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 バスケットを片付けて敷物を畳み、今日もタイシが帰り支度をするのを水の中で見守る。

 『帰るね』と言われて『またね』と返すのがこの後のいつものやり取りだ。


 なのに今日のタイシは穏やかに微笑みながらなかなか帰ると言わない。


 ゆっくりとフェリシアを見つめてくる。


 首を傾げると可笑しそうに笑って、口を開いた。


「『帰るね』」


「うん。また──」


 明日ね、と言おうとしたフェリシアの声は、遮られた。


「フェル」


 そう言ったタイシが浮かべる笑顔は柔らかな光が灯り、どこか吹っ切れたような、カラッと晴れた空のような明るいものだった。


「フェル、────」


 さっと体を翻して、タイシは池から離れていく。


 この日、初めてフェリシアはタイシにまたねと言いそびれた。


 以来、タイシがこの池に来ることはなかった。






 朝の日差しは明るく、森の深い緑と朝露がキラキラと輝いて、水気を含んだ爽やかな風が吹いていた。


 昼には暖かくなって、日差しをたっぷり浴びた草花の濃厚な香りが辺りに立ち込めていた。


 陽が傾き、辺りを橙色に染める頃には、高い木々から長い影が落ちて、遠くに見える夕陽に目を細めた。


 すっかり陽が暮れれば、夜空に煌く満天の星が水面に映って、空と池の境界を無くした。


 代わり映えのない日々がいくつか過ぎて、フェリシアは決断した。


 会いに来ないならこっちから行くまでよ、と。


 池の淵に手を突いて、よいしょと体を持ち上げる。

 水から出た尾びれは形を変えて、しっかりと地面を踏み、同時にフェリシアの体は薄い白の布地で覆われて、膝丈のワンピースになった。


 元気のなかったタイシの姿を思い出して少し心配な人魚は、不慣れな足取りで一路、魔王城を目指した。





 魔王城の廊下を、堂々たる体躯の男が靴音を響かせて歩いている。三十をいくつか過ぎたばかりかという精悍な顔立ち、二メートルはあろう長身のその男の黒髪からは鋭い角が二本覗き、マントの裾からは先の尖った細く長い尾が垂れている。

 真正面から向き合う形になった侍女が廊下の端に寄り頭を下げた。

 彼女らに通り様に声をかけてやりながらも、男の足音が緩むことはない。


 コツコツコツコツ。


 コツコツぺたぺた。


 ぺたぺた?


 自らの靴音に重なる音に男は違和感を覚え立ち止まった。妙な音だけが廊下に響き、遠くから声がした。


「──おーさまー! 魔王様ぁー!」


 自らを呼ぶ声に振り返り、魔王は正しくギョッとした。


「魔王様、こんにちは。あのね、聞きたいことがあるんですけど」


「その前に後ろを見てみなさい」


 後ろ? と、フェリシアは素直に振り返った。

 長く続く廊下には、歩いて来た跡が茶色く点々と続いている。


「フェル。フェリシア。何度も言っているが、濡れたまま森から歩いてくるんじゃない。掃除するのは侍女達なのだぞ。あっ! お前、また裸足で来たのか! 森は裸足で歩くなといつも言っているのに。小石でも踏めば怪我をするだろう! 人型になるときは服だけじゃなく靴も用意しなさいといつもあれほどっ……いや説教は後だ。とにかくそこのソファに座りなさい」


 魔王の手にはいつの間にかタオルが握られ、廊下の角に作られた扉のない小部屋のソファへと押しやられる。


「そんなの後でいいですから。それよりも私、魔王様に聞きたいことが」


「それこそ後でよろしい」


 フェリシアの髪にタオルを乗せて床に膝をついた魔王は、フェリシアの足を取りもう一つのタオルで綺麗に拭う。ぶつくさとお説教を続けながら。


「まったく、人魚族はびしょ濡れで城に入ってくるわ、羽根の生えた種族は羽を畳まないから廊下の端から端まで占拠する上に床を羽だらけにするわ、無形型の種族は土やら何やら体にくっ付けたままで来るもんだから廊下が汚れるし、やっとのことで他種族を纏め上げたというのにその後になってこれほど面倒が絶えんとは予想外だ……後で必ず掃除を手伝うんだぞ。彼女達も慈善事業ではないのだからな」


「はぁい」


「返事を伸ばさない!」


 叱られて肩を竦める。


 どこから取り出したのかブラシで髪を梳き、見違えた姿になったフェリシアを満足げに眺めながら魔王は改めて尋ねた。


「それで、聞きたいこととはなんだ?」


「タイシに会いたいんです。どこにいますか?」


「──大使? お前は大使殿と知り合いなのか? 彼ならとうに国に帰っただろう」


「え?」


 目を大きく見開き、心臓は動きを止めたように静かになった。


 確かにタイシは帰ると言っていた。けどそれが、自分の国に帰るということだったなんて。

 思いもよらなかったのだ。


 フェリシアの心は一瞬で暗く鬱ぎ、最悪の事実が頭に浮かんだ。


「それってもう、タイシに会えないってこと?」


 縋るような桜色の目に、魔王の眉がぴくりと跳ねる。


「……まさか、あの若造……おまえを誑かしていったのか……?」


「たぶらかすって?」


「いやいい。こちらの話だ。……それで魔族語を学びたいなどと言って来たのか。魔族の娘を口説くために、とは……なんという男だ……!」


 あの人の良い笑顔に騙された……と悲しく呟く魔王はフェリシアの肩を大きな手で掴んだ。


「彼に、一体なにを言われた? 怒らないから正直に言いなさい。おまえは何も悪くないと、私は知っているからな」


 鋭く尋ねる。いずれ帰ることが分かっていながらこの娘を悪戯に口説きでもしていたら、かの国を滅ぼしてやろうかと言う勢いだ。


 パチクリと目を瞬いたフェリシアは首を傾げて考える仕草をし、手を叩いた。


「昨日の夕食はなにを食べたか聞かれました!」


 嬉しそうに語るフェリシアを前に、魔王は半眼となって。


「……心配は無用か」と呟いた。

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