫がきゅるると鳴いた。
いつもならこの時間には小間使いのアンが厨房から余ったパンをもらって忍び込んできてくれるのに、忘れられているのか今日くらいは我慢なさいませと言うことなのか、アンはいつまで経っても来てくれなかった。
仕方ないから寝てしまおうとベッドに横になってもメイベルの腹の虫は主張を続けている。
お腹を押さえてため息を吐く。
「きっともう皆様休んでいるだろうし、良いわよね」
誰にともなく言い訳をして、ガウンをひっつかんでそっと扉を開けて辺りを伺った。
頼りない蝋燭の明かりが点々と続く廊下は静まり返っている。
もしも見つかってもいいように、また精一杯猫をかぶって淑やかに部屋を出たメイベルは、都会のお嬢様なら決して足を向けないだろう厨房へと悠然と歩を進めたのだ。
屋敷の厨房を預かる夫人は細やかで綺麗好きな人だが、あいにくと力仕事を任されている下男はちょっと横着者だ。
水瓶の蓋を開けるとまだ水が残っていて、馬や家畜に与える予定の野菜の端切れは籠にまとめて入れられたままになっている。
どうせ明日水を汲みに行くのだから、今日の残りの水はその時に捨てればいい。
野菜の端切れは明日の掃除の時に持っていけばいい。と、考えてサボる姿が目に浮かぶ。
横着者万歳。
火の始末だけは夫人がしっかり管理しているから、メイベルは火を起こすところから始めて残った水を鍋に入れて火にかけ、野菜の端切れを細かく刻み始めた。
やがて沸騰した水に刻んだ野菜と父親の酒のつまみのサラミやチーズも加えてよく混ぜた。
牛乳があれば申し分ないが、さすがにそれは残っていない。
塩と胡椒で味を整えて、あっという間に野菜スープが出来上がった。
一口食べてみる。うん、悪くない。
さっさとお皿によそって厨房でさっさと食べてしまおうと振り返った先に──人の影があった。
「……きゃっ!?」
「危ない!」
手元に熱いスープがあるのも忘れて飛び上がった。皿が傾いてスープが溢れ落ちそうになるのを大きな手が支えてくれる。
「申し訳ない。驚かせてしまいましたね」
本当に驚いたわよ! との言葉は飛び出す寸前で飲み込んだメイベルだった。
なにせ目の前で皿を支えるこの男性は、お貴族様の従者の、黄金の瞳を持つ青年だったのだから。
これでもかと猫をかぶって、小さな声で答えた。
「とんでもございません。わたしこそ急に振り返ってしまって。……その……や、火傷などなさっていませんか」
心の準備ができていなくて目が合わせられない。
そんなメイベルに気付いていないのか、男性は大丈夫ですと丁寧に答えて皿をテーブルへと慎重に移した。
「貴女が厨房に入られるのが見えて、つい覗いてしまいました。もしかして、今からお夕食ですか? 夕食の席にはおいでにならなかったでしょう。どこかお加減でも悪くされているのでしょうか」
優しそうな黄金の瞳が心配そうにメイベルを見つめる。
どこの世界に体調を悪くして鼻歌交じりに野菜スープを作るお嬢様がいるのかとほんの少し呆れつつ、よそ行きの笑顔で首を振った。
「いえいえ。ちょっと小腹が…………ああっ! そうです! 今朝からちょっぴり具合が悪くて……ゴ、ゴホゴホ」
正直な性格が災いした。
ちょっと小腹が空いたのでお夜食に、などと正直に言うお嬢様こそどこの世界にもいないだろう。
しかし誤魔化して咳払いすれば男性は見事に騙されたらしい。
「それはいけない。お一人で部屋まで戻れますか。付き添いましょうか」
などと心から心配そうに言ってくる。
思わず返答に困ったメイベルだった。
時刻は夜半を過ぎ、屋敷は寝静まっている。
最低限の明かりは灯っているとはいえ、女性に自室へと送りましょうかと申し出るのは、なんというか……いやこの男性はとても紳士的な人に見える。メイベルの疑いはむしろ失礼なものなのだろうが……。
そもそも、そういうのって男性が察して言葉にしないのが礼儀ではない? と思わなくもないのだ。
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