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SR満州戦記1  作者: 異不丸
第四章 八月四日
19/29

二 謀計


南満州鉄道京浜線、急行九〇四号列車


 京浜線急行の途中停車駅は、双城堡、三岔河、徳恵の三駅である。哈爾浜を二三時五五分に発ち、新京に七時二〇分に到着する九〇四号列車は、新京発九〇三号の復路である。どちらも夜行列車として運用されていたから寝台車だった。寝台の中では煙草は吸えないから喫煙室が別にある。列車は定刻どおり徳恵駅を出発した。あと二時間で新京に着く。朝食を予約した客はそろそろ起き出す頃である。

 軍服に着替えた加茂が一等喫煙室に入ると、詰襟のボーイがコーヒーのポットを持って来た。ボーイの詰襟は満鉄の制服ではなく中学校のものだっだ。応召者が抜けた後の人手不足は満鉄でも例外ではない。すでに三年前から中学卒・高等小学卒用の機関士短期養成科を設けていたが、ボーイまでは対応できない。国民勤労動員令で多くの高等小学生や中学生が満鉄に動員されている。それまでのボーイの多くは鉄道教習所に入学した。

 加茂が一本目を吸っていると、今度は旅客専務が入ってきた。手に封筒を持っている。徳恵駅にも鉄道電報が届いていたらしい。皺一つないワイシャツを着けた旅客専務は黙ったまま、封筒を手渡して出て行った。ありきたりの封筒には何も書かれてない。加茂は煙草を消し、封緘を破る。中の用箋の最初に符号があった。哈爾浜駅から三〇分ほど前に発信されたものだ。哈特でまた進展があったらしい。


 加茂は暗号で書かれた本文を頭の中で復号した。内容は加茂の考えを裏づけるものだった。甘粕は邦人避難以上のことを考えている。飯田少佐が言っていた通りだ。加茂にも満州には思い入れがある。過不足ない人生を送らせてもらった。もとより戻る気のない日本は、近いうちに占領下となる。それならば、満州国に殉じた方がいい。満州だけで生き残るすべに賭けるのだ。

 しかし、懸念が二つあった。これから甘粕がやろうとすることは、明日か明後日には覚醒するであろう竹林大尉の目的と合致するのか。特に、満州と日本との関係の面でだ。講和の交渉相手をめぐる海軍との対立が解決すれば、次は講和の条件となる。満州とその利権は講和の条件にあげられるだろう。今は共通している日満の利害だが、日本の講和時に対立化する可能性は大きい。

 もう一つは、果たして甘粕の計画が成功するかだ。それは相手があることで、滅亡が確定している満州国に強要する力はない。持っているとすれば関東軍だが、甘粕の指揮は受付けないだろう。今は海軍政府と対立している宇垣大将が勝利して全権を握る可能性はある。その場合でも、竹林大尉が関東軍を掌握することはない。日本からしかるべき人物が派遣されてくるだろう。


 つまり、関東軍は、甘粕や竹林の命令下で動く可能性はなく、また満州国の軍隊となる可能性もない。関東軍全軍としては、だ。一部が共通の利害や二人の影響を事由として協力することはあり得る。現に、秋草機関長や哈特とは共同関係にあるし、昨晩会った佐々木中将とは重慶工作を再開することで一致した。宇部少将をはじめとする陸士二四期生の多くは、甘粕の影響下におくことができるだろう。

 しかし、それも日満が運命共同体である間だけだ。大本営が発する命令が満州の利害に反する事態に至れば、どう転ぶかは予測がつかない。竹林大尉も宇垣大将も日本のために動いているのだ。いやその前に、関東軍の作戦方針と衝突する可能性もあった。今日の午後には邦人退避計画が確定し、すぐに実行に入る。国境省での大量移動や、都市部生産現場での人員減少は、関東軍の計画に干渉する。

