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馬車の中は通夜の帰りのような有様だった。
いまだに痺れのひどい両足をさすりながら、キースはこれまでの人生でも上位に来るほど『今すぐ死んでしまいたい……』と思っていたが、友人らの前で口にすることは避けた。
ご機嫌で話す族長と、思いの外和やかに会話をしていたキースの足に異変が起きたのは、腰を下ろしてからわずかに五分後のことだ。
何か細い棒状のもので突かれているような、妙な痺れがあった。
しかしキースも王の子として生まれた男だ。はじめて感じる不快な感覚を毛ほども顔には出さない。
それも、楽しい会話の後、あまり長居をさせては悪いなと族長が促してくれて、辞去の挨拶をと立ち上がろうとした、その瞬間までの話だった。
無数の針で刺されているのかと思った。しかしどれだけ見てもその攻撃を加える敵の姿などない。
驚いて駆け寄ってきたハーピーの女性が足に翼で触れて、ついにキースは声に出して悶絶する羽目になったのだ。
人生でこれほど恥ずかしい思いをしたことはかつてなかったが、しかしハーピーの方々は優しかった。
キース達を嘲ることもなく、むしろ床に直に座ることに慣れていないと知ると謝罪までしてきたのだ。
魔王様も前に足を痺れさせて動けなくなっていたが人間殿もだとは思ってもみなかった、と恐縮した様子で頭を下げてきた族長は、次に来られるときのために座りやすいものを魔王様に聞いて用意しておこうと約束してくれた。
次も来て欲しいと思ってくださっているのだと分かればキースの気持ちも僅かに軽くなる。本当に、ほんの僅かにだが。
そして一行は再び馬車を緩やかに走らせていた。しかし安心するのも束の間、道を外れた横合いから馬蹄の音が響いた。
馬車を走らせて馬蹄が横付けしてくる、というのは普段の山道でなら山賊でも出たかと腰を浮かせるところだが、ここは魔王様の『庭』らしい。
となるとこの蹄の音も当然、キース達の知る馬などではあり得なかった。
こちらの進路を止めるように馬車の前に立った巨体に、目を見張った。
初めに見えたのは筋骨隆々の男性の上半身だ。短く刈り上げられた黒い髪を持つ顔はキースよりもやや歳が上の男性のもので、大きく張った肩から腰までには盛り上がる筋肉がバランスよく付いている。
問題は腰よりも下だった。
肌色だった腰から下は毛艶の良い短毛で覆われていて、足があるはずの部分は急に細くなっている。それが何かはキースにもすぐにわかった。
キースがもし最も親しみのある生き物はなにかと問われれば、彼はすぐに馬だと答える。
ただ移動するだけなのはもちろん、王から与えられた、頭が良く力も持久力もある元気な若い牡馬はキースによく懐いてくれて、遠乗りに出ればどんなに嫌なことでも忘れられるほど気持ちがいい。
その牡馬は黒鹿毛だが、目の前の男性の下半身もまさにその色だ。色どころか、形、大きさまで馬そのものだったのだ。
先ほどのハーピーの女性といい、あまりの異形の風体を目の当たりにしてキースはごくりと唾を飲み込んだ。
「ここは俺達ケンタウロスの住む草原だ。人間殿。何しに来た?」
響くような低音で問われ、混乱した。
言葉はあまりにもざっくばらんで、いっそ乱暴とも取れるものなのに、馬の下半身を持つ男は満面の笑みを浮かべているのだ。
小さな黒い瞳はこちらへの親しみと多くの好奇心で輝いている。
まさか、とキースは思った。
魔族の方達は人間のキース達がここにくるからと人間の言葉を勉強してくれたはずだ。だから先ほどのハーピーの女性も拙いながらも人間の言葉で話しかけてきてくれた。
もしかしてこの男性の言う『何しに来た』は『どのような御用でしょうか』というくらいの意味なのでは。
「ま……魔王様のお庭を拝見しておりました。こちらへの扉の場所を存じ上げず、迷い込んでしまいましたが、ご迷惑でしたらすぐに引き返します」
恐る恐る返せば、馬の下半身を持つ男性はきょとんとして首を傾げた。
