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「ありがとう、トガ」
「いえいえ。このお礼には是非あなたのお歌を特等席で聞く権利をいただきたいですねぇ」
「……トガって本当、物好きね。わたしなんかの歌よりも他の子に歌ってもらったほうが絶対いいのに」
「あなた、まだそんなことを言ってるんですか。……ところで、こんな時間にどこかにお出かけですか? 暗くなったら部屋にいるようにって魔王様が小煩く仰ってたでしょうに」
「ああ、たしかに。お嬢さんは早くお部屋に戻ったほうがいい」
呆れたような猫人の言葉に頷いて、遅くまで探し物に付き合わせてしまった男性が慌てたように時計を取り出す。しかしフェリシアは首をブンブンと振った。
「まだ戻らないの。タイシのお部屋に、会いに行くところだったのよ」
猫人と男性が同時に目を瞬かせた。
「……魔族の方が大使と呼ぶのは、もしやキースのことかな?」
「ええ、そうよ。──トガも会ったことあるでしょう?」
「……ありますよ。ありますけれども。……フェル。彼は男性ですよ?」
「……知ってるけど?」
「なるほど。そこからか」
困ったなと頭を掻く猫人と困惑する男性は思わず目を見合わせた。
「……わたしが会いに行ったら、いけないの?」
二人の態度に、フェリシアはだんだんと不安になってきた。どう見ても二人の纏う空気は、行ってらっしゃいの雰囲気じゃない。
事実、男性は身を屈め、まるで小さな子に言って聞かせるような優しい声音で言った。
「ええっとね。この国では女性が暗くなってから殿方のお部屋に出向くのは、あまりお上品ではない振る舞いとされているんだよ」
「……どうして?」
「…………」
どうしてが一番困る問いかけだ。
男性はそっと空を仰ぎ、「うちの子らも小さい時はこうだった……」と呟いた。
そんな、言葉に苦慮する男性の隣で、猫人はやれやれと首を振りつつもニンマリ笑ったのだ。
「ふむぅ。あなたにも分かりやすく言うとですねぇ。つまり、人間にとって交尾は夜間に行われることが多いからということなんで──」
空を切る音がした。
音と共に猫人のすらりとした体躯はスローモーションのように宙に浮き、地面へと落ちる。
残像すらない音速で拳を突き出したフェリシアは、落ちた猫人へと真っ赤になった顔で抗議したのだ。
「こっこっ……そ、そんなつもりで会いに行くんじゃないわよ! 変なこと言わないで! ちょっと、その、お、お話をしに行くだけだもの!!」
猫人からの返事はない。
倒れたままの猫人が見えているのかいないのか、フェリシアは言い訳がましく続けた。
「でも、あ、あんまり良くない振る舞いだっておじさまが言うなら、明日にする。そんなつもりじゃなかったけど! 明日にするわよ!」
おやすみなさい! と真っ赤な頬を膨らませた人魚は男性へと勢いよく頭を下げて、憤然とその場を後にした。
そうして、一連の流れにぽかんと口を開けたまま固まっていた男性はやっと我に帰り、猫人へと恐る恐る声をかけたのだ。
「猫人の族長殿。その……立てるかね?」
猫人は手をひらひらと彷徨わせた。
「……いやはや、お恥ずかしいところを。いや、人魚を揶揄ってはいけないというのは魔族の間では常識でして」
「ならばなぜされたのかな?」
「これも猫人の性というもので」
むくりと起き上がった猫人の頭は短い毛に覆われ天辺には細い三角の耳がピンと立っている。口元の細く長い髭を鋭い爪を持つこれまた毛で覆われた太い指で摘んで、可笑しげに目を細めていた。
内心の動揺を隠して、男性が笑って言った。
「息子達にその姿を見せてやりたいな。うちの子達は猫がたいそう好きなんですよ」
「それはそれは。では御息女も猫はお好きですかな? 国王陛下。この姿は美しいご婦人の前で是非披露したいもので」
ニンマリと笑う大猫の前で、キースやその兄姉達の父、グランドーラ国王はこれ以上ないほど優雅に微笑んで──。
「娘には近付かないでいただけるか。あの子をまだ嫁にやる気はないのでね」
凄みの増す笑みを前に、猫人はまた可笑しそうに笑みを深めてみせた。
翌日の朝早く。
フェリシアはまだ眉の間に皺を寄せつつタイシの部屋を目指していた。
頭の中は昨晩トガに言われた言葉に支配されたままで、あまりよく眠れなかったのだ。
ぴたりと足が止まる。
そして夜中に何度も頭をよぎった想像が、また押し寄せてくる。
──もしあのままタイシの部屋を訪れていたら、もしかして、そういうことになって……?
「〜〜〜っ!!」
浮かんだ想像を消すように手と頭をブンブンと振る。
ああどうしよう。タイシに会いに行くのがあんなに嬉しかったのに、今は恥ずかしくてなかなか足が進まない。
これも全部トガのせいだ。絶対歌なんて歌ってあげないんだから。とフェリシアはむくれるが、でもペンダントは見つめてもらったしなぁ、と怒りはすぐに萎む。
一人で廊下を右往左往としていると、タイシが向かいから歩いてくるのが見えた。その手には何かの包みを持っている。
フェリシアはそっと胸を撫で下ろした。
ああ、よかった。廊下で会ったのなら『そういうこと』にはならないだろう。
あれ。でも……人間は、部屋でしかしないのかな?
またしても良くない想像に全身が熱を持ち汗ばむ。
どうしよう、どうしよう。
タイシが来ちゃう。
──あれ……?
フェリシアの焦る心を落ち着かせたのは、タイシの表情だった。
「おはよう、フェリシア嬢」
それはなんだか。
「昨日言ってた、リディア嬢とのお食事だけど。二人きりで食事がしたいから、君は遠慮してもらえるかな。──婚約者同士の食事会なんだ」
魔王国から帰る日の、何かを諦めたような、渇いた空のような空虚な微笑みだった。
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