 甘粕大尉はどう進めるつもりだろう。邦人退避で躓くようであれば、満州国の存続など到底できはしない。関東軍との衝突は最後の最後まで避けるべきである。だが、しかし。ま、それが面白味であり、中にいなくては味わえない醍醐味でもある。加茂は喜んで渦中に飛び込み、味わせてもらうつもりだった。比良や本間も同じ気概だろう。





浜江省哈爾浜、新市街区車站街


 哈爾浜特務機関本部の機関長執務室では朝から人の動きが激しかった。要員がひっきりなしに入って来て新しい情報を持ち込み、指示を受けて次の情報収集に出て行く。動かないのは執務机の秋草部長とその前の椅子に陣取った総務班長だけだ。昨晩遅くからソ連軍侵攻に関する最新情報が入電し、その整理と裏取りに追われているのだ。中共軍の満州における活動に関するものもあり、裏取りは北支の特務機関にも及んでいた。


 一〇時前になるとだいたいの整理は終わり、残る作業の目途もついて来た。副官が紅茶を運んで来て、ようやく二人は一息つく。総務班長が秋草の煙草に火を点け、話しかける。

「危うく敵に先手を取られるところでしたね」

「うむ、松花江出張所を先発させてよかった」

「海拉爾出張所や横道河子出張所と違って、遠いですからね」

「騎兵をまとめておいて正解だった」

「まったく総参謀長のおかげで冷や汗をかきました」


 憲兵と特務機関を解体、再編成する総司令部の決定は哈特にも影響が及んでいた。遊撃戦の特殊訓練を積んだ白露人部隊を解散させられたのだ。松花江部隊や浅野部隊と呼ばれるおよそ千名の特別隊を、哈特は北満州の三箇所に分駐させていた。しかし、白系ロシア人の部隊はソ連を刺激するとして、秦総参謀長は全員の解散を命令した。

 哈特は解散後の隊員の再就職を仲介し、分隊小隊単位の勤労団として影響下にある開拓団や企業に斡旋した。連絡係として料理店や商店に回されたものもいる。状況三の宣言後に隊員たちは呼集された。海拉爾の部隊は騎兵だが興安嶺山中の開拓村にあり、平地の横道河子の部隊は歩兵で、それぞれ集合はまだ完了していない。



 松花江部隊には歩兵と騎兵があり、歩兵部隊は河川機動の船艇を擁していた。哈爾浜の北を流れる松花江は、南の長白山からの第二松花江と北の大興安嶺からの嫩江が合流したものである。松花江はこの後、牡丹江を合わせ、佳木斯を経て、同江で黒竜江に合流する。

 満州国海軍には海上警察隊と江上軍とがある。主に渤海沿岸を警備する海上警察隊は洋上艦隊であり、日本海軍が指導支援していた。黒竜江を警備する江上軍は河川艦隊であり、日本陸軍が指導支援し、関東軍の指揮下にある。日本陸軍は大規模な船舶部隊を持ち、輸送船だけでなく、揚陸船や空母、潜水艦までも運用していた。江上軍の一部は昨年から日本海にも進出し、海上警備隊と呼ばれる。


 江上軍艦船の整備は松花江を遡上した牡丹江の造船所で行なわれていたが、哈爾浜にも艦隊基地がある。松花江で河川機動を行なえば、迅速に部隊を移動、展開できるのだ。つまり、松花江部隊の歩兵は東に備えたもので、横道河子の後衛ないし増援ともなる。佳木斯と同江の間は広大な三江湿地帯で、日ソ両軍の機甲部隊の機動を妨げる。関特演では、この湿地帯における機動の研究が行なわれた。河川機動はその解の一つである。

 松花江部隊の騎兵は北に備えたものであった。海拉爾の騎兵は大興安嶺の西側が主担当で、東側は哈爾浜の騎兵が担当する。しかし、哈爾浜は黒竜江からも大興安嶺からも遠いので進出に時間がかかる。秋草は、嫩江の河川機動も使って一個騎兵中隊を先行させた。二個小隊が黒竜江を渡河してソ連領内に侵入する。その任務はソ連軍の後方撹乱である。