「迷惑じゃない。会えて、とても嬉しい」
安堵に体から力が抜け、大きく息を吐いた。
そんなキース達の様子を男性は不思議そうに見つめている。
「けど、残念。族長は留守だ」
「そうですか……でしたら申し訳ございませんが、今日はお住まいには立ち寄らずに改めて御挨拶に伺わせていただこうと思います」
途端に男性は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「悪いが、言葉が難しい。もう少し、簡単に言ってくれないか」
思わず固まってしまったキースだった。
相手が五歳の男の子であれば身を屈めて『おうちの人がいるときにまた来るね』とでも言ってやるが、相手はどう見てもキースより年上で、立派な体格の人物で、その上初対面で、人間とは違う別の種族だ。
このような相手に丁寧に話さないというのは、キースには計り知れない難題だった。
無意識に隣に座る友人に助けを求める目を向けようとして、すぐに堪える。
条件は彼らも同じことだ。なら目上の自分がその嫌な役割を押し付けるわけにいかなかった。
「…………また……御在宅、いらっしゃる、いえ、その……家に……族長様がいる時に、来ます……」
「分かった。伝えておく」
どうかそのままは伝えないでくれとの心の底からのキースの願いを知らず、男性は出口まで送ろうと申し出てくれた。
これは本当にありがたいので礼を言って頭を下げる。
しかしここでも予想外のことが起きた。
身を翻した男性が馬蹄を響かせて走り去ってしまったのだ。
まるで競走馬のような走りだしだった。
慌てて御者が馬に鞭を入れたが、キース達という荷物を引いている分、こちらに分が悪い。
あっという間に大きな姿は見えなくなってしまった。
思わず同乗する者達を振り返る。しかし近習のすべての視線が責任者であるキースに集まる。御者すらもキースに指示を仰ぐ目を向けてきていた。
仕方ない。元いた場所へ戻るか。と後ろを振り返り、絶句した。
慌てて追いかけてしまったからか、同乗する誰も、馬車の周囲に起きた異変に気付いていなかったらしい。
馬車の周りを囲んでいた木々の連なる森はなくなり、かろうじてあった道すらなくなり、周囲には低い草ばかりの草原が広がっていたのだ。
魔王城の庭の樹木は少し見上げれば空が見える程度の高さしかないものだった。ハーピーの住む森の木ははるか高くまで伸びていた。先ほどまでは確かに森の中で木々に囲まれていたと言うのに、現在キース達のいる草原には道すらなく、所々に細い木は見えるがそれくらいで、今通ってきたはずの道がすっかり分からなくなっていたのだ。
問題はそれだけではない。遥か彼方に地平線が見える。その地平線へと、夕陽が沈んでいくのが見えるのだ。──魔王城を出発したのは午前だったというのに。
ハーピーの住む森から魔王城の庭へと戻り、再びケンタウロスの住む草原へと扉を通って来てしまったということは分かっている。
ハーピーの住む森もまだ昼頃の明るさだった。しかし現在。キースは沈む夕陽の眩しさに愕然と目を見張っている。
キース達の乗る馬車は、魔王城とは時間帯すら違う異郷へと一瞬で移動してしまったらしい。
ここがどこなのか、全く分からない。ただ世界地図を持ち出さなければならないほど遠くにいることだけは確かだ。
同乗する全員の顔を順番に見つめ、声が震えないよう気をつけて口を開いた。
「無闇に動くのは危険だ。彼が戻ってきてくれるのを待とう」
「そう、ですね……」
ライルの返事に、恐らくは自分と同じことを考えているのだろうとキースは思った。
たった今会ったばかりの自分達のために、戻ってきてくれるのだろうか、と。
忘れられ、そのまま放置されたらキース達が魔王城に戻る術はない。
キース達は魔王城の庭で、情けなくも遭難してしまったのだった。
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