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昼間にもかかわらず、歩みを進める廊下は冷え切り、開け放たれた窓からは冷たい風が吹き抜けている。
ふと足を止めて、踏み締める緋色の絨毯を、柔らかさを確かめるように靴底でなぞった。
「…………」
もう、彼女がこれで転ぶことはないだろう。
──魔王国へ帰ってしまっては。
目を瞑り、息を吐いて再び歩み始めた。
立派な装飾の施された両開きの扉の前には厳しい兵士達が門番の如く両脇に立っている。
顔見知りの兵士に向けて、キースは平静を保って声をかけた。
「陛下に、少しお時間を頂けないかと尋ねていただけますか。私の、婚約について。キースが参ったと」
わずかに目を見張った兵士の一人が扉を開けて部屋へと入っていく。
すぐに戻った兵士は「入るようにとの仰せでございます。殿下」と恭しく腰を折った。
礼を言って扉を潜る。国王の執務室では父陛下と──王太子オーグストが愛情のこもった微笑みと共にキースを出迎えたのだった。
中にいるのが父一人だと思っていたキースは内心慌てた。
お忙しい仕事の合間に邪魔をしてしまったと思ったのだ。
「し、失礼致しました。王太子殿下がおられるとは、存じませんでしたもので……。出直して参ります」
これには国王親子は似た動きで首を傾けたのだ。
「ん? 出直すって、どうしてだい? さすがは兄弟だと感心していたと言うのに。考えることは同じなのだなぁと」
「陛下の仰るとおりだ。まさにお前が参ったのと同じ理由で私はここにおるというのに」
「──え?」
同じ理由、との言葉にキースは驚き、目を瞬いた。
「どうして、王太子殿下が私の婚約についてこちらにお越しなのでしょう……?」
オーグストは内心、可愛い末の弟が全く自分を頼りにしていないと分かって泣きたくなったが、そんな心は微塵も表に出さない。
あくまで余裕を持って、弟への親愛の笑みを浮かべ、弟が最も喜ぶだろう提案を堂々と披露したのだ。
「お前から陛下に話をするのは荷が重かろうからな。私から話をと思ったのだよ。レストリド公の令嬢との話を白紙にして、フェリシア嬢との婚約の話を進めたいと言うのだろう?」
それが、何より弟の恐れているものとも知らずに。
その台詞を聞いた時のキースの心臓は、脈打つことを忘れた。それほどまでにキースは唖然とし、呆然として、次いで込み上げてきたのは──猛烈な怒りだった。
「どう、して…………どうしてっ兄上までそんなことを言うんだ!!!」
「なっ……」
弟の喜びを受け取ろうとしていた兄殿下の顔色が変わる。驚愕に目を見張り、自らに鋭い目を向ける弟へ向けて、無意識に手を伸ばす。
「ど……どうしたんだ。急に。落ち着きなさ──」
その手は、淡い青色の瞳に怒りを燃やす弟によって払いのけられた。
「兄上も魔王様も、ライルにゴードンも! 何も分かってない!! 僕は、リディア嬢と結婚するしかないのに!!」
この数日で溜まりに溜まった怒りを吐き出すように、張り上げた声は止まらなかった。
「リディア嬢なら役に立たない外腹の第三王子に嫁がされた可哀想な公爵家の娘と同情されるだけで済む! ……けど……フェリシア嬢は駄目だ……馬鹿にされて見下されて、傷付けられる彼女を守れるだけの力が、僕にはない……」
震える声はまるで雫のようにぽろりと、零れ落ちた。
「僕のわがままで彼女を不幸にさせてしまう……母様のように…………」
静寂に包まれた執務室で初めて聞いた弟の本音に、オーグストは動揺を隠すためか語調を強くして言った。
「……馬鹿なことを、言うんじゃない。メイベル殿が不幸だったなどと、そのようなことがあるものか」
いつも大人しい末の弟は兄を鋭く睨みつけた。
「苦しみながら死んでいったではありませんか。王の愛妾として相応しくあろうとして、その重圧で倒れて。そのまま死んでしまった母のどこが不幸じゃないというんですか」
「その言い方は止めなさい。メイベル殿は陛下の愛妾として認められた身分をお持ちで、それに付随する苦労があることはメイベル殿自身がご理解して受け入れられたのだ。愛妾とはそういうものだ。それに陛下も妃殿下も、可能な限りメイベル殿の立場を守っておられただろう」
「……目の前で母に倒れられて、死ぬまで会わせてももらえなかった僕の気持ちなんて、兄上にわかる訳ない……」
キースの綺麗な淡い青色の瞳は今にも泣き出しそうに揺れていた。両手のひらでその目を覆い隠す。
もう何も見たくないというように。
「今でも毎日夢に見るんです。母がゆっくりと倒れていく後ろ姿が、こびりついて離れない……昨日はフェリシア嬢だったんです。──大丈夫。タイシは心配しなくていい。わたしは頑張れる。そう言って背中を向けるんです。僕は手を伸ばすけど届かなくて、そして──フェリシア嬢が倒れるのを、僕は見てるだけなんです……。フェリシア嬢とは結婚したくありません。彼女を不幸にさせるだけの結婚なんて、出来るわけない…………」
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