 総務班長が言う。

「大収穫です。こんなに欧州の情報が入るとは」

「林田中尉は殊勲甲だ」

「侵攻時期、兵力把握と合わせると特進ものです」

「二階級でもいい」

「この現物は新京に直接送りますか?」

「ああ。ここには置かない」

「では、総参謀長に頼みましょう」

「それはいい」

 そこでようやく二人は笑った。


 満州国は、シベリア鉄道沿いのチタに総領事館、黒河対岸のブラゴヴェシチェンスクに領事館をおいていた。チタの総領事館は、シベリア鉄道を見下ろせる丘の上にあって、極東ソ連軍の増減を見張る絶好の拠点である。哈特はどちらにも要員を潜り込ませていた。チタ総領事館の林田中尉がソ連軍侵攻を七月中旬から八月中旬とする情報を送ってきたのは六月初めだった。


 その後も極東ソ連軍増強の具体的数値が送られて来た。連絡が途絶えたのは十日前である。開戦が間近になって、領事館は監視下におかれ、職員は監禁状態にあった。シベリア鉄道で移動中の外務省クーリエも最寄り駅で足止めを喰らっている。今回、それらの状況も判明した。

 林田が異変を察知し、寸前に警報を発したからだ。チタ総領事館やブラゴヴェシチェンスク領事館に隠密滞在していた要員は脱出に成功し、各地の要員に警報を中継した。全員がすぐに行動に入った。その中の二人が大興安嶺山中の松花江騎兵部隊と合流したのは昨晩遅くだった。


 欧州各地の情報に加えて、モスクワの哈特要員の近況も判明した。連合国占領下のベルリンの状況も分かった。ソ連の占領政策は想像したとおりにひどく、米英のそれも褒められたものではなかった。これを通常の手順で報告すれば、大本営の和平に対する考えは激変するだろう。ヤルタ会談の情報が参謀総長に届かなかったことを考えれば、策を講じなければならない。

 また、思いもしなかった大本営の状況が入り、誰が参謀総長への情報を握りつぶしたかが判明した。ウラジオストクで入手されたものである。海軍長老派に掌握された政府だけでなく、陸軍の省部も深刻な状況下にあった。宇垣大将の危機感が理解できた。このままでは日本も満州も、そして関東軍も破滅する。それらの情報は、秋草に重大な決断を強いるものだった。


 深刻な顔に戻った部長を見て、総務班長が言う。

「甘粕機関はうまくやりますよ」

「そうだな」

 総務班長は時計を見た。

「部長、状況四に入ります」

「うむ」



 激しい木管のトリルとティンパニの連打に続き、力強い金管の合奏が建物内に響き渡った。状況四の開始は、ショスタコーヴィチの交響曲第5番第四楽章だった。通常の盤よりゆったりとしたテンポで、その分、ティンパニの連打が腹の底に響く。木管が空襲で金管が砲火、そしてティンパニは戦車群の進軍だ。まさにソ連軍侵攻の合図に相応しいと、要員は揃って頷いた。

 秋草は、弦の響きは炎を表わしていると感じた。ビルが崩れ落ち、工場が蹂躙され、劫火が広がっていく。秋草少将の目には、燃え盛る新京や奉天が見えた。すでに灰燼に帰した東京や名古屋に続いて、満州の大都市も破壊されようとしている。


 佐々木中将は、講和交渉はすでに手遅れだと言った。小磯内閣で妥結すべきだったのだ。春までは複数の工作が進んでいて、それぞれ交渉の余地は十分あった。選択肢を潰したのは帝国自身だった。先月の米英支のポツダム宣言は受諾してもよかったのではないかとも言った。

 秋草は今、なぜポツダム宣言を受諾できなかったかを知った。決心を覆すものではないし、すでに決断は終わっている。ここ満州で出来る選択肢は一つしかなかった。